Romantic comedy #4
週末の夜になんの予定もなく家路をたどっていると、一晩遊び明かした朝よりもくたびれた感じがするのはなぜだろう。
どこか虚しい気分になる。世界中で私だけが、ただひとりの夜を過ごしているような。
きっと、コンビニで考えなしに手にとってしまったメロンソーダのせいだ。それから、ビニール袋の持ち手が手のひらに食いこんで痛むせい。もしくは、半日鳴らないスマホのせい。
『午後は生放送やねん〜』
簓さんからのメッセージは、12時55分が最後だった。
生放送。それなら返信が来なくても仕方がない。
頭では理解していても、気にせずにはいられなかった。
最寄り駅で降りてから信号待ちのたびスマホを取りだしてしまう。新しいメッセージなし、着信なし。当然だ。ついさっき見たばかりなんだから。
ため息まじりに夜空を見あげてみたりして。
あいにく朝から曇りがちで、月も星も見えなかった。明日は雨になるのだろうか。
こんなふうに誰かを思って空を見あげたり、連絡を待ち望んだりする日がくるなんて思いもしなかった。私らしくない。だいたい、私らしさって?
家に着き、真っ先にテレビをつけて番組欄から彼の名前を探してみる。残念ながら生放送は撮りそこねてしまったが、21時のバラエティ番組に出演するらしい。指先が迷いない動きで録画ボタンを押す。
コンビニの袋からお弁当を取りだし、メロンソーダを冷蔵庫の奥にしまう。とくに飲みたくもないのに、どうしてか家の冷蔵庫は緑色の液体に侵略されてしまっている。
ぬるいお弁当を食べ終えるとすぐに、SNSでワード検索にとりかかった。
「白膠木簓、いた」「白膠木簓、見た」「白膠木、pic」「白膠木、彼女」このように、検索履歴には彼の名前が連なっている。
ネットで彼の行動を探るのは日課になりつつあった。
まずいとわかっているのに、止められない。そうせずにはいられない。
こんな経験は初めてで、自分でも困惑している。
今でも簓さんとは時間が合えば楽屋で話しをしたり、食事にも行ったりしているけれど、忙しい彼と都合をつけるのはむずかしく、そう頻繁には会えなかった。
そもそも私は簓さんの恋人ではないし、かといって友人と括るにはなんだか踏みこみすぎてしまった気がするし、とにかく曖昧な関係だ。だから、たとえこのまま疎遠になったとしても、責められる言われはないのだ。私も、簓さんも。
キスは一度したが、あれはほとんど事故のようなものだった。
あのとき――とつぜんのキスのあと、簓さんは慌てた様子で、
「えらいすまんなぁ、可愛くてつい」
なんて言っていた。
そんな言い訳があってたまるかと思う。
けれど、簓さんの表情はたしかに申し訳なさそうに見えたし、それ以降は手もふれてこないので、ほんとうにそのつもりではなかったのかもしれない。
一歩進んで十歩下がった感じだ。
バスルームに向かう途中、また歩きながら無意味にスマホを見てしまった。新しいメッセージなし、着信なし――あぁ、がっかりするくらいなら見なければいいのに。
最近はお風呂に入るときもスマホを持っていく。この時間はよく簓さんから連絡がくるのだ。
過去のメッセージのやりとりを読みかえしたり、ふたりで撮った写真を眺めたりして湯船でくつろいでいると、ふいにスマホが震えだした。
画面には白膠木簓の文字が浮かび、着信のメロディが私を急きたてる。
慌てながらも慎重に"応答"をタップした。
『もしもし〜今なにしとった〜?』
「お風呂に入ってました」
『あー、せやったの。えぇなぁ。……ってか、今の若いコはスマホ持ったまま風呂入るん?』
「若い子って。簓さんもそんなに変わらないですよね」
まさか、あなたからの連絡を期待して肌身離さず持っているんです、とは言えない。
『3つ4つ違えば十分若いコやんけぇ〜』
電話越しの簓さんはいつにもまして機嫌がよさそうだ。なにかいいことでもあったんだろうか。
「テンション高いですね。なにかいいことありました?」
『いや、たいしたことやないねん……今な、タクシーのなかでネタ帳見返しとったら、俺が落書きしたまぁるい顔の
なまえちゃんが出てきて、ふいにきみのこと思い出してなぁ。ほんで、なにしとるかなぁ、思て。…………あはっ。なんや俺、きっしょいなぁ〜! 引くわ!』
ノートに向かっているときの簓さんの真剣な表情が、ふっと緩むのを想像してみる。
