Romantic comedy #1




 カウントダウンが始まった。


「5秒前、4、3、2……」


 同じ空間にいるはずなのに、スポットライトが当たるあの場所はまるで別世界だ。いくつものカメラと照明が向けられて、さぞ眩しいのだろう。
 その熱気とプレッシャーは、いつだってセットの外側にいる私には想像もつかない。


「それでは登場していただきましょう。お笑い芸人の白膠木簓さんです!」

「ハイどうもぉ〜イケメン芸人1位に輝いた白膠木簓ですぅ〜」

「自分で言うなや!」


 この人、最近よく見かけるんだよなぁ。先週は別の局のバラエティ番組で、アスリートにまざって体を張った笑いをとっていた。ヌルデササラ。ヌルヌルなのかサラサラなのか。芸名にしたってへんな名前だ。


「今回白膠木さんが挑むのは、10種類のマジックを連続で成功させられるかというチャレンジですが」

「ハイ。いったい誰がこないな企画を考えたんでしょうか」

「おいおいやめとけ!」

「最初聞いたときはほんまにアホかと思いましたよ」


 笑い話にしているが、彼は半分本気で文句を言っているんじゃないかと思う。

 こういった出演者の奮励まかせの投げやりな企画は、年末特番にはありがちで、低予算のわりに視聴率はまずまずだ。
 けれどそのぶん出演者の負担は重く、ただでさえ忙しい時期にオフの時間を削って練習したところでその場面はほとんど放送されないし、今後なにかの役に立つわけでもない。さらに言ってしまえば、たとえ成功させたとしてもそれが面白いかと聞かれると、正直首を傾げてしまう。多忙な売れっ子芸人の彼には割りに合わない仕事だったろう。


「それでは始めていただきましょう!」


 司会者の仰々しい掛け声で、マジックのベタなテーマ曲が始まった。

 まずは初歩的なカードマジックからだ。
 仕掛けがバレバレでウケを狙ったかと思えば、帽子から鳩を出したり、徐々にトリックの難易度が上がっていく。それに合わせて彼の表情も真剣みを帯びていった。


「ついに最後のマジックです! さぁ白膠木簓、目標達成なるか!」


 彼は神妙な顔を作り、スーツの襟元を正した。その仕草がなんともいえず愛らしくて、ふいに頬が緩んでしまう。
 女性人気があるのもわかるなぁ。


「白膠木さん、おめでとうございます! いや〜すばらしい! みごとに成功しましたね!」

「おーきにおーきに! どうもありがとうございますぅ」

「お前こういうの向いてるんとちゃう?」

「ほんなら漫才師やめて明日からは手品師になりますわ」

「あはは」

「ほんまそういうとこやでぇ」


 ぼんやりと収録を眺める私と違って、先輩はモニターを凝視している。女性タレントに施した髪の巻き具合が気になるのだろうか。先輩の目は鋭く光り、口元は引きしまっていた。

 彼女は同じヘアメイク事務所の先輩で、私は去年から彼女のもとでアシスタントをさせてもらっている。面倒見がよくて気のいい人だ。オオサカに来たばかりで右も左もわからない私に、ヘアメイクとはなんたるか、そして梅田駅を歩く際の心得まで、手取り足取り教えてくれたのは彼女だった。


「はいOKです〜!」

「おつかれさまでした」


 収録は予定していた時間よりも早く終わった。打ち上げが控えているのを見越して、出演者もスタッフも早巻きを意識したらしい。














 打ち上げ会場の店は番組で貸し切ったようだった。おそらくは知名度のある出演者たちを気遣ってのことだろう。


「なんにする?」

「えーと……」

「俺ビール」

「じゃあ、私もそれで」

「ほなビール5つに、それから――」


 飲み物にかかわらず、なにかを選択するという作業は苦手だった。

 数あるなかからたったひとつを選りすぐる行為は私にとって苦痛でしかなく、注文のときは誰かと同じメニューにしてしまうし、仕事中にもコスメの色選びでもたついて、そのうち痺れを切らした先輩に耳打ちされてしまう。
 そんなふうにして、つい無意識に決定権を委ねたくなる。

