Romantic comedy #3
さきほどからテーブルに置いたスマホのライトが、ついたり消えたりしていることはわかっていた。
「返事せぇへんの? 白膠木くんからやで」
先輩はいつものごとく遠慮なしに人のスマホをのぞきこんでいる。画面にメッセージが表示されない設定にしておいて正解だった。
「勝手に見ないでください」
「なんや最近えぇ感じやん」
「えぇ感じって……普通ですよ」
あれから私たちは、簓さんと私は、それなりに親しいお友達になったけれど、だからといってメイクブラシを洗っている最中にスマホをチェックするほど切羽詰まってはいなかった。だいたい中学生じゃあるまいし、一日中スマホを気にしてもいられない。
そんな思いをこめて苦笑いすると、先輩はなにをどう受けとったのか腕まくりをしてこちらに近づいてきた。
「そんなんうちがやったるわ! ほら、返信しぃ!」
「うわっ、ちょっと!」
洗面台からはじき出され、渋々スマホを確認する。
『見て〜このスタンプ、今日出たねん』
立て続けに送られてきたのは白膠木簓公式スタンプだった。
『すごいですね』
『せやろ』
わははは、と画面いっぱいに簓さんの笑顔が咲いている。
これ、あとでダウンロードしよう。
『次はいつ会えるやろか。木曜の夜はどや?』
『木曜は無理です』
『ほな今日は?』
『ずいぶん急ですね』
『えぇや〜ん。収録、あと一本なんやけど。そっちは?』
私も次の予定で終わりだった。
もしかすると簓さんは私のスケジュールを把握しているのだろか。先輩ならそういうおせっかいを焼きかねない。
疑いの目を背中に向けると、視線を感じたのか先輩は振り返って「白膠木くんなんやって?」と聞いてくる。ますますあやしい。
「……白膠木簓の公式スタンプが出たらしいです」
「へぇ〜さすが売れっ子芸人やなぁ」
そうだ。この街で白膠木簓を知らない人はいない。
オオサカどころか、関西、いや日本中、きっと誰もが彼を知っているのだ。
今もどこかで誰かが簓さんのスタンプを使って、彼とは無関係の会話を繰り広げている。そう思うと不思議な感慨があった。
『収録、何時に終わりますか?』
最後の仕事は簓さんの事務所の後輩にあたる芸人だった。ときどき簓さんの噂話なんかもして、なごやかな雰囲気だった。
「――おつかれさん。突然すまんな。手ぇあいとるメイクさんおらん?」
そんななか、ノックもなしに楽屋にあがりこんできたのは、彼らと同じ事務所に所属する中堅芸人だ。
真偽は不明だがこの人はよく写真週刊誌に悪い噂を書かれている。半グレとの繋がりだとか、女性絡みの揉めごとだとか。
「今すぐは……」
「あかんか?」
「三十分後なら――」
「あぁ、せやったら、そこの君でええよ。頼むわ」
そう言うと、彼は私に向かって手招きをする。
有無を言わさぬ威圧感があってすこし怖い。
「その子はアシスタントで――」
彼は、先輩の声にかぶせるようにして、
「かまへんかまへん! とにかく頼むわ。今日はメイクさんにやってもらいたい気分やねん」
と言う。その目はまっすぐに私を捉えていた。
「……えぇよ。行ったり」
「ほな、楽屋におるわ」
アシスタントひとりで現場に送られることもなくはないが、大抵の場合は猫の手も借りたいほどの繁忙期だったり、前の収録が押して担当のヘアメイクの都合がつかなくなったりというような急なトラブルなど、なにかしらの切迫した事情があるものだ。
そもそも、普段はメイクはおろか髪のセットすらろくにしなさそうな人が「今日はメイクさんにやってもらいたい気分」なんてものに、はたしてなるのだろうか。
いぶかしみつつも道具をまとめていると、先輩が、
「なんかあったら大声出して助け呼ぶんやで」
と不穏なことを言うものだから、私は思わず笑ってしまった。
「なんかってなんですか」
「なんでもや。髪が薄くてどうにもならんとか、ドーラン塗りすぎて市松人形になってしもたとかな」
「あはは」
私と先輩が笑っていると、
「いや……ちゃん。ほんまに気ぃつけたほうがええと思うで」
「あの人は……なぁ?」
と、芸人ふたりが揃って渋い顔をするので、私もだんだんと不安になってしまった。
先輩。大声で呼んだら、ほんとうに助けに来てくれますか。
気後れしつつ、楽屋のドアをノックする。
「おう、入れ」