彼の視線の先には丸い顔の私のイラストがある。
そんなふうにして、私が簓さんを思っているときに、彼もまた私のことを考えていてくれたなんて。にわかには信じられなかった。
「寂しくなっちゃいました?」
『んふ、せやねぇ』
「私もあの日のこと、たまに思い出しますよ」
『ほんま?』
「ほんまです。簓さんがクリームソーダー飲みたがってしつこかったこととか、寒いオヤジギャグ連発してたこととか――」
『いやほかにもあるやろぉ! 俺らの出会いの夜やんけぇ!』
出会いの夜って。あまりにロマンティックで甘い響きに、笑いがとまらない。
『うわ。めっちゃ笑うやん。ひどない? 俺にとっちゃほんまに特別な夜なんやで?』
「ふ、ふふふ、すみません」
『しかも、あの夜はいいネタが思いついてん。
なまえちゃんがいっしょにおったおかげやなぁ』
「そうだといいですけど」
『俺な、昔っからそやねん。ひとりでおるより、人の気配があったほうが集中できるんやな。せやけど、誰でもえぇってわけとちゃうで、ほんまに信頼しとる相手やないとあかんねん』
「会ってすぐの私のことも信頼しちゃってたんですか」
『まぁ……せやね。あんとき、きみは寝とったし』
「…………」
『ちゅうか、普通寝るか? 今や飛ぶ鳥を落とす勢いの、熱ぅい芸人白膠木簓さんが目の前におったのになぁ』
「もう、その話はいいじゃないですか」
今度は簓さんがけらけらと笑う。子どもが笑いころげるような無邪気な声だった。
『そういやコンビ組んどったときも、ひとりより相方が隣におったほうがえぇネタ浮かんだわ……まぁ、俺よりあいつのがおもろいネタ書くんやけどね〜』
もとはコンビだったという話は聞いていたが、元相方ってどんな人なんだろう。警戒心の強い簓さんが全幅の信頼を寄せるのであれば、まずもって悪い人ではないはずだ。
会ってみたいな。一度でいいから。私はどんどん欲張りになっていく。
「…………」
『ん? ……もしもーし? あれ、切れてしもた?』
「聞こえてます」
『ほうか。……あ、運転手さん、ここでえぇわ。ハイ。どうもおおきに。…………あ、ほんでな、今日食レポあったんやけど――』
生放送で熱々のおでんを食べさせられた、という簓さんの話を上の空で聞きながら、私は湯船から出て着々と服を着始める。ミュートにして手早くドライヤーをかける。落としたばかりのメイクをし直す。
私の意識が散漫になっているのを察したのだろうか、簓さんはいつもより早めに話を切りあげて、
『ほなな。おやすみ』
と電話を切ってしまった。
それが合図だった。よーい、どん。私はほんとうに飛びだしていく。
コートを羽織る暇すら惜しく、小脇に抱えてマンションの階段を駆けおりる。ヒールの音がけたたましく鳴りひびいて、時折足を踏み外しそうになったけれど、止まらなかった。夜道を全力で走った。走る必要なんてないのに、走っていた。その勢いのまま駅前に停車していたタクシーに乗りこむ。
行き先は決まっている。決まっていないのは目的だけだ。
タクシーは長い橋を渡って、徐々に喧騒のもとへと近づいていった。この川を越えた先には中心街が広がっている。
ただでさえ賑やかなオオサカの街だ、それが金曜の夜ともなればなおのことだろう。遠くからサイレンの音が聞こえる。火事か、なにか事件でもあったのかもしれない。
あるいはそんな音など存在せず、私の頭のなかだけに響いている幻聴なのかもしれなかった。今ならまだ引き返せる、やめておけ、と理性がかき鳴らす警告音。サイレンが近づくにつれ、かすかによぎっていた頭痛も増していく。
「ここで停めてください」
お札を握る手が震えていた。緊張と、興奮と、それから寒さのせいもある。髪が乾ききらないうちに出てきてしまったから。
意を決してオートロックのチャイムを鳴らすと、いぶかしげな声で、
「どちらさん?」
と返ってきた。
この時間の来客だ、警戒するのも無理もない。カメラに映るように顔をあげ、名乗ると、ほとんど絶叫に近い驚きの声が響いた。
「えぇえ!? きみ、どないしたん?!」
「…………すみません」
「いや、えぇんやけど…………まぁとにかく入って」
通話が終わるとまもなくエントランスが解錠された。
すみません、のほかにも、ひとこと言い添えるべきだったろうか。夜分遅くに、とか? 連絡もせずにいきなり押しかけて、とか?