 昔からそういう性格だった。
 優柔不断で流されやすい。主体性がない、とよく言われる。

 思い返してみると、この仕事に就いたのも美容師の母の勧めだったし、オオサカでヘアメイクのアシスタントをすることになったのも、知人の紹介といえば聞こえはいいが、ようするにコネだ。どんぶらこどんぶらこと、いつしか道頓堀まで流されてきてしまった。

 これから先、私はいったいどこへ流れつくのだろう。

 操舵席は無人だ、目的地なんて知る由もない。


「かんぱーい」


 乾杯もそこそこに、先輩はビールをいっきに飲みほした。


「昨日、彼氏と別れたねん」

「げ。またですか」

「またとか言うなや! ……それ飲んでええ? あんたビール苦手やろ」

「はい。ぜひ」


 ビールを飲む先輩の喉は、男の人の喉ぼとけみたいにぐびぐびと上下に揺れている。今夜は長くなりそうだ。


「ほんでなぁ、言ってやったんよ。ゴミ箱に使用済みのゴム入っとったで〜って」

「わぁ」

「せやのにあいつ、"それがなに?"って顔しとんねん。ムカつくやろ」

「むかつきますね。ぶっとばしてやりたいです」

「せやねんせやねん」


 先輩は失恋話をあたかも武勇伝のように語っている。

 私はそれが彼女なりの強がりだと知っているので、茶化したり横槍を入れたりはしない。傷を癒やす方法は人それぞれなのだ。


「ほんましょーもないやつやったわ。あ〜せいせいした」


 そうして散々元カレを罵ったあと、先輩はふいにさみしげに目を伏せて、

「……好きな男に同じだけ愛されたいって、そんなに贅沢な願いなんやろか」

 などと呟くので、私はすっかり打ちのめされてしまった。
 彼女の横顔からは切々とした痛みが伝わってくる。


 先月別れた元カレも、こんなふうに職場の飲み会で私の愚痴を披露していたのかと思うと、罪悪感で胸がつぶれそうだった。


 ――まめに連絡してくれ、会いたいんだ、好きだと言ってくれ。

 彼らの不満は往々にして、思うように愛されないことへの憤りと悲しみで満ちている。
 恋人として与えられるべきものが不足していると嘆くその様子は、たしかにつらそうだったが、私にはどうすることもできなかった。
 対岸の火事を見守るように、溺れる人をただ黙って見ているしかない。その無力感により、なおいっそう自己不信に陥っていく。


 そもそも、彼らが言う"恋愛"と私の思うそれとは、根本的になにかが違っていた。

 彼らはまるで、ふたり乗りのスペースシャトルに同乗するパートナーを探しているかのように懸命で、逼迫していた。

 いっぽうで私にとっての恋愛とは、偶然乗りあわせた電車で肩を並べるようなものだ。スペースシャトルと電車。NASAと阪急電鉄。噛み合わないのも当然だ。
 宇宙船に向かう男たちは隣に座って楽しくおしゃべりするけれど、遅かれ早かれ目的地が違うと言い、先に電車を降りてしまう。共に降りようとしない私を人でなしだと蔑みながら。


「贅沢じゃないと思います。……たぶん」

「たぶんて……まぁあんたはまともな恋愛したことあるんかって話やもんなぁ」

「そんなことないですよ」


 いちおう否定はしてみたが、正直なところ自分でも自信がなかった。

 かつての恋人たちの顔を思い浮かべてみる。
 やっぱり、どうにもぴんとこない。寂しいとか憎らしいとか懐かしいとか。なにひとつ、どんな感情もわきあがってこなかった。

 そのように誰に対しても熱があがらないのは、私を好きだと言う人を受け入れていただけで、あれは愛とは異なる思いだったのだろうか。駆け引きの最中はたしかに胸が高鳴ったし、ふれあうのも心地よかったはずなのに。それとも、私は生まれながらに感情の乏しい人間なのかな。


