Romantic comedy #2
楽屋で化粧品の整理をしていた先輩が、眉をひそめて手を止めた。
話す前からなんとなく嫌な予感はしたけれど、やっぱり彼女の望んでいた展開には程遠かったようだ。
「……ほんで、なぁんもせんで、ただコーヒー飲んで帰ったんか?」
先週の、打ち上げのあとの出来事について説明していた最中だった。説明というより「根掘り葉掘り聞かれていた」が正しいか。
私はその一部始終を正直に話した。
白膠木さんのいない場で話題にあげるのは気が引けるが、先輩はしつこいので、はぐらかしたとしても結局問い詰められてしまうだろうし、そもそも隠すようなことはなにも起こらなかったのだから、言ったところで差し支えはないはずだ。
白膠木さんと番組の打ち上げを抜け出したあと、コーヒーのチェーン店へ行き、彼の収録までいっしょに時間をつぶした。終電を逃したのでタクシーで送ってもらった。家に着いてすぐ眠ってしまい、ラジオは聴けなかった。
すべて事実だし、よくある話だろう。
にもかかわらず、先輩はお気に召さないという。
「ほんまにそれだけなん?」
「違います」
「なんやっ!?」
「コーヒーじゃなくて飲んだのはオレンジジュ――」
「あ〜どうでもええッ!」
先輩は頭を抱えて、派手にがっかりしている。
「チェーン店でだべるって高校生やないんやからさ……白膠木くんも白膠木くんやわ。意外とおかたいんやなぁ」
「先輩の価値観がバブリーすぎるんですよ」
「失礼やなぁ、さすがにバブルの年ちゃうで。……まさか連絡先も交換せんかったの?」
「それは一応してますよ。ありがとうございました、ってお礼を送ってからは、とくに連絡してないですけど」
「あかんあかんあかん!」
先輩はひとりで大騒ぎしながら、テーブルの上に置かれた私のスマホに飛びついた。ホームボタンを連打しているようだ。
「うわっ、ちょっとなにするんですか。ふつうにパワハラですよ」
「パワハラもパワプロもないわぁ! メッセージのひとつくらい送ったれや! このっ……このこのっ!」
「先輩の指紋じゃ開きませんって。ほら、返してください」
「はぁ〜……。ほんまドライな子やなぁ。つまらんわぁ。帰ろ帰ろ」
先輩はわかりやすく肩を落として楽屋を出ていく。
私も彼女のあとについていった。
今日は早朝の収録から入っていたので、仕事はすでに終わっている。この時間だと帰宅ラッシュに重なるだろう。
「それで、先輩はあのあとカメラマンさんとどうなったんですか」
「どうもこうもないよ。二次会行ってお開きや」
「ほんで、なぁんにもせんで、ただ酒だけ飲んで帰ったってわけですか」
「あんたと違ってちゃんとLINEしとるよ」
「ふ〜〜ん、そらつまらんなぁ」
「生意気やな」
「おかえしですよ」
そんなふうに他愛ない会話をしつつ廊下を歩いていると、噂をすればなんとやらで、正面から白膠木さんが近づいてくるのが見えた。特徴的なスーツなので遠目でもすぐにわかる。
私は目を合わせないように、そっと先輩の背中に隠れて歩く。
隠れる必要なんてなかった。
ただ、どんな顔で彼を見て、なにを話すべきか、とっさに思いつかなかっただけだ。特別な意味なんてないはず。
すれ違うその瞬間、横顔に熱視線を感じた。白膠木さんが私を見ているという確信が、どくん、どくんと、迫ってくる。胸に当てた聴診器を自分で聞いているみたいにおおげさな心音だった。
そうして一旦は通り過ぎたものの、彼はそう簡単に逃してはくれなかった。
白膠木さんが、私を呼んでいる。
「
なまえちゃーん。
なまえちゃんやろ?