いくら頭を捻ってみても、形式だけの白々しい言葉しか思い浮かばなかった。
簓さんはエレベーターの前で待っていてくれた。部屋着のまま、心配そうな表情を浮かべている。
そんな彼の姿を見てしまうと、もう、いてもたってもいられなかった。
エレベーターの扉が開くと同時に飛びだしていく。
簓さんはしっかりと抱きとめてくれた。
「っ……、ほんま、どないしたん?」
「わかりません」
彼の胸に顔をうずめたまま、首を振る。
「私にも、わからないの」
家に入るなり、急きたてられたようにキスをかわしながら靴とコートを脱ぐ。よろめいて、立て直して、ふたりでひとつの生命体のように絡みあう。口づけはより深く激しくなり、それに伴って呼吸も乱れていく。
「っ――、あっ……」
壁に強く押しつけられ身動きが取れない。その不自由さがじれったくて、切なくて、彼を求めるあまり爪先立ちになる。もっとキスがほしい、さわってほしい、さらにその先まで導いてほしい。
そう思ったのに、簓さんは一度すべての動きを止めて、体を引き剥がすようにして私の両肩を掴んでしまう。
「はぁ……っ、あせったらあかんよ」
まるで自分に言い聞かせているみたいだった。
あせったらあかん? どうして。あせったっていいじゃない。我慢なんてしなくても。
そんな思いをこめて、餌をもとめるみたいに口を半開きにしてみせる。さっきと同じ、呼吸もおぼつかないようなキスがほしい。今すぐ。早く。
簓さんはしばし私を見つめていたが、ふたたび吸いよせられるようにして口づけた。
口づけと呼ぶにはあまりに野性的に、下唇にむしゃぶりついている。あのときのふれるだけのキスとはなにもかもが違う。むきだしの本能にふれて、肌が粟立った。
「っ……やっぱ無理や。たまらんわ」
そうして彼は私の首の付け根に顔をうずめ、深く長いため息をつく。息がかかって、背筋にぞくりと快感の波が押しよせた。
「あのドア開けた先にベッドあんねん。俺はそこできみを抱こう思っとる」
私がなにも言えずにいると、簓さんはたたみかけるように話を続けた。
「きみは流されやすいタイプやからな。そういう弱みにつけこんだってもええけど、今回にかぎっては10秒待ったるわ。その気やないんやったら、俺が10数えとる間に帰ってくれ」
「…………」
「えぇな?」
最後に念を押すと、簓さんはほんとうにカウントダウンをし始めた。
「じゅー、きゅー、はちー」
なにもかも、見透かされているみたいだ。
かつて私が恋愛と呼んできたもののなかに、どれひとつとして自分の意志で選びとったものはなかったと思う。いつだって流されるがまま、始まりも別れ際も相手任せにしてきた。
そんな私の残酷なまでの無責任さを彼は見抜いている。だからこそ、ムードも流れもぶった切ってまで、私に選ばせようと躍起になっているのだ。
「さんー、にー、…………数え終わってまうで?」
それはまぎれもなく、私の意志だった。
なにも言わず、ただ簓さんの手をとって、エスコートするようにドアを開ける。
「……ほんまにええんやな?」
頷くと同時に抱きしめられた。肩の骨が軋むほどの力強さに、息もできなかった。
そこはベッドが置かれているだけの、文字通りの寝室だった。簓さんのシャツから時折香っていたのと同じ柔軟剤のにおいがわずかに漂っている。
部屋は間接照明の淡い明かりのみが灯されているが、体の輪郭はもちろん、表情までしっかりと見てとれた。私に彼の姿が見えているのだから、彼からも私が見えるのだろう。
ベッドの中央で横座りになったまま、シャツを脱ぐ簓さんを見つめていると、目が合って苦笑いされてしまった。
「ずいぶん熱烈な視線やなぁ……さすがの簓さんも照れてまうで?」
そう言われてもまだ、目を逸らせなかった。気まずいとか恥ずかしいとかそんな感情を押しのけてしまうほど、彼を見つめていたいという衝動に支配されている。
細いけれど男の人の体だった。皮膚の下には控えめながらもたしかな筋肉がひそんでいて、それでいて薄っすらと肋骨が浮きでている。
