Romantic comedy #6 END
ついにこの日がきてしまった。
いつか、そう遠くないうちにやってくると覚悟していたけれど、いざその瞬間になると気後れしてしまう。
簓さんが帰ってきた。
「おつかれさまですぅ〜」
「白膠木くんやん。なんやえらい久しぶりやなぁ」
「海外ロケ行っとったんですよ」
「海外? どこや?」
「ケニアです」
「ケニアァ!?」
「あっははは」
「そりゃ笑ろてまうわなぁ、この忙しい時期にぃ」
TV局の廊下でプロデューサーと立ち話している彼の横を通りすぎる。突き刺さるような視線を無視して早足で楽屋に逃げこんだ。
その場しのぎだとわかっている。
でも、彼に呼びとめらなくてよかった。あのプロデューサーはしゃべり好きだから、追ってくることもないだろう。
そうして安堵する私をあざ笑うようにノックの音が響いた。
「いや〜、あのプロデューサー話長すぎやねん」
簓さんはへらへらと笑いながら、しかし有無を言わさぬ様子で部屋に入ってきた。
うろたえる私などおかまいなしに、簓さんはぐんと距離をつめて私を壁際に追いやる。地球の裏側にいたはずの人が、今は鼻先がふれてしまうほど間近にいる。
「簓、さん……帰国したんですね」
先輩は懇意にしているスタイリストさんとお茶に行っていて、まだしばらくは戻らないだろう。つまり助けはこない。私ひとりでこの状況を打開しなくてはならないのだ。
「おう。どえらい久しぶりやなぁ」
「……そうですね」
「なぁ、なんで無視するん?」
「えぇと……気づかなくて……」
「うせやん。LINEも電話も出ぇへんやろ。ポストカードも送ったんやで。届いとる?」
「……すみません」
「すまんですんだら警察いらんて」
「…………」
「いや両手首出さんでえぇねん」
なつかしいやりとりだ。彼と初めて話をしたのはほんの数ヶ月前のはずなのに、もはやあの日が遠い昔のように感じられる。
思いかえすと、彼と出会ってからの日々は怒涛だった。以前の自分が自分ではないようにさえ思える。それとも、今の私が私ではないのだろうか。
「あ〜……ほんま会いたかった」
簓さんが深く息を吐きながら私を抱きしめてしまう。彼の熱が、鼓動が、首筋から伝わり全身まで到達する頃には、私は彼の抱擁を完全に受け入れてしまっていた。
――だめだ、また流されてしまう。
両手で彼の胸を押しのけてどうにか脱出したものの、またすぐに捕まってしまった。
「……もう、こういうのやめませんか」
顔を横にそむける。
とてもじゃないが彼の目を直視できなかった。
「なにがや」
「もう会わないほうがいいかなって」
「なんでなん?」
「それがお互いのためじゃないですか」
「じゃないです。俺はいやや」
「これ以上、簓さんに迷惑をかけたくないんです」
「迷惑やって思ってへんよ」
簓さんは私の顎を軽くつまんで正面を向かせると、じっとこちらを見つめていた。耐えきれずに目をつむるも、瞼の裏から彼の真剣な顔が透けて見えそうだった。
「……きみの仕事終わるまで待っとるから。ちゃんと話ししようや」
そう言うと簓さんは、私の頭をぐしゃりと掴むように撫でて、楽屋を出ていった。
待っとる、なんて簡単に言わないでほしい。最近は年末の特番撮影続きで残業が多いから、私自身でさえ何時に仕事を終えられるかわからないのに。だいたい、簓さんのほうはどうなんだ。この時期の芸人さんといえば、みんな寝る暇も惜しんで西と東を行き来しているはずだけれど。
皮肉にも、今日という日にかぎって予定より早く仕事が終わってしまった。
エレベーターで一階に降りると、ロビーのソファで退屈そうにスマホをいじっている簓さんが見えた。いつからそこにいたんだろう。