 我を忘れるような恋って、どんなだろう。
 なんて、女子中学生みたいなことを真剣に考えてしまう。
 なにもかもをめちゃくちゃにする嵐のような感情とは。日常生活がままならないほどに焦がれる、その苦しみとは。そんなラブソングの歌詞みたいな衝動を、孤独な夜のつらさを、私はまだ知らない。

 はたして、知る日はやってくるのだろうか。

 お酒が飲める年になり数年が経ち、関西弁の語気の強さや仕事にも慣れてきたが、これだけはいつまでも曖昧なまま見掛け倒しの大人になっていく。おいてけぼりにされた心は冷えていくばかりだ。


「もういやや〜ッ! なんも考えたない! 酒! 酒飲まして!」

「はいはい〜飲み物注文しますね〜。すみませーん! 先輩はビールおかわりでいいですか?」

「せや。樽でよこせぇ!」


 先輩の酒癖の悪さゆえに私たちの周囲にはあまり人が寄りつかない。そのおかげで、立場を利用して関係を迫るたちの悪いディレクターも遠ざけてくれるので助かっている。先輩の絡み酒は一種の魔除けだ。

 そんななかでただひとり、先輩の愚痴に耳を傾け、私といっしょに相槌を打つ怖いもの知らずの芸人がいた。ヌルデササラ。収録でマジックを披露していた、あの人だ。
 彼もまた私と同様に聞き手に徹しているので害はなさそうだが、それにしたってどういうつもりだろう。アイドルや女優さんが並ぶ隣のテーブルのほうがよほど楽しそうなのに。


「白膠木さんはなにか飲みますか?」

「お〜、せやね。それやったら……クリームソーダある?」

「……うーん、ないみたいです」


 クリームソーダって。もしかしてウケを狙っていたのかと横目で見るが、そういう雰囲気ではなさそうだった。


「ほなら烏龍茶で」

「お酒苦手なんでしたっけ」

「このあとラジオの収録あんねん」

「大変ですねぇ」

「ねぇ白膠木くん、なんでやと思う? うちのなにがあかんかった?」

「ちょっと、先輩……」

「なんも悪ないと思いますよ」


 さすが芸人、世渡り上手だ。
 先輩のうざ絡みにも顔色ひとつ変えていない。


「気ぃつけぇや。白膠木くんはメンヘラキラーやで」

 と、口を挟んできたのは、隣のテーブルのカメラマンさんだった。


「なんですかそれぇ! てかうちメンヘラとちゃうし!」

 先輩はよほど不服だったのか、ばしばしとテーブルを叩いて抗議している。


「白膠木くんと付き合う子はみ〜んな重くて依存体質なんやわ」

「ちゃいますちゃいます! 最初はみんな普通やったんですよ! それが、付き合うてくうちに……段々と様子が…………」


 白膠木さんの声は徐々に尻すぼみになって、最後には「まぁ過ぎたことですわ」と苦しまぎれの笑みを見せた。


 "付き合うてくうちに、段々と様子が"?
 なんだかおかしな話だ。
 だって、それってつまり――、


「それってつまり、白膠木さんが彼女を不安にさせたってことじゃないんですか?」


「…………なまえチャン、可愛い顔して痛いとこつくやんけ」

「す、すみませ――」

「ギャハハ! この子、優柔不断でふわ〜っとしとるけど、けっこ〜鋭いねんでぇ〜!」


 なぜか先輩が勝ちほこったように高笑いしている。

 どうしよう、つい口が滑ってしまった。これじゃ先輩の絡み酒を笑っていられない。


「いや、ほんまは俺もわかっとるんやけどね。せやからマメに連絡するようにしとった……しとった、んやけど、……それでも、集中してまうとなぁ。ネタ作っとるときなんか、今が何時で何曜日かも忘れてまうねん」