あぁ、肩の丸みにふれてみたい。角ばった鎖骨を指でなぞって、そのくぼみに口づけたい。
私は今、物欲しげな顔をしているだろうか。
「なぁ、俺には見してくれへんの? ってか脱がせてえぇかな?」
「……だめです」
「はぁ〜!? そらないや〜ん!」
声はふざけた調子なのに、簓さんの表情にはあきらかに普段とは違うシリアスな炎がちらついていた。青く揺れる炎のように、静かだがたしかな熱を持っている。
簓さんは仕切り直しだとばかりに、もう一度私を抱きしめると、キスをしながら器用に服を脱がせていく。
衝動的に家を出たせいで、今自分が何色の下着を身に着けているのかさえ思い出せない。どうかひどいデザインではありませんようにと祈りつつ、絡ませあう舌の感覚に意識を集中させる。吐息は熱いのに、簓さんの舌はわずかに冷えている。厚みがなくてどこにでも入りこんでしまいそうな、爬虫類を思わせる触感だった。
上半身がブラだけになると、簓さんは私の体をやさしく撫で、肩にキスをおとした。肩の次は鎖骨。首。胸。印を残すような口づけだった。
キスが終わると今度はゆっくりとベッドに押し倒された。さっき私がしたように、簓さんはまじまじと私の体を凝視している。仕返しのつもりだろうか。ふむふむと頷きながら、賢そうな表情で腕組みまでして、やけに楽しそうだ。
腕で胸元を隠そうとするも、押さえつけられて頭の上で固定されてしまった。
眼差しに不服をこめて見あげると、簓さんは機嫌をとるように額にキスをくれた。
キスひとつ、たったそれだけで、私はすっかり気分よくなって今度は自分から彼の唇をねだった。上唇をついばむように引っぱったかと思えば、唇全体を包みこむようにして吸われる。キスを続けながら、彼の片手が私の手元に伸びてくる。恋人つなぎだ。私たちは恋人ではないけれど、それでもこれは恋人つなぎなのだ。
そうして片手はつないだまま、空いたほうの手で下着を脱がせていく。慣れた手つきだった。きっと簓さんも日常的にブラを愛用しているのだろうと思うことにして無理やり自分を納得させた。コントでセーラー服を着るように、下着も女性用を身に着けているに違いない。
乱れる息や早まる鼓動に反して頭だけは妙に冴えて、ちぐはぐな感じがする。
絡みあう私たちを離れたところで観察しているみたいな。幽体離脱。そんな感覚だ。
「ぅあっ、……ひゃ……っ!」
ふいに口から漏れた自分の声に驚いて、意識が体に引きもどされた。
胸に顔をうずめる簓さんは、そこを揉みしだいたり先端を舐めたりする。声を抑えようとしても無駄だった。舌の動きにあわせて息が乱れ、声が裏返る。されるがままに喘いでしまう。
「ぁあっ……あんっ、ッ……!」
太ももの内側を這っていた指が、探るように入り口を撫で、ゆっくりと入りこんできた。第一関節から、第二関節、指の付け根まで。
簓さんの指が、深いところを押しあげるように刺激する。やさしくも的確に、自分でもよく知らない奥深くまで。怖くて切なくて、きもちいい。やり場のない感情が下腹部に溜まって腰がもどかしく揺れる。膝をこすりあわせると、簓さんは手を止めて私の顔を覗きこんできた。
「ん? どないしたん?」
力みない声音だが、どことなく切羽詰まった雰囲気を感じる。それは息遣いだったり、汗ばんだ首筋だったり、彼が全身から発する空気感の違いだ。
「ぁ、ッ〜〜さ、簓さ、っ……はぁ、っ、あっ」
「ん……ここがえぇんかな?」
「やっ、……ぅ、っあぁあッ!」
「かわえぇな……」
指を小刻みに曲げられて、頭から足の先へと甘い痺れが駆けめぐっていく。部屋に響く水音に、いやがおうでもその湿り気を教えられてしまう。
快感に抗おうと爪先を曲げすぎて今にも足がつりそうだった。
「あかん、もうたまらんわ…………」
簓さんは指を引き抜くと、そこにまとわりついた液体をみずからの性器に塗りつけながら、もう一方の手で私の足を開かせた。
