Romantic comedy #5




「そりゃあかんわ」


 そう言うと先輩は、顎をあげて大笑いした。



 お昼時のカフェはとても混みあっていて、席に案内されたはいいが、店員さんはお水を持ってくるどころか近よってくる気配すら見せない。

 先輩が退屈しのぎに「最近どうなの」と扇子で頭を叩くジェスチャーでもってせっつくものだから、ぽつりぽつりと話すうちに、いつの間にかすべてを打ち明けてしまっていた。
 空腹のせいで知能も判断力も低下している。こんなこと話すべきではなかったのに。



「もう……笑いごとじゃないんですよ」



 私はわざと深刻そうに眉をひそめてみたけれど、こうして先輩が笑い飛ばしてくれなかったら、ことの重大さに打ちのめされてもっともっとダメージを受けていたと思う。だからこそ先輩はあえて、なんてことないふりをしてくれたのかもしれない。



「あーごめんごめん。まぁたしかになぁ……うちかてさすがに家探しはせんし。やっぱヌ……」

「……」

「やっぱあんたの彼氏はすごいなぁ」

「彼氏じゃありません」



 先輩は「付き合ったらえぇやん」と、また無責任なことを言う。ランチのセットにサラダも追加したらえぇやん、くらいの軽さで。



「やらかした自覚はあるんですよ……でもあのときは、そうせずにはいられなかったっていうか……」

「ふんふん」

「あの人がなにを考えているのかわからないから……少しでも知りたくて……。彼、秘密主義だし」

「たしかに白膠木くんはミステリアスなとこあるけど、彼にかぎった話とちゃうやろ。うちも本気で惚れた男の気持ちはわからんもん」

「でも、元カレのときは――」



 そこまで言いかけて口を閉じた。わざわざ言わずとも答えはでている。かつて彼らの気持ちが手にとるようにわかったのは、そういうことだったんだ。

 ほんとうに私は、今までなにをしてきたんだろう。たった一度だって、誰かを本気で好きになったことがなかったんだ。
 あらためて自覚してしまうと、なさけないような申し訳ないような。自分の未熟さにあきれてしまう。

 今ならスペースシャトルに乗りたがった彼らの気持ちが痛いほどに理解できる。私も簓さんと月まで行きたい。ほかの誰かじゃなく、簓さんと、ふたりきりの宇宙船で。



「……そりゃあ、物語の外におる人間は大局を見やすいやろなぁ」


 先輩の声はやさしかった。

 それきり私たちは黙りこんで、先輩はメニュー表に、私は窓の外に視線を移した。クリスマスが近づく街の様子はどこもかしこも浮ついた雰囲気で、ただ眺めているだけでなにか楽しい予定が待っているような気がしてくる。





「お待たせしてすみません。ご注文はお決まりでしょうか?」


 店員さんが慌てた様子でお水を持ってきた。


「えーと、うちはランチセットのぉ、パスタはポモドーロ、ドリンクはホットコーヒーで。……あんたは?」

「オムライスとアイスティをお願いします」

「かしこまりました」

「…………」


 注文し終えたあとも、先輩は前のめりになって私の顔をまじまじと見つめてくる。どうしたんだろう。


「……やっぱあんた変わったやん」

「え?」

「前は自分で決められんかったやろ。さんざん迷ったあげくに1ページ目の "今日のおすすめ" 、みたいなつまらんメニュー頼んどったもん」

「つまらんメニューって……いいじゃないですか、今日のおすすめ」

「いや、うちはほんまに嬉しいよ。あんたもようやくこっち側に来たんやわ」



 ようこそ。そう言って先輩は両手を広げる。回転寿司のコマーシャルみたいに。

 先輩の言う "こっち側" とは、物語の内側のことなのだろう。本のページをめくる読者から、いつしか登場人物のひとりになっていたらしい。なんともいえない妙な心地だった。相手の気持ちがわからないのはもちろん、自分の胸の内さえも無秩序に散らかっていて混沌としている。それでいて、どこか清々しさすら感じるのが奇妙だった。



「よっしゃ、今日は記念日や。うちがおごったる」

「いつもおごってくれるじゃないですか」

「デザートもつけてえぇで」





















 雑誌のインタビュー記事でしばしば見かける、苦境を振りかえっての「仕事に救われた」なんてコメントは、ただのリップサービスだと思っていたけれど、もしかするとあれは本心だったのかもしれない。

 仕事中だけは無心になれた。隣にはいつだって陽気な先輩がついていてくれるし、年末特有の慌ただしさに忙殺されて、考えごとをしている余裕がないおかげだ。日中にかぎっては「白膠木簓」を忘れられる。
 ちょうど彼は見計らったようなタイミングで海外ロケに行っていて、TV局で鉢合わせる心配がないのも幸いした。たとえいっときでも、彼を思考から追いやれるのは助かる。


 けれど、こんなふうに家でひとりきりの静かな夜には、どうあがいたって思い出してしまう。



『きみはどこにも行かんよな?』


 簓さんの悲痛な表情がよみがえる。

 あの夜、足の踏み場もない部屋にぽつんと取り残された彼は、なにを思ったろうか。
 「行くな」と言う彼の腕から逃げだして、あらゆる連絡を絶ってしまった私をどう思っただろう。返信をしない相手にせっせとメッセージを送り続ける心境とは。


 彼がなにを感じたにせよ、あの夜の私はほんとうにどうかしていた。狂気じみていた。クレイジーなんてもんじゃない。コントロール不能、暴走状態。頭のなかで鳴り響くサイレンが頭痛となって私を蝕み、それが余計に判断力を鈍らせていた。