乱暴な声音に一瞬怯むも、表情には出さないように努めた。この街の男性は怒ったような話しかたをするのが癖なのだ。
「おつかれさまです。アシスタントの――」
「知っとるよ。あぁ、化粧はえぇわ。きみとサシで話したかっただけやねん」
そう言われて、私は荷物を持ったまま棒立ちになってしまった。
私と話がしたかった? それもふたりきりで? なんだろう。この人とすべき話題なんて――、
「きみが例の……ヌルデが入れ込んどる子か」
ヌルデ。そういうことか。
上から下まで撫でまわすような、品定めする目つきが不快だった。
どうやら噂どおりの人だったらしい。
「まぁかわええ子やけど……なんや思てたより普通やなぁ」
不快なうえに失礼な人だ。
もちろん私は芸能人ではないし、すばらしく美人でもなければ、なにか抜きんでた才能があるわけでもなく、彼の言ったようにまさしく普通だ。
普通。つまり、今をときめくお笑い芸人の白膠木簓には不釣り合いだという意味だろう。
怒りをこらえて愛想笑いを浮かべる。
これも仕事のうち――なのだろうか。先輩のアドバイスにしたがって、叫ぶ準備をしておくべきかもしれない。
「白膠木さんとは……お友達ですよ」
「はは、そうか。にしてもほんまにめずらしいんやで。白膠木はなかなか腹割って話さんし、女あてがっても適当にあしらいよるから」
「そうなんですか」
芸人さんは上下関係に厳しいから、先輩の紹介した女とあれば無下にはできないだろうし、付き合いで夜のお店に出入りする機会もあるのだろう。
平静を装いながらも、想像せずにはいられなかった。とびきり美人の、普通ではない女性と寄り添う簓さん。誰が見たってお似合いのふたり。その背中は、やがてオオサカの夜の街に消えていく……。
無意識のうちに、バッグを持つ手が力んでいた。
「あいつの家、行ったことある?」
「ないですよ」
嘘だった。簓さんの住むマンションは、前に一度だけ立ち寄ったことがある。
地方ロケのお土産を忘れたという彼に付き添って、ほんのつかの間お邪魔させてもらった。でも、それだけだ。長居はしていないし、なにも見なかった。
「ほんま?」
「ほんとうです」
「ほな、鞄になんや妙なもん入れてへんかった?」
「それは……どういう意味ですか?」
「せやなぁ。たとえば、マイク――」
マイク?
「どうもぉ〜おつかれさまですぅ〜!」
ノックと同時に入ってきたのは白膠木さんだった。
笑顔がやけに明るい。明るすぎる。収録中、スポットライトを浴びるときと同じ陽気さだった。
「なんやぁ、ヌルデぇ。どないしたん」
「どないしたやないですよぉ、兄さん〜。ワイのカノジョ勝手に連れこんで〜なんやおかしなこと吹きこんどったんとちゃいますの〜?」
「カノジョ? さっきこの子は "白膠木サンとはオトモダチですぅ〜" て言うとったで」
「ガぁ〜〜〜〜ン! オトモダチぃ?! そらないでキミぃ〜!」
簓さんはいかにもショックだとばかりに頭を抱えた。
まるで舞台の上みたいに、コミカルでおおげさなふるまいだ。
「兄さん、今日もえろう決まってるみたいやし、ヘアもメイクも必要あらへんのとちゃいますん? カノジョ、返してもろてえぇですか?」
「……せやな。もうえぇわ」
「ほなら、失礼します〜」
簓さんに肩を抱かれ、楽屋を出る。
廊下を歩きながら、簓さんは小声で「ほんまあせったでぇ」とささやいた。
「きみの先輩にここやって聞いてな。飛んできたんや」
彼の横顔を見ると、こめかみのあたりにうっすらと汗が滲んでいた。ほんとうに走ってきたらしい。
「なんや変なことされへんかった?」
「変なことって……」
「あの人、前にセクハラで訴えられとるんやで」
「ほんと?」
「マジや。きみも目ぇつけられてしもたやろか……」
目をつけられているのは私じゃなく簓さんのほうだ。
もし正直に「あの人は簓さんの秘密をさぐっていました」なんて、言ったとして。その秘密とやらについて、簓さんが打ち明けてくれるとは思えなかった。
たしかに私と簓さんは、先輩の言うとおり "えぇ感じ" なのだろう。
けれどまだ、完璧な信頼関係があると断言はできない。それどころか今はとても微妙な時期で、言うならば駆け引きの真っ最中だ。お互いに感情のジャブやストレートを駆使して、何気ない会話のなかで腹を探りあっている。水面下での静かな攻防。押したり引いたり、ときには愚直に好意をぶつけてみたり。