どこに忍ばせていたのか、いつの間にか持っていたコンドームを歯で破り開け、手際よく装着していく。
「力抜いてな……」
「んっ、…………ふっ、うぅっ………………あっ」
じわじわと沈みこんでくる。お腹の奥、いちばん深いところまで。
息がつまるような圧迫感に屈しないよう、唇を噛みしめる。
根本までおさめてしまうと、簓さんは私に覆いかぶさって深く息を吐いた。彼の呼吸が体中にしみわたっていく。
「あ、んぅ……ふ、ぅっ…………」
「そうそう、上手や。息吐いて、リラックスしぃ」
額をつきあわせて、キスをして、頭を撫でて。ふれられるごとに安堵と緊張が同時にやってきて心がどよめく。
簓さんはしばらくの間、下半身はつながったまま動かずにいたが、やがて私の様子をうかがいつつゆるやかに律動し始めた。
「あっ、……ぅ、ひゃッ、ッ、ぁんっ」
「……っ、ふ、…………くっ、」
「あぁあっ、ぁん、……んぅ…………っ!」
私にふれる指先から、その一挙手一投足から、思いやり深さが伝わってきて、ついに心のキャパシティを超えてしまった。超えてしまったのに、あふれていくうちからまた注がれてしまう。そうしてあふれたものが目からこぼれ落ちていく。もうこれ以上、自分をごまかせなかった。
過去の恋人たちに感じてきた、淡くぼんやりとした曖昧な思いとはまったく異なる、もっともっと、魂を揺さぶるような熱い衝動。この人が好きだという確信めいたもの。
そうだ、私はこの人が好きなんだ。
簓さんが好き。大好き。
彼といっしょなら、宇宙にだって行ける。行きたい。ふたり乗りの宇宙船。それに乗って、永遠に地球には戻れなくとも構わないから。
「っ……うわ! どないしたん?! 痛い?!」
「ちが……っ」
「すまん、加減してやれんくて……!」
声がうまくだせなかった。
代わりにめいっぱい首を振る。
痛いんじゃない。むしろ逆だ。きもちいい。こんなにきもちいいセックスは、うまれてはじめて。
私の心模様はもうめちゃくちゃだ。晴れたり曇ったり、とつぜん嵐が来たり。傘をさしても意味をなさないほどの強風に翻弄され、かき乱されている。
泣き顔を見られたくなくて両手で顔を覆うも、簓さんの手が伸びてきて阻まれてしまう。見あげると、心配そうに眉を下げる簓さんの顔があった。
それを見て、思わず本音がこぼれてしまった。
「これ以上好きになりたくない」
こわいよ。
簓さんの表情には、えも言われぬ心の揺らめきが見えた。
照れくさいような、うれしいような、切ないような、困ったような。どれが彼の本心なのか私にはわからない。あるいは、そのすべてが偽らざるほんとうの思いなのかもしれない。人の心とは複雑で、信号機のように赤青黄色と明白な色に分解できるものではないから。
「あ〜……」
簓さんは気の抜けたため息をつくと、ゆっくりと前のめりになって倒れこんだ。私の体と簓さんの体が重なっている。
彼はそのまま上半身だけ持ちあげて、キスの雨を降らせていく。瞼から頬まで、順繰りにキスをしながら、涙を舌ですくいあげ、舐めとってしまう。
「しょっぱ」と呟く彼の唇は濡れて艶めいている。
「……なぁ、ええやん。なにがあかんの?」
「…………だっ、て……」
「もっと惚れてや」
白夜の空に浮かぶ、太陽のようだった。
その笑顔に私はすっかり安心してしまって、ほっとすると、また涙がこぼれてきた。
「うっ……うぅ、っ、っ簓さぁん〜」
「おー、よしよし。もう泣かんで。大丈夫、大丈夫や……」
恥ずかしい。している最中に泣いてしまうなんて。それも、こんなふうに子どもみたいに。
簓さんは私が泣きじゃくる間、背中をとんとんと叩いてなだめてくれた。私の心をかき乱すのも安心させてくれるのも、どちらも同じ人だなんて、なんだか不思議だ。
そうして私が落ち着きを取りもどしたのを見計らって、簓さんは、
「続きしてもえぇ?」
と、乞うような眼差しを向ける。私は黙って頷いた。