「そして気づくとスマホには通知の山が――」

「せや!」


 私にも心当たりがあった。一日二日返信をしないだけで、元カレは大騒ぎして私の友達に生存確認をしてまわっていた。苦い思い出だ。


「その気持ち、私もちょっとわかります。ないがしろにしてるわけじゃなくて、目の前のことで手一杯だから、ほかに考えてる余裕がないっていうか……」

「せやせや! きみぃ、なかなか話のわかるやっちゃな〜!」


 けらけら笑うと、白膠木さんはなれなれしく私の肩を叩いた。


 とはいえ白膠木さんのかつての恋人たちの気持ちもわからなくもない。人気者の彼がほかの女と気安く接触しているところをテレビ画面越しに見るのはきついだろう。


「先輩、私ちょっと席外しますけど、飲みすぎちゃだめですよ」

「わーっとるわーっとる」



 お手洗いから戻る途中の通路で、すでに帰り支度を済ませた白膠木さんと鉢合わせた。
 そういえばラジオの収録があると言っていたっけ。

 私に気づくと、彼はにやりと笑って近づいてきた。


「なぁ、きみもいっしょに抜け出さへん?」


 うわ、チャラいなぁ。














 だって、金曜の夜だし。誘いを断るの、苦手だし。先輩はカメラマンさんといい感じに話しこんでいたし。今夜は満月の夜だし。
 そんな言い訳を並べながら、白膠木さんのすこし後ろをついていく。

 金曜の繁華街は酔っぱらいがはびこっていて歩くのがむずかしい。
 狭い路地では白膠木さんがさり気なく私をかばってくれた。かといって、無駄なスキンシップを図ろうという雰囲気はない。

 どこに連れて行かれるかと思えば、たどりついたのはコーヒーのチェーン店だった。


「ここなら駅も近いし、きみも帰りやすいやろ」


 白膠木さんはそう呟きながら、店の入口でメニューを見つめている。


「やっぱクリームソーダはないなぁ……」


 喫茶店じゃなしに、そんなメニューはめったにないだろう。たしかさっきも同じことを言っていた気がする。クリームソーダ。私が知らない間にタピオカを押しのけて流行り始めた飲み物なのか、あるいは彼の新しい持ちネタなのか。


「それって新しいギャグかなにかですか」

「ん? どういうことや?」

「……ショートコント、ラーメン屋。ガラガラ。おっちゃん、クリームソーダひとつ」

「らっしゃ〜い、水はセルフやからよろしゅうな〜……って、ちゃうちゃう! んもぉなんやのぉ〜いきなりぃ! ショートコントて!」

「違うならいいんです。ちょっと安心しました」

「きみ、コント好きなんやったら、今度俺のコント見に来んと……ってな。っぷぷぷ!」

「………………は?」

「いっ、いや、おもろいやろ!? "コント"と"来んと"、ついでに、"今度"もしっかり韻踏んどるし……百点満点ハナマルやんけ」

「オヤジギャグじゃないですか。しかも自分で言って自分で笑ってるし……」


 おどろいた。
 カメラが回らないと寡黙になる芸人はよくいるが、ここまで芸風の変わる人は彼くらいではなかろうか。

 この時代にオヤジギャグが通用すると本気で思っているとしたら――かえって大物の風格さえ感じる。


「……来年もイケメン芸人にランクインしたいなら、このネタはボツにしたほうがいいですよ」


 私がそう言うと、白膠木さんは唇を尖らせた。


「きみ、可愛い顔してえろう辛辣やん〜。俺んこと嫌いやったりする?」

「嫌いではないです」

「ちゅーことは好きでもないんやなぁ」


 どうかな、と首を傾げると、白膠木さんはいかにも落胆したように肩を落とした。
 そのわりに表情は愉快そうだ。


「俺はけっこうきみのこと気になっとるんやけど」

「それも新しい――」

「ギャグとちゃうで。なんやろなぁ……自信なさげにしとるくせに、言うことはズバァ〜っと言うっちゅー、そのちぐはぐな感じがおもろいやん」


(ぜんっぜんおもろくないです。誤解です。今夜は傷心の先輩に引っ張られただけであって、普段であればもうすこし慎重に話してますよ)