なまえちゃーん」
「あんた、呼ばれとるで」
「気のせいじゃないですかね」
そんなに大声で呼ばないでほしい。それも、大勢のスタッフたちの前で。
「――待って待って待って!」
騒がしい足音とともに回りこんできて、どういうつもりか白膠木さんは私の行く手を塞いでしまう。なんら悪びれる様子もなく、それどころか、とぼけた顔をしている。
「じゃあお疲れ〜また明日な」
「あっ、先輩〜!」
先輩はひょいと彼を避けて先に行ってしまった。
彼女のあとを追おうとするも、腕組みをした白膠木さんが壁に寄りかかるように進路を妨害してくる。海外ドラマでチアリーダーの女子につきまとうアメフト部の男子みたいに。
「おいおいおいおい、なぁ、なんで無視するん?」
すこし不機嫌そうに顔をしかめたかと思えば、今度は悲しげな下がり眉に落ちついた。意外にも彼は表情豊かな人だったらしい。だいたいいつも笑っているか、大笑いしているかの、どちらかのイメージしかなかったのに。
「白膠木さ――」
「簓さんや」
「……簓さん。いたんですか、気づきませんでした。先週はどうもありがとうございました」
いちいち「白膠木さん」「簓さんや」というやりとりをするのも面倒なので、ご希望どおり呼びかたを変えてみた。
白膠木さんもとい簓さんは、やけにうれしそうにほほ笑んでいる。
「ふっふふ〜ん。きみ、今帰りやんなぁ? このあと暇ありますぅ〜って簓さんからのお誘いなんやけど」
「暇ではないですね」
「どこぞの誰かとデートする予定でもあった?」
「デート……ではないですけど、買い物に行きます」
「せやったら、俺もついてったってええかな」
「ついてくって……ただの買い物ですよ? それも、本とか日用品の――」
「行く行く! 俺買い物好っきゃねん! 秒で着替えてくるからちょっと待っとってくれん? せや、いっしょに俺の楽屋行こうや」
「え、あの――」
「ええからええから!」
あの夜とは大違いだ。まるで別人のように押しが強い。
そうして簓さんはいかにも上機嫌に私の腕を引き、ずんずん歩いていってしまう。後ろを振りかえると、柱の陰から顔をのぞかせた先輩がなにかしらのジェスチャーを送っているのが見えた。"今度こそうまくやれ"とでも言っているのだろうか。
「さささ、入って入って。お茶飲むぅ?」
楽屋に入ると、私がなにか答えるより先にお茶と座布団を出されてしまった。
簓さんは簡易更衣室のカーテンをさっと引いて、着替えながらも明るい声で話しかけてくる。
「土日見かけへんかったけどなにしとったん」
私は「休みだったので」とそっけない返事をする。
白いカーテンの向こうから衣擦れの音が聞こえてきて、なんだか妙に胸がざわついた。
「よっしゃ、着替えしゅ〜りょ〜や! ほな行こか! お買い物やったっけ? どこ行くん?」
そうして元気よく出てきた簓さんの髪は、草むらに飛びこんだ犬のように乱れていて、私は思わず笑ってしまった。物音からして急いでいる様子は伝わってきたけれど、なにをどうやって着替えたらそんなふうになるのだろう。
「お? なになに? なんや変やった? チャック開いとるとか……」
「開いてませんよ。でも……、ちょっと来てください」
簓さんは不安げな面持ちでこちらにやってくると、私の正面に座った。
「さわってもいいですか?」
「ん? えぇよ」
私は簓さんの乱れた髪を整えながら、いつの間にか彼を観察していた。
髪質はとても柔らかくて、わずかにクセがある。耳の不思議な箇所にピアスが開いている。唇の端が上がり気味なのはつねに機嫌がいいからではなく、もともとそういう形のようだ。肌の色は薄くて、背丈もちょうどいい感じ。つまり、日本人向けのフリーサイズを着こなせるという意味で。脚は平均より長いかな。細身でスタイルはいいけれど、骨格はどうみても男の人のそれだ。
柔らかくて親しみやすい雰囲気を漂わせながらも、節々に男性らしい特性が散りばめられている。