 主観的に見ても客観的に見ても、首をひねってどの角度から試してみても、私のしたことは迷惑で非常識で、とにかく最低最悪だった。どうしてあんなことをと、今になって後悔したところでもう遅い。なかったことにはできない。



 首を振って、ネガティブな思考といっしょに彼の存在を頭から追い払う。今後どうするにせよ、あの人は海外ロケで日本にはいないわけだし、あれこれ考えても今は打つ手なしだろう。

 棚上げしたところでなにかが変わるわけではないが、そうでもしなければ、まともに日常生活を送れるとは思えなかった。せめて彼が帰国するまで、私のなかで膨らみ続ける彼の存在を箱に入れて閉じこめておきたかった。



 とはいえ、彼をシャットアウトするのは大変だった。

 白膠木簓の存在に一切ふれずに過ごすためには、外界からの情報を遮断する必要があった。
 もちろんテレビなんて見られない。最近はバラエティだけにとどまらず、教育番組からコマーシャルにまで出演している彼のことだ、いつどこで顔をだすかわからない。ネットやラジオも、SNSなんてもってのほか。最近はスマホの電源もオフにしておくことが増えた。


 けれど、そうして考えないようにと躍起になればなるほど、心の奥底から彼が溢れてきてとまらなかった。目に入るものすべてを彼と関連付けてしまう。駅のホームですれ違う男性の赤いネクタイや、道路の真ん中で伸びをする眠そうな野良猫。なにもかもが彼の顔に重なってしまう。1万キロも離れているのにすぐ隣にいるみたいに。


 部屋を歩きまわり、わけもなく冷蔵庫のなかを覗く。ジュース、調味料、さくらんぼ、それから冷凍庫にバニラアイス。忙しさにかまけて自炊をしなくなったせいで、家にはろくな食材がない。
 冷気を浴びながらしばらく冷蔵庫を眺め、唯一の食べものらしいものに手を伸ばす。スーパーで気まぐれに買ってしまったさくらんぼ。ひとつかみぶん洗って皿に盛る。赤色の粒が水滴を弾き、瑞々しく輝いている。噛むと口いっぱいに甘酸っぱさが広がり、思わずため息が漏れた。


 頭のなかが散らかっていると身のまわりも散らかってしまうらしい。家中ひどい有様だった。床に散乱する洋服を横目で見つつ、まずはテーブルの上から取りかかることにした。皿を下げ、お弁当の容器を捨て、コスメをポーチにしまう。

 一箇所にたまっていた郵便物を整理していると、クレジットカードの明細と近所のスーパーのチラシの間から、一枚のポストカードが滑り落ちた。


 目の覚めるような、鮮やかな橙黄色の夕焼けだった。あるいは朝焼けかもしれない。地平線に太陽が半分隠れたその瞬間。たった一匹、取り残されたようにぽつんと佇むキリンのシルエットはどことなく寂しげだ。思わずぼうっと見入ってしまうほどに、美しい写真だった。


 差出人は誰だろう。
 なに気なくポストカードを裏返して、ぎょっとした。

 ローマ字で書かれた私の住所の、その横に「SASARA NURUDE」の文字が踊っている。


『日本の人、聞こえますかー』



 書いてあるのはそれだけだった。
 よほど書くことがなかったのか、それともスペースが足りなかったのか、簓さんにしてはめずらしく他人のネタだった。

 ポストカードの隅にはイラストが描かれている。あの夜彼がネタ帳に描いたのと同じ、私の顔の落書き。それはあいかわらず風船みたいにまぁるくて、今にも風で飛ばされてしまいそうだった。



「どうして……」

 と、呟いてから気づいた。ほんとうは、心のどこかでわかっていたんだ。

 彼から送られてくる一日の出来事を綴ったメッセージや、留守電に残された他愛ない冗談。地球の裏側から届けられたポストカード。その意図を理解しかねるほど、子どもではないし愚かでもない。


 それらはすべて、彼からの許しだった。

 なに気ない言葉の裏に「俺はなんも気にしてへんよ」というやさしい声が聞こえてくる。



 でもどうか、私を許さないでほしい。

 たとえ彼が許してくれて、この件が笑い話になるほど風化したとしても、いつかきっと私は同じような醜態を晒すだろう。彼を好きでいるかぎり、また必ず繰りかえすという予感よりもさらにはっきりとした確信があった。


 現に今だって、家を飛び出したくてたまらなかった。身ひとつでタクシーに飛び乗って空港に行きたい。目指すはアフリカ、野生動物の楽園。彼がポストカードにホテルの住所でも書いていたなら、この一枚を頼りに赤道をまたいでいたかもしれない。そう思うとぞっとする。
 あんなことはもう二度としたくない。彼に迷惑はかけたくないし、困らせたくない。嫌われたくない。これ以上、自分を見失いたくはない。


 簓さんのやさしさに甘えて、よりかかったままではいられないとわかってはいても、一方では彼と離れたくないという強い思いがせめぎあい、八方塞がりしている。考えても考えても思いがまとまらず、作ったばかりの砂山を波がさらってくように消えてしまう。思考が散り散りになってしまう。


 今後この曖昧な関係にどんな名前がつけられるにせよ、彼が帰国するまでには気持ちの整理をしておかねばということだけははっきりとしていた。遅かれ早かれ決着をつけなくてはいけない。たとえ簓さんからの連絡が途絶え、フェードアウトしていくにしても、このままでは私はどこへも進めないし、後にだって戻れない。そんな気がする。


 ソファに寝転がり、ポストカードを指先でなぞりながら、地球の裏側にいる彼のことを思った。サバンナの真ん中で動物に追われながらも、腹の底から叫んでいる。日本の人、聞こえますか。聞こえたら返事してください。日本の人、聞こえますか。





5話:赤道をこえて(2020.02/03)


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