簓さんは私の腰を抱えなおすと、少しずつ入りこんできた。心の隙間にそっと差しいれるようなやさしさで、私の意識の深いところをノックする。
「ッ……ふー……」
「っ、ぅっ、あっ……んっ、ぁんっ」
徐々に腰の動きが大きく激しくなる。内臓に響くほどぐんと突きさしたかと思えば、先端を引っかけるようにして腰を引く。緩急をつけて抜き差ししたりグラインドさせたりする。
奥を突かれると、体が力んで反射的に締めつけてしまう。そのたびに簓さんの眉間にしわが寄った。
「っ、あっかんて、ほんまっ。そんなぎゅ〜っとしたら、簓さんもこらえきれへんわぁ」
「あっ、っ、……だっ、て、……ぁっ、あ、んぅっ、……ひゃぁん!」
その激しさに見あわぬ安らいだ簓さんの表情が、私の胸をさらに熱くさせる。凍てついた心が一気に溶かされて、脚の付け根を濡らしていく。
「きもち、ええなぁ……」
誰に問いかけるでもなく、簓さんはくりかえし呟いた。きもちえぇ。きもちえぇなぁ。
息を吸って、吐いて、また吸って。私は呼吸といっしょに喉が枯れるほどの矯声をあげ続けた。耳を塞ぎたいのに、彼の息遣いを聞いていたくて。目を閉じたいのに、彼の表情を見ていたくて。せめぎあう欲求に押しつぶされそうだった。
体のみならず心までもを揺さぶって、簓さんは私を遠く遠くへと連れ去っていく。もうひとりでは戻れないところまで。
目が覚めると隣に簓さんの姿はなかった。
寝転んだまま手を伸ばし、シーツにふれてみる。まだほのかに温もりが残っていた。
スマホに未読のメッセージが1件。簓さんからだ。
『ラジオの収録行ってくるわ! 頼むから俺が戻るまで帰らんといてよ〜! 朝飯いっしょに食おうな〜!』
ラジオ――そうか、今日は金曜日だ。
簓さんがパーソナリティをつとめる金曜日の番組。
深夜の放送ということもあり、なんとなく敬遠していたけれど、今夜くらいは聞いてみてもいいかもしれない。
いや、"聞いてみてもいいかも" なんて余裕はなかった。今はもう聞かずにはいられない。
あんなふうに私を抱いたあとに、どんな声でどんな話をするんだろう。
もう眠気は飛んでしまったし、彼が帰ってきたときに出迎えたいという目論見もあった。
彼と出会った夜に、タクシーのなかで言われるがままダウンロードしたラジオアプリを起動してみる。起動とほぼ同時にスマホから音楽が流れだした。番組表を見ると、番組開始まであと数分のところだった。ちょうどいいタイミングだった。
スマホを枕元に置いて服を着ていく。目は覚めていても体はまだ眠っているようで、全身が泥のように重かった。
『こんばんは〜ピン芸人の白膠木簓で〜す。早いもので年の瀬が近づいてまいりましたねぇ。クリスマスぅ、それが終わればお正月と続いておりますがぁ。ワイはもちろん今年もひとりきりのクリスマスぅ、それどころかぁ、世界の果てまで海外ロケでございますぅ』
『ふふっ』
『えー、どっかから笑い声が聞こえておりますけどもぉ。今夜のゲストはあの人気アイドルグループの――』
『はーい、こんばんはぁ〜』
『紹介がまだやがな』
『私、ずぅ〜っと前から白膠木クンのファンだったんですよぉ。コンビの頃のネタも好きでぇ〜』
『えっほんまぁ!? どのネタよ!? 言うてみぃ!』
『えーとぉ〜……』
『いやお世辞かい! 勘違いしかけたやろがもぉ〜期待させんといてぇ』
『あはは』
かつてない、まがまがしい感情だった。
どす黒い情念が体内で増幅しつつ渦を巻いている。毒を打ちこまれたようだった。急に胸が痛みだし、吐き気がして、寒くもないのに体が震える。
酸素が足りない。息が乱れ、額に汗が滲んでいく。
両手を握りしめぐっとこらえるも、耐えきれそうになかった。
いてもたってもいられなかった。
『きゃはは』
『ほんまおもろいわ〜』
彼らの笑い声が、わずかに残っていた克己心を打ちのめした。
ベッドから降りて床に這いつくばる。
スマホのライトで照らすがなにもなかった。片手を伸ばし、フローリングに手を滑らせる。髪の毛が落ちていないか。私以外の長い髪の毛。