そのように不均衡な要素が混在しているせいで、つい目を奪われてしまうのかもしれない。
「そういや
なまえちゃん、メイクさんやったなぁ。今度俺の担当してくれへん?」
「無理ですよ。まだアシスタントなので」
「せやったら予約やな。俺がきみの担当の記念すべき一人目、っちゅーことで」
「いいですね。いつになるかわかりませんけど……はい、終わりましたよ」
「おおきに! ……ほぉお〜、えーやんえーやん! 見てみぃあのイケメン、誰や……? って俺ぇ! なっははは!」
簓さんは鏡を相方にひとしきりボケ倒していた。
テレビ局を出るとすっかり日が暮れていた。
鼻歌まじりの簓さんを引き連れて書店に入り、ファッション誌のコーナーへ向かう。先日先輩に随伴した撮影の出来映えを確認するためだ。
「雑誌やったらそれこそスマホで読めるやん」
「モニターと紙だと違うんですよ。色味とか、雰囲気とか……」
「ほらな。やっぱ紙はえぇやろ」
「そういう意味じゃ……」
あの夜、ネタを手帳に書いていた簓さんを時代遅れだと揶揄したことへの意趣返しだろう。意地の悪いドヤ顔だった。
「なぁ……簓さん腹ペコなんやけど……」
簓さんが手にとった雑誌の表紙には"グルメ特集"の大文字が踊っていた。その雑誌で顔の下半分を覆って、目元だけ出してこちらを見ている。
小動物のようなその仕草を、私はしばらくのあいだ黙って見つめていた。
「イタリアン、フレンチ、和食ぅ、……なんにしよかね」
簓さんはこそこそと内緒話をするようにささやきかけてくる。授業中のおしゃべりみたいに。
本来であれば、彼の明るい声は聞きとりやすくて、広いスタジオでもよく響く。お笑い芸人である彼にはうってつけだ。
けれど書店に入ってからというもの、周囲に配慮してか低く静かに語りかけてくるので、私は正直面食らってしまった。彼は一見すると無邪気なお調子者だが、しっかりとTPOにあわせたふるまいを心得ているらしい。この業界ではめずらしく思慮分別のある人のようだ。
「肉……魚ぁ…………粉もんもえぇなぁ……」
知らない男の人が話しているみたいに低く落ちついた声だった。
それを聞くと、かえって私の心はかき乱されてしまう。居心地が悪くてそわそわするのに、隣にいたいと思える。やすらぐような、それでいて胸が苦しいような。あの夜と同じ感覚だった。焦燥感と安心感。相反する抑えがたい思いに挟まれて、自分を見失いそうになる。
「――なぁ、……おーい、聞いとる?」
「え?」
「なに食べる〜って話とったやろ。どないしたん?」
「あ……え、っーと、……食事行くの決定事項ですか」
「あかん?」
「あかん……わけじゃ、ないですけど……」
あぁ、まただ。流されている。
こんなふうに、誘われるがままについていくような、なりゆき任せの付き合いはそろそろ卒業したい。
それに、彼のような得体のしれない、それでいてなにか惹きつけるものがある男と、これ以上かかわりあうのは危ういように思われた。
ここはきっぱりとお断りすべきだろう。
「今日はやっぱり帰りま――」
ぐうぅ。
静かな書店では容易に響いてしまうほどの鈍い音だった。ずいぶん前から空腹を堪えていたところへもってきて、彼が食べ物の話題ばかり持ちかけるせいだ。
あぁもう。額に手を当てる私を見て、簓さんは肩を震わせ笑いを押し殺しているようだ。
「ふっ……ぷ、くく……っ! 素直なお腹や〜ん。ほんまかいらしいなぁ」
「…………」
「あーすまんすまん。ほな決まりやね。近くでえぇ店知っとるんやけど……あ、なんか食いたいもんある? 嫌いなもんは? きみの腹の虫さんに聞いてみてや」
書店を出て、私たちは人混みのなかを歩きはじめた。
簓さんのおすすめの店はこの通りの先にあるのだという。
「ねぇ、今のって――」
「白膠木やん」
「どこ?」
「ほら……」
すれ違う人々が簓さんに気づいて視線をくれたり、振りかえったりする。ざわめきのなかに、はっきりと「白膠木」と聞こえる。
いつしか周囲にはささやかながらも人だかりができ、私たちといっしょに移動していた。