 そんなふうに弁解する暇も与えられず、白膠木さんはコートの上から両腕をさすって「あぁ寒っ! はよ中入ろか」とさっさと店内へと入ってしまった。


「クリームソーダがないんやったら……オレンジジュースでええわ。きみはどないする?」

「えぇと……………………」


 迷った末、結局私もオレンジジュースにした。


「ラジオの収録、25時からやねん。寝ぇへんように外におりたくてな」

「そういうことだったんですね」

「……ま、しょうみな話、きみとお近づきになりたいっちゅー下心もあるんやけどね〜」


 冗談めかして言うせいか、いやらしさはまるでなかった。

 話をするほどに彼がその人気に足り得る人物であるとわかってしまう。遠すぎず近すぎず、肉体的にも精神的にも適度な距離感を保ってくれる。人付き合いにおけるバランス感覚がいいのだろう。それに、相手を不快にさせないユーモアを熟知している。もちろんオヤジギャグは別だ。


「にしても……きみの先輩はどえらい酒癖悪いやん」

「あー、あれはいつもじゃないんですよ。彼氏に振られたときは荒れちゃうんです」

「振られるたびにきみが付き合うてやるんか」

「たいていはそうなりますねぇ……」

「はぁ〜そらまた難儀やなぁ」

「そうでもないですよ」


 ストローをいじりながら先輩の男性遍歴を思いだしていると、白膠木さんはため息まじりに「えらいお人好しやなぁ」と、あきれた笑みをくれた。
 もしかすると、私があの場から抜け出すための口実を作るつもりで誘ってくれたのだろうか。だとしたらお人好しは白膠木さんのほうだ。


 白膠木さんは鞄を手探りすると、ペンと手のひらサイズの手帳を取り出した。


「お仕事ですか?」

「いや、まー、仕事言うたら仕事やけど。ネタ考えとんねん」

「あれ……白膠木さんってスマホは持たない主義の――」

「いやいやいや! 持っとる持っとる! せやけど紙はえぇで。絵も描けるし……っと」


 そう言うと、無地の紙にさらさらと描き始めた。女のひとの絵だった。彼女の真横に、漫画のような吹きだしが書きたされる。
 "スマホ持ってないんですか"という台詞だった。


「それって……私ですか?」

「おう。似とるやろ」

「そんなに太ってるかなぁ……」


 思わず頬に手をあてて確かめてしまった。年末が近づくにつれ飲み会も増えて、不摂生している自覚はある。


「太ってへんわぁ! モデルみたいにほっそいやんけぇ」

「でも、なんだか輪郭が丸いですよ」

「そりゃあ俺の画力の問題やねぇ」


 隣のページには「マジック」の文字が書かれている。マジックを使った新ネタでも考えているのかもしれない。


「そういえば、お上手でしたね。マジック」

「へへ、おーきに」

「前から得意だったんですか?」

「いや、今回の番組でやったのが初めてやで。俺センスあるんやなぁ〜」


(自分で言いますか)

 と思ったのが顔にでていたのだろう。白膠木さんは「お見通しやで」とでも言いたげに、にやりと笑った。


「マジックもお笑いといっしょやねん」

「お笑いと?」

「せや。どっちもセンスが重要や」


 白膠木さんはそう言って、どこから出したのか扇子を広げて見せた。口元が隠れているのに、ものすごいドヤ顔なのが伝わってくる。


「それは……」


 突っこんだら負けのような気がする。謎の対抗心にかられて、声は発さず口の動きだけで「扇子」と言ってやれば、白膠木さんは満足そうにほほ笑んだ。


「おう! せやけどなぁ、センスがないからなぁんもできへん、っちゅーこたぁない。できへんやつも練習重ねれば、まぁどうにか見られるようにはなるし、はなっから上手かったやつはさらに磨きがかかんねん。……せやから、お笑いといっしょなんや」