そんなときに、簓さんとの心の距離を突きつけられるのはつらいものがある。きっと私は言葉を濁す簓さんを見て、少なからずショックを受けるはずだ。その顔を見られたくなかった。
「大丈夫ですよ。……それより、収録はもう終わったんですか? 予定より早いですよね」
「巻きで終わらせてきたねん。……あっ、せやった! きみの先輩からことづてあんねんで。 "あとはうちに任せて、もう帰ったってええから白膠木くんとのデート楽しんで来ぃ〜" やって」
簓さんが案内してくれたのは、ダイニングバーの個室だった。ふたりで使うには広すぎるので、個室というよりワンフロア貸し切りなのかもしれない。窓からは都会の夜景が見えるし、なぜかカラオケとダーツもついている。いかにも芸能人がお忍びコンパで使いそうな雰囲気だった。
「こういうお店、よく来るんですか?」
「いや、めったに来んわ! ……せやけどな、前回はえらい騒がしなって、きみにも迷惑かけてしもたやん。次はゆっくり話できる店のほうがええかなて」
前回。そうだ、あの日はいろいろとすごかった。
簓さんいわくオオサカビギナーである私に「本場の粉モンを教えたるわ!」と意気込んだ簓さんが、おいしいお好み焼き屋さんを紹介してくれたのだ。
間違いなく、お好み焼きはおいしかった。けれど、場所と時間が悪かった。行く先々で呼び止められ、絡まれ、まるでサーカスのようだった。
「あのぉ……簓さん? どうして隣に座るんですか?」
「ん? いや近いほうがええやろ。話しやすいやん」
広い個室には、カウンター席が六つと、テーブルを挟んでソファが二つ向かい合う形で並んでいる。この並びであれば対面のほうが自然だろう。
だって、これじゃまるで――。
「なんかそういうお店みたいじゃないですか」
「どうもぉ〜ササラですぅ。よろしくお願いしまぁ〜す。これ名刺でぇす」
簓さんはさっと足を揃えて座りなおすと、グラスの下のコースターを名刺に見立てて渡してきた。
「ササラちゃん、かわいいね。いくつ?」
「えぇ、いくつに見えますぅ?」
「20くらいかな」
「ほんまぁ〜? なんや一気に好きになってしもたわぁ」
コントにしても低レベルな芝居だった。
そうしてふざけあいながら、私たちは食事を楽しんだ。
お酒のメニューが豊富で、普段はあまり飲まない簓さんも様々なカクテルを試している。そのたびに私も同じものを注文した。
「せや。せっかくやしダーツせん?」
そう言うと簓さんは立ちあがり、私の手を引いてダーツボードの前まで連れて行く。
「やったことある?」
「ありますよ。得意ではないですけど」
「よっしゃ、ほなら簓さんが教えたるわ。コツがあんねん。まず立ちかたやけど、すこし足を開いて――」
簓さんは説明しながら手本を見せてくれた。
そうして軽く放たれた矢は、ダーツボードの中心の小さな円のなかに吸いこまれていく。
「ほんとにうまいですね」
「せやろ〜」
次は私の番だ。簓さんの真似をして矢を投げてみるも、ボードには当たらず、真横に叩きつけられるようにして床に落ちてしまった。
簓さんは笑いながら矢を拾って、私の背後に回りこむと、私に矢を持たせてその手首を掴んだ。逆の手は私の腰に添えられている。やけに慣れた手つきだった。
「こうや」
「こう?」
「おう、えぇなぁ」
耳の横に簓さんの息遣いを感じる。
彼の言われるがままに投げると、今度はちゃんとボードに刺すことができた。
「簓さんて、いくつ特技持ってるんですか」
なんでも器用にこなす簓さんのことだ、きっと、あらゆる遊びを自分のものにしてしまうのだろう。
「せやなぁ。モノマネやろ、早口言葉やろ、あと歌も得意やなぁ……いや、俺の話はどうでもええねん。それより、きみの特技はなんやの?」
「占いってことにしています」
「ことにしていますぅ?」
「お客さまとの話のネタになるかなと思って、すこしだけかじったんですよ」
「えらいやんけぇ。ほなら、俺のことも占ってや」
今日はポンポン話題が飛ぶなぁ。
簓さんも酔っているんだろうか。わずかに目元が赤らんでいるような気がする。
「利き手を見せてください」
「ほい」
カウンターに飲みかけのカクテルとダーツの矢を置いて、簓さんの手のひらを掴んだ。手相占いはタロットカードも水晶玉もいらない。どこでもすぐに始められる手軽さがいい。