不運だがこれは起こるべくして起こったことだ。
簓さんの外見的特徴は、あの派手なスーツを脱いだところで消えはしないし、彼は変装らしい変装をしていないのだからやむなしだろう。私の知る業界の人たちは、マスクや帽子でいかに目立たず雑踏にまぎれられるかと心を砕いていたが、もしかすると簓さんにはファッションへの揺るぎないこだわりがあるのかもしれない。
「うわ、こらあかんな。タクシー乗ろか」
簓さんが私の背中に手をあてて、さり気なく人混みから遠ざけてくれた。辺りを見まわしてもタクシーは見当たらないので、一度駅に戻ったほうがいいだろうか。
芸能人って大変なんだなぁ。
私は簓さんの日常を想像し、すこし気の毒に思った。好きな服装で自由に出歩けないなんて、けっこうなストレスだ。
そのようにして、彼の気苦労に心を重ねていると、いかにもこの街のおっちゃんといった風情の男性が近づいてきて、簓さんの肩を気安く叩いた。
「白膠木やん! 白膠木簓やろ!?」
「せ、せやで〜?!」
「テレビで見るより男前やな〜うちで飲んで行かへん?!」
「おっちゃんすまんな、今デート中やねん」
「なんやぁ〜えらいべっぴん連れとるやんけぇ!」
「せやろ〜? 今口説いてるとこやから」
「えぇやん。気張りぃ!」
「おう! おおきに〜!」
去り際、彼は簓さんの手に割引券を握らせて、居酒屋の暖簾をくぐっていった。
「あのおっちゃん……クーポンの期限きれとるやん」
「あ、ほんとだ」
簓さんの手元を覗きこむ。次回ご利用時に500円割引、8月31日まで、と書いてある。
「ってか、これってデートだったんですか」
「デートやろ」
「口説かれた覚えはないですけど」
「それはこっからやで。楽しみにしとってな〜」
そう言うと、簓さんは自分の二の腕を叩いて、力こぶを見せるようなポーズをとった。
「簓さんの腕前見したるわ」
路肩に停車していたタクシーに乗りこむと、簓さんはようやく人心地ついたという様子で背もたれに身を預けた。
「はぁ〜〜久々にえらいめにおうたわ」
「大変ですね……いつもこうなんですか?」
「んなわけないや〜ん。……ま、普段は目立たんようにマスクに帽子もかぶっとるからなぁ」
「だったら、今もそうしたらいいじゃないですか。マスクなら使い捨てのやつありますよ。使いますか?」
「ん〜……いや、ええわ」
なんで? 思わず首を傾げてしまった。
簓さんはきまり悪そうに頭を掻いている。
「……かっこええ簓さん見てほしいやん。きみに」
肩の力が抜けた、無防備な笑顔だった。
ときどき彼はこういう表情をする。
喜怒哀楽のすべてを笑顔で表現したみたいな。えも言われぬ感情の破片がきらめいて、しかしそのどれひとつとして掴むことはできない。実体のないゴーストのように手を伸ばすと指先がすり抜けてしまう。
胸が締めつけられる。息もできないほどに。
必死で平静を装ったが、察しのいい彼にはぎこちなく見えたかもしれない。
窓の外を眺めるふりをして、顔をそむける。
たとえ彼の顔がちっとも見えなくたって、私は今にも心臓が破裂して気を失ってしまいそうなのに。
私ばかりが翻弄されて、なんだか悔しかった。
ささやかな仕返しのつもりで、かすれるほどの小さな声でささやきかける。
「……もう充分かっこいいじゃないですか」
「え? なんて?」
「…………」
「な……っ、なぁ、もっぺん言ってくれへん? 空耳やろか? なんや "かっこいい" って聞こえた気ぃするんやけど……」
「空耳ですよ」
「うせやん! 不意打ちはズルいで!」
マスクも帽子も、どんな巧みな変装をしていても、私ならきっと雑踏のなかから彼を見つけられる。そんなうぬぼれた確信が胸の内で熱く渦巻いて、なにもかも焼き尽くしてしまいそうだった。
2話:彼はみんなの人気者(2020.1/17)
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