このままなにも言わずに通りすぎてしまおうかな。足音をたてずに、息をひそめて。そうして彼から逃げつづければ、私たちの関係は果てしなく曖昧なまま、始まることも終わることもなく続いていくのだろうか。
「気づいとるで」
「……」
「そんなニンジャみたいなことせんでもなぁ、エレベーター開いたときから顔見えとったよ」
簓さんは上着を着て立ちあがると、つかつかとこちらに近づいてきた。
歩調からどことなく不機嫌さがうかがえる。
「今日こそきみの家に行ってもえぇかな」
なんで家に? 私はいかにも怪訝な顔をしていたらしい。
簓さんはニヤリと口の端をつりあげて、
「きみがどんなとこで暮らしとるんかいっぺん見てみたいねん」
と言う。
いったいどんな理由だ。
「……見たらすぐ帰ってくださいね」
「えぇの?!」
返事をする代わりに私は歩きだす。外はすでに夜のにおいで満ちていて、寒さのせいか空気が澄んでいた。まだ空は明るいので星は見えないが薄っすらと月が滲んでいる。
タクシー乗り場でわずかに逡巡するも、結局電車で帰ることにした。ふたりでタクシーに乗りこむのは、なんていうか、私のほうから招いている感じがして癪だ。あくまでも、私はいつもどおり家路をたどっているだけだというスタンスを貫きたかった。
『ご乗車の際、足元にご注意ください――』
改札を抜け、早足でホームへと向かう間も、簓さんは離れることなく黙って後ろをついてきていた。白膠木簓でも交通系ICカードを持っているらしい。電車に乗る機会なんてあるのだろうか。
車内はそれなりに混みあっていたが、私たちは運良く座ることができた。
正面には女子高生の集団が座っていて、さっそく簓さんを気にしている様子だった。ちらちらと彼を見ては小声でなにやら話をしている。まだ白膠木簓だと確信してはいないようだが、マスクをして深く帽子をかぶった服装だと、いかにも有名人ですといった雰囲気があり、かえって目立ってしまうのかもしれない。かといってなんのカモフラージュもなければひと目で彼だとわかってしまうから、その匙加減がむずかしそうだ。
そんなわけで、いつ「お笑い芸人の白膠木さんですよね? ファンなんです〜」と声をかけられてもいいように、私は見知らぬ他人のようにふるまっていた。
にもかかわらず、彼は私の気遣いなどおかまいなしに体を寄せ、さらには手を絡めてくる。振りほどこうとしたが、余計に強く握られてしまった。
あれほど「お笑い芸人には場の空気を読む力が必須やねん」と力説していたくせに。今ここで「ショートコント、電車通勤」とささやけば、彼の言う空気を読む力とやらが蘇るだろうか。
「ちょっと、さ……」
思わず「簓さん」と呼ぶところだった。
「すまん。今だけ許してや」
「でも――」
「この電車、降りるまででえぇから」
電車の規則的な揺れが私たちをふらつかせる。右に左に、カーブのたび肩と肩がぶつかる。頭上ではつり革が海藻みたいに踊っている。がたんごとん、の波のリズムにあわせて。
車窓が切り取るオオサカの街は活気に満ちている。どの駅で降りても人気者の彼ならこの夜を楽しめるだろうに、簓さんの目にはなにひとつ映ってはいないようだった。灯ったばかりのネオンの群れも、これから始まるであろう華々しい夜の喧騒も。なにもかも、まるで興味はないみたいに、彼の濡れた瞳はすべてを跳ねかえしている。
「今だけでえぇから……」
隣にいなければ、車内放送にかき消されていたほどの、ちいさなちいさな声だった。
「今だけ、俺の彼女のふりしてや」
私たちは手をつないだまま電車を降りた。
改札を抜け、駅前のカレー屋さんの誘惑に打ち勝ち、商店街のなかを通る。
歩きながらも彼はしきりに「カレーうまそ〜やん」とか「トイレットペーパー安いで」とか、他愛のない話をふってくるので、そのたびに私はひやりとさせられた。錯覚しそうになるのだ。