クローゼットを開けて服を引っぱり出す。上着のポケットのなかを探る。シャツも下着も鞄も帽子も、すべて男物だった。
さらにその奥に並んでいた紙袋から出てきたのは女子生徒の制服だ。紺色のセーラー服に臙脂色のスカーフ。震える手でサイズを確認するとLLだった。たぶんコントに使うための衣装だ。
安堵しているのか落胆しているのか、自分でもわからない。
私はなにを探しているんだろう。
そういえば、あのとき――簓さんと同じ事務所の芸人に呼びだされたとき、彼は意味深なことを聞いてきた。白膠木の家に行ったことはあるか、なにかおかしなものを見なかったか。
たしか、あの男は "マイク" と言っていた。
マイク? 空気振動を電気信号に置き換えるだけの機器に、いったいなんの価値があるというのだろう。
もしくは一般的なマイクのことではなく、違法薬物を指す隠語だとしたら――まさか。簓さんにかぎってそんなことは。
リビングに移動してテレビの周辺を探る。マイクどころかなにも見あたらない。綿のようなホコリがコードに絡まっているだけだった。
ソファの隙間に手を入れるとボールペンが出てきた。棚にあった眼鏡ケースに眼鏡は入っていない。渋い色なので男友達の忘れ物かもしれない。
廊下の壁に肩をぶつけながらバスルームに向かう。
どこからかはぁはぁと荒い息遣いが聞こえてきた。
背中にとり憑いた化け物に命じられている気分だった。早く見つけろ、きっとなにかあるはずだと、耳元で化け物が囁いている。
バスルームの排水溝に溜まった髪の毛を手のひらに広げて調べる。床に長い髪が落ちていないかと目をこらす。ゴミ箱のなかを漁る。シャンプーの種類は。トリートメントは。乾いたカラーコンタクトのゴミが転がっていないか。洗面台に女性向けの化粧品が並んでいないか。洗濯物に甘い香水が残っていないか。
とにかく無我夢中だった。
真後ろに立つ彼の気配に気づかないほどに。
「――なにしとるん?」
背筋につめたい汗が伝いおちていく。
「きみ…………大丈夫か?」
おそるおそる振りかえると、唖然として立ちすくむ彼がいた。
簓さんは一瞬だけ目を見開き、しかしその直後、すべてを看取したようにやさしくほほ笑んだ。彼の目には許しが湛えられている。
「なんやぁ〜えらい散らかしたなぁ〜」
そうして平然と床に散らばった洋服やシャンプーボトルを拾いあげる。息子の部屋に踏みこんだ母親のように、慣れた素振りだった。まるで、こういう状況が初めてではないみたいに。
彼はなにごともなかったように私の手を引いてリビングへ行くとソファに腰かけた。よっこいしょういちまるのすけざえもん。陽気な声が虚しく響く。
「ほら、きみも隣座りぃや」
促されるも、体が動かない。
「簓さん、私――」
彼は言い訳のひとつもさせてくれなかった。
切迫した表情で、私の両肩を掴む。痛みを感じるほどに強い力だった。
「きみはどこにも行かんよな?」
「え…………」
「行かんって言うて」
「簓さ――」
「なぁ」
答えを求めるくせに、いざ私がなにか言おうとすればきつく抱きしめて口を封じてしまう。
きっと、そうでなくとも、なにも言えなかった。言うべき言葉も見つからなかった。
この部屋のどこかに置き捨てられたスマホから、ラジオが鳴りつづけている。アップテンポの場違いな曲だった。
『……KygoでStole The Show feat. Parson James、お聞きいただきました。さて、今夜もそろそろお別れの時間となりましたが、お楽しみいただけましたでしょうか』
ラジオのパーソナリティがさわやかに番組を締めくくるとコマーシャルに切りかわった。
私たちといっしょに、新しい自分を見つけてみませんか。オオサカニコニコ美容クリニックが、深夜三時をお知らせします。
4話:ショートコント「メンヘラ」(2020.1/26)
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