 マジックとかけてお笑いとときます。その心は、どちらもセンスが必要でしょう。白膠木さんのお尻の下に座布団が追加されるイメージが浮かんだ。


「人を楽しませるっちゅー目的もいっしょやしな」

「へぇ…………」


 プロデューサーが半分寝ながら作ったような企画にもひたむきに取り組んで、さらにそこから本業のお笑いに繋がるものはないかと模索するなんて、彼は意外と真面目な人らしい。

 私は白膠木さんの熱意に胸打たれ、しばらく沈黙していた。


 そのうち白膠木さんはネタ作りに集中し始めたようだ。ふぅむ、と深く息を吐いたり頭をかきむしったり、ずいぶんと苦心している。
 窓ガラスに映った白膠木さんの横顔を見つめながら、私は極力身動きせずに存在感を消そうと努めていた。アシスタントをやっているおかげか、透明人間になるのは得意だ。

 カメラマンさんいわく"メンヘラ"らしい彼の恋人はこんなときどうするんだろう。「ねぇねぇ」と甘えた声で彼の腕にすがったりして。やさしい白膠木さんのことだ、作業の手を止めて彼女に付き合ってやるのかもしれない。それとも、にべもなくあしらってしまうのかな。

 私程度の恋愛偏差値では、恋人としての白膠木さんの姿を想像するのは容易ではなかった。
 なにしろこれまで私に近づいてきた男ときたら、真正面から全速力で体当りしてくるような人ばかりだったから。


 彼らと比べると白膠木さんはだいぶ異質な感じがする。腹の底が見えなくて、捉えどころのない感じ。手ですくっても水のように指の隙間から流れおちてしまいそうな。正体不明の危うさだ。

 きっと、好意も悪意もひらりひらりと舞うようにかわしてしまうんだろう。どんなに欲しくてもつかまえられないんだろう。

 彼の正体がなんにせよ、この手の男には深入りすべきではないことだけは確かだった。不用意に近づいたら、きっと痛い目を見る。あからさまに奔放な遊び人ではないからこそ、なおさらに危険だ。

 かろうじて冷静さを保った脳の一部分が、警告のつもりなのか頭痛というシグナルを発している。

 そうして痛むこめかみを押さえながらも、つい目を奪われてしまうのはどうしてだろう。とても不思議な感覚だった。動悸がして居心地が悪いような、それでいて、安心のあまり朦朧としてくるような……。