「次は右手も……」
「利き手とちゃうけどえぇの?」
「両方見て総合的に判断するんです」
「なんや本格的やな」
私にとっての占いとは、相手が欲している言葉を探るための手段のひとつだった。人の顔色をうかがって、それとなく話を合わせるのが得意な私には誂え向きの特技だと思う。もしかするとヘアメイクより占い師のほうがよほど向いているのかもしれない。
そのように自虐的なことを考えながら、簓さんのつるんとした手のひらを見つめる。持ってみると意外なほどに大きな手だった。
「なるほど……」
「億万長者になるって書いとる?」
「金運は悪くないみたいですね。それから、知能線が長いので思慮深いタイプ、かな……」
「ほんほん」
「2、3年前になにか、人生の転機……らしき出来事があったようです」
「ほぉ〜……」
「良くも悪くも、それが簓さんを変えた」
「ははは」
やけに乾いた笑いだった。心当たりでもあるのだろうか。
「数年前になにかあったんですか?」
「ん〜? あったような、なかったような……まぁ、忘れてまうくらい些細なことやなぁ」
「……あやしい」
「気になるん? せやったらダーツで勝負しよか。きみが勝ったらどんな質問にも答えたるわ。ほんで、俺が勝ったら――」
「嫌ですよそんなの。簓さんが勝つに決まってるじゃないですか」
「わっからへんよぉ? ハンデもつけたるし」
「秘密主義が災いするって手相にも出てますよ?」
「ほんまぁ?」
「嘘です」
「嘘かい」
いくら占いが好きだと言っても、本気で手の皺やタロットカードに人生を委ねようとする人はいない。彼らは最初から、無自覚ながらも自分のなかに答えを持っている。たとえば「あの男とは別れるべきだ」とか「すぐに転職したらいい」とか。みんな、そんなような助言を欲しがっている。
だから大抵の場合、一通り占いの結果を伝えたあとで、背中を押す言葉であったり励ましの声だったりをかけるものだが、私には簓さんがなにを欲しているのかまったくわからなかった。
まず白膠木簓という人物を理解しきれていないのであれば、かける言葉が見つからないのも当然だ。私から見た彼の姿は、たちこめる霧のなかに浮かんだ人影のように、いつだって謎に満ちている。今みたいに手がかりを掴みかけても、結局はのらりくらりとかわされて、胸の内を探らせてもらえない。
手相のとおり思慮深く警戒心の強いタイプだから、いきなりなにもかもをさらけ出すのはむずかしいはずだ。
でも、いつかは、と思う。
いつかは教えてくれないだろうか。後ろ暗い過去も、隠し持っているというなにかも。
そんな願いをこめて、彼の瞳の奥をのぞいてみる。
「なぁ、きみは俺のことどう思っとるん?」
「どうって……それは占いと関係なく、私の気持ちですか?」
「そうそう」
手のひらを見つめながら考えてみる。考えるふりじゃなく、真剣に自問してみる。
「簓さんは……頭がいいですよね。回転が早いっていうか……あぁ、生命線長いですねぇ」
「せやろか」
「それにやさしいです。いい人だなと思います」
「ま、誰にでもやさしゅうしとるわけとちゃうけどな」
「女の子限定?」
「いや、かわええ子……つまり、きみ限定やな」
こういう台詞をさらりと吐けてしまうのが芸人さんの強みだ。
そして、仕事柄彼らの軽口には慣れっこで、この程度では動じないのが私の強みだ。
「やさしいけど、でも……、そう簡単には他人を踏みこませないような、疑り深いところもあったり……秘密の多い人ですよね」
「それも占いの結果で出とるん?」
すべて見透かしているかのように、曖昧に笑ってみせる。
一瞬、あの芸人に聞かれたことが頭をよぎったが、今はまだ黙っておこう。彼にも秘密があるように、私にだって隠しごとのひとつくらいあってもいいはずだ。
「ほな、今度は俺が見たるわ」
簓さんは私の手を両手で包みこみ、しかし手のひらは見ずに、視線は私の顔に集中させている。ときどき親指で手の甲を撫でながら。
「それじゃ手相占いというより人相占いです」
「せやね。きみは……けっこうビビリやなぁ。優柔不断で主体性がないのは自分に自信が持てへんからやろ?」
「……さすが簓さん。ぜんぶお見通しなんですね」
「いやお見通しどころか……わからへんから困っとんねん」
困る? 簓さんが?
私が首を傾げていると、簓さんは「ごほんっ」とわざとらしい咳払いをした。
これから大事な話をしますよ、という合図だったようだ。
「ちゃんは、白膠木簓のことが……好き、ほど強い思いではないにせよ、少なからず気になる………………で、あっとるかな?」
「どうですかね。なにしろ主体性がないので」
「おうおうおう、そうくるかい」
やられっぱなしではいられない。今度は私の番だ。
「なんやなんや」
たった今簓さんがしていたように、彼の手を握り、顔を近づけてじっと見つめてみる。
一方的に見つめるのは平気でも、見つめられるのは苦手らしい。簓さんはきまり悪そうに顔をそむけてしまった。
ちょうどよかったと内心でほくそ笑みながら、ここぞとばかりに簓さんの横顔を堪能した。数ある簓さんの美点のなかでも、横顔はかなり上位に食いこんでくる特長だと私は勝手に思っている。鼻筋や顎のラインが好きだ。それに、すこし尖った唇も。
そんなふうにして見つめていると、ふいに簓さんの喉ぼとけが大きく動いた。
「簓さんは……、好き、ほど強い思いではないにせよ、暇つぶしに人をからかうのが趣味なんですね」
「暇つぶしとちゃうで」
「だったら――」
「俺は本気や」
簓さんの顔は真剣そのものに見える。いや、私が都合よく汲んでいるだけで、第三者の目にはいかにも軽薄な女たらしの姿が映るのかもしれない。
「……本気でふざけてる?」
「まぁ、きみがそういうことにしときたいんやったら、今はそれでもえぇわ」
そう言うと、簓さんはカクテルを一気に飲み干した。目の前でぐびぐびと喉ぼとけがうごめいている。
「あかん。飲みすぎたわ……そろそろ帰ろか」
さきほどの占いで、手を握っていたせいだろうか。
私たちはとても自然に、手をつないだまま店を出て、手をつないだまま歩き、手をつないだままタクシーに乗っていた。
もしここで写真週刊誌に撮られたら――あぁ、撮られたらいいのに。白膠木簓、年下のヘアメイクと夜の密会。私の目元には黒いぼかしが入れられている。
「来月、海外ロケ行くねん」
「海外ってどこですか」
「んーそれは秘密ぅ」
秘密。また秘密だ。
「バラエティ番組?」
「せや」
「ヨーロッパ?」
「ちゃうなぁ」
「アジア?」
「でもないわ」
「野生動物がたくさんいるところ?」
「動物おるやろなぁ。……って、これ誘導尋問か?!」
「ばれました?」
「ばればれやわ〜! もぉ〜」
今夜の簓さんは上機嫌らしい。ふざけた調子で体をぶつけてきたかと思えば、肩にもたれかかってきた。柔らかい髪が首筋にふれる。くすぐったさに身を捩りたくなるが、私はなんでもないふりを装って、じっとしていた。このままくっついていたかった。
「まぁ、ほんまは言ってもえんやけどね〜。お土産期待しとって」
ヨーロッパでもアジアでもなく、野生動物がいるのであればアフリカかな。
絡めた手の感触をたしかめながら、象に追われる簓さんを想像していると、あっという間に家の前に着いてしまった。
名残惜しいけれど明日も仕事がある。
私には "今夜はまだ帰りたくないです" などと可愛くねだって許されるだけの資格もなければ勇気もない。
そんな意気地なしは、すごすごと退散するしかないのだ。
「ありがとうございました。またごちそうになっちゃって、すみません」
「えぇねんえぇねん。ほな、運転手さん、お釣りはとっといてや〜」
「え、簓さ――ちょ、っと……」
そうしてお札を渡すと、簓さんは私と一緒に降りてしまった。
タクシーは逃げるように発車して静かな夜道に消えてゆく。
「なんで簓さんまで降りちゃうんですか」