「――で、……し、……もしもーし。そろそろ帰るで」


 誰かに肩を揺すられている。やさしい声だった。

 ゆっくりと瞼をあげ、視界がはっきりしだすと、意識のほうも明瞭になってくる。


「……っうわ!」


 すべての記憶がよみがえり、はっとして飛び起きた。
 いつから眠っていたんだろう。


「すみません、私……どのくらい眠ってましたか……?」

「1時間……いや、40分ちょいやろか」

「そんなに……」

「俺のほうこそえろうすまんなぁ、こんな夜遅くまで付き合わせてしもて。……終電間に合わへんやろ?」


 スマホを確認する。
 彼の言うとおり、公共交通機関を利用するのはむずかしそうだ。


「いえ、いいんです。けっこう家近いし……」

「ほなら、駅前でタクシー拾っていっしょに帰ろか」

「白膠木さん、そういうのはだめですよ」

「なにがや」

「よく知りもしない女に親切にしちゃだめです。やさしくするのは彼女だけにしないと、また心配させちゃいますよ。もし写真週刊誌に撮られでもしたら――」


 いや、私はなにを偉そうに言ってるんだ。

 寝起きのせいか頭がうまく働かない。


「彼女? いーひんよ。今フリーやもん」


 そんな情報を聞きだすつもりではなかったのに。それにしても、彼女いないって、ほんとうかな。


「とにかく、今日はひとりで帰りますね。……では。おつかれさまでした。ジュースごちそうさまです」


 駅に向かうまでもなく、タクシーは店を出てすぐに見つかった。

 背後に気配を感じていたけれど、まさか強引に乗りこんでくるとは思わず、唖然としているうちにタクシーは発車してしまった。


「なんで白膠木さんまで乗るんですか」

「きみが降りたあと俺が乗ってラジオ局行くねん」


 別のタクシーに乗ったらいいのに、と言いかけて、やめた。
 年下の女、それもヘアメイクのアシスタントという立場である私に、タクシー代を払わせまいと気を遣ってくれているのかもしれない。


「あっ! 白膠木簓やないかい!」

「せやで〜!」


 運転手のおじさんが気安く彼を呼びすてにする。白膠木さんは嫌な顔ひとつせずに、明るく受けこたえをし、おまけに持ちネタである一発芸まで披露してしまう。いつもこんなにサービス精神が旺盛なんだろうか。


 タクシーはオオサカの賑やかな夜をかきわけるように進んでいった。

 芸能人に会えて興奮しているのか、少々荒い運転だ。
 カーブするたび私と白膠木さんの小指の先がすこしだけふれる。ふれたり、離れたり、またかすったりする。

 私も白膠木さんも手をどかそうとはしなかった。かといって、どさくさにまぎれて手を握ったりもしない。そうしてふたり、密かな共同作業でもしているみたいに、かすめるだけの距離を保ちつづけた。

 私は白膠木さんのことをまだよく知らないけれど、なんだか彼らしいなと思う。
 釣り人が竿をあげるタイミングを見計らうのに似ている。餌に食らいつくか、そのまま見送るか。判断はこちらに委ねられている。


「白膠木さん」

「簓さんて呼んで」

「……簓さん」

「なんや〜?」

「ラジオの収録、間に合いますか」

「余裕やで」

「ほんとに?」

「おん。家帰ったら聴いたってな」

「……私、ラジオってあんまり聴かないんです」

「はへぇ〜そやのん? けっこう楽しいねんで。いちおうアプリはダウンロードしといてよ」

「スマホで聴けるんですか」

「せやで〜。……ほら、これやね」


 スマホの画面を見せられて、言われるがままにアプリをダウンロードする。永遠に開かれることのないアプリがまたひとつ増えてしまった。


「あ、運転手さん、ここで大丈――」

「いやあかんあかん! 家の前までよろしゅう頼んますわ!」


 白膠木さんは私の声を遮ると、

「きみが無事に帰るとこ見届けんと、ラジオの生放送に集中できひんやろ」

 だなんて、真面目くさった顔で言う。

 かと思えば、

「せや! 忘れるとこやった! 帰る前に連絡先教えたってよ! ……なに? いややって? そらないわ〜いっしょに日付跨いだ仲やんけぇ。……エッほんまにあかんの?!」

 なんて、いかにもコミカルな調子でまくしたてるのだからずるい。



「ほなな〜」


 わざわざ窓を開けて手を振ってくれた。

 青空に浮かぶ太陽のように溌剌とした、それはそれはいい笑顔だった。













 家の鍵をあけながら、あの三日月のような目を思い浮かべてみる。


 もしかするとほんとうに、彼はやさしくて親切な人なのだろうか。

 この業界に長くいるわけではないが、私の知るかぎり、芸人と呼ばれる男たちは親切を装って隙きあらば口説いてくるような、女たらしばかりだったけれど。


 でも、あの人は。
 白膠木さんは、彼らとは違うのかもしれない。

 どちらにせよ、今判断をくだすのは尚早だ。


 ただ、彼のことを「知りたい」と、強く強く思うのだった。






1話:スポットライト(2020.1/13)


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