「一分一秒でも長ぁ〜く、きみのそばにおりたいねん」
「……もしかして、家に入りたいとか?」
「入れてって言うたら入れてくれるん?」
「ダメです」
「あかんのかい」
これまでも食事のあとに送ってもらっていたけれど、簓さんがタクシーから降りたのは初めてだ。
どことなく落ち着かない様子だし、なにか用があるのだろうか。
「それで、なんですか」
「ん〜?」
「なにかあるんですよね?」
「ふふ、じつはな。ほんまは店でやる予定やったんやけど……なぁ、ちょ〜っと目ぇつむっとってくれへん?」
いたずらっぽい表情だった。またなにかおかしなことでも企んでいるらしい。
「え〜」
「ほんの一分! いや十秒でえぇ! 頼むぅ〜」
「……へんなことしないでくださいよ」
「せんせん! ほら目ぇ閉じぃ! いーち、にー、さーん……開けたらあかんで?」
促されるまま両手で目を覆うと、簓さんは鞄のなかを探り始めたようだった。がさごそと物を取りだす気配がする。
「もうえぇで!」
目を開けてみるが、なにも変化はないように見える。街灯の下、ただニコニコと機嫌よさそうにほほ笑む簓さんが立っているだけだ。
「なにか変わったんですか?」
「こっからやで」
ちゃららららら〜。手品といえばこれ、というベタなテーマ曲を歌いながら、簓さんは両手をくねらせている。彼の手が私の頬を撫で、顎の下をくすぐり、そうして耳の上になにかを残していく。むず痒さに目を細めると、「くふふ」となぜか彼のほうがこそばゆそうに笑った。へんなひと。
「どやっ!」
耳の上にふれてみると、引っかかっていたのは花だった。一輪の、黄色い花。なんて名前だろう。
「覚えとる? あの番組でやったマジックなんやけど。まだ腕はなまっとらんやろ」
「それを用意するための十秒だったんですか」
「そーいうこっちゃ。……あぁ、鞄に入れとったからちょっとしおれてしもたな」
簓さんは慈しみのこもった指先で、黄色い花びらにふれた。彼の笑顔を思わせる太陽の色。住宅街のおぼつかない街灯の下でも、それはくっきりと浮かびあがって見えた。
たったこれだけのために、わざわざ前もって花を買い、鞄に忍ばせて機をうかがっていたのだろうか。
収録の合間にお花屋さんへ駆けこみ、一輪の花を買う彼の姿を想像すると、頬の緩みを抑えきれなかった。
「ありがとうございます……」
顔を近づけて香りをたしかめる。やさしい夏の香りがした。
「ほな、またな」
「また……連絡してもいいですか」
「ん? もちろんえぇよ? なんだって送ったってよ」
「なんでも?」
「なんでもや!」
「帰り道で野良猫を見たとか」
「えやん! 写真見してな!」
「お弁当の卵焼きに殻が入ってたとか」
「ガリッとすんの嫌やな〜」
「……そんなふうに、些細なことを簓さんに知ってもらいたいって、思ってもいいんでしょうか」
「…………」
おかしなことを言っている。近所で野良猫を見たとかお弁当のおかずだとかをこの人に報告してどうするんだ。彼氏でもないのに。
「あの……いや、すみません。変なこと言いました」
目をあわせるのが怖い。おそるおそる顔をあげると、彼の表情を確認する暇もなく引きよせられ、口づけられた。口づけられた?
状況を飲みこめず、目を閉じるのも忘れていた。黄色い花が音もなく滑りおちる。
「あ。チュウしてもた」
そんな。うっかり電車を乗り過ごしたみたいな言い方しないでください。
3話:夜は秘密であふれかえるの(2020.1/21)
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