つまり、こんなふうに。
私たちはもうずいぶんと前からこの街で暮らしている。いつも夜遅くまで忙しい簓さんと、今日はめずらしく帰りが重なった。いっしょに電車に乗るなんていつぶりだろう。彼がまだ無名の若手芸人だった頃は、よくこうして手をつないで歩いたっけ。あぁ、なつかしいな。カレーなら家で食べましょうか。トイレットペーパーはまだストックがありますよ。
そんな馬鹿げた妄想を振りはらいたくて、私は足を早める。ほとんど駆け足だった。
「な、なぁ、ちょっと早ない? なんやのこれ、競歩ぉ?」
簓さんが泣き言を言っているが、無視だ。
「ちょ――、ちょお待ってぇ!」
そう叫ぶと、簓さんは橋を渡る途中で立ちどまってしまう。まだ手をつないでいたせいで、私は後ろに引っ張られた。体勢が崩れたところを支えてもらえなかったらきっと転んでいただろう。
振りかえると、いつになく真剣な面持ちの簓さんがいた。
「……俺ら、ほんまにこれで終わりなん?」
「終わりもなにも…………始まってすらいなかったじゃないですか」
「言葉が足らんかったのはわかっとる、せやから――」
「違うんです、そうじゃなくて……」
私は必死に首を振る。
だってこれじゃ、言わせているようなものだ。それに、約束事があればいいという、そう簡単な話ではない。これは私の問題だ。簓さんに、ほかの誰かに、どうにかできるものじゃない。たとえ恋人同士になったとしても、私が変わらなければ同じ間違いを繰りかえすだけだ。
「簓さんのそばにいると、楽しいけど、つらいんです」
あぁ、違う。そうじゃないのに。悪いのは彼じゃない。感情にふりまわされて、自分をコントロールしきれない私が悪いんだ。
言いたいことも言うべきこともたくさんあるのに、どれひとつとして出てこなかった。
簓さんの表情は見えない。
彼はうつむき気味に、帽子を深くかぶっているし、そのうえマスクをつけているから。
「……ほうか」
さらに帽子のつばを下げ、背中を向けてしまった。
「ほなな」
悲しげな声が響く。一歩、また一歩と、遠ざかっていく。
「っ……」
わかっている。今を逃したらだめだ。今この瞬間だけは、逃したら二度と戻れない。取りかえしがつかないことになる。行け。追うんだ――足が動かないなら、手を伸ばして掴めばいい。
「……っ簓さん!」
緊張のせいか体が硬直している。
走り出そうにも足がもつれて、気づけば彼の背中に頭突きしてしまっていた。
「えっ?」
思わず間の抜けた声をあげる私に、簓さんは「うっさい」とぼやいた。手の甲でぐいと目元をこすりながら「ほぉんまうっさいわボケ」と、震える声で憎まれ口を叩いている。それは彼の頬を濡らし、さらにその下、口元を覆うマスクをも湿らせていた。こすってもこすっても滲みでてくるようだ。
「花粉症や……」
「この時期にですか」
「花粉なんて年がら年中飛んでんやろ。植物っちゅーんは年中発情期や」
「また適当なこと言って……」
「笑うなや」
「笑ってません。……ちょっとびっくりしただけで」
簓さんはわざとらしいため息をついて、ずず、と鼻をすすった。
彼の一挙手一投足に照れくささが滲んでいる。こんな無防備な簓さんを見るのは初めてだった。
「俺のなにがアカンのやろ」
「なにも悪くないですよ」
このやりとり、なんだかデジャブを感じるなぁ。いつどこで聞いたんだっけ。
「ほんとうに、簓さんは悪くな――」
「いや、原因は俺や。俺がアカンから、彼女も相方も逃げてまうんやわ。俺が心許した人ら……みんなやで。ほんで最後にはひとりぼっちや」
なんて悲痛な笑顔だろう。彼が吐露した言葉に胸打たれ、私まで泣いてしまいそうだ。
「……もぉ〜、ほんま最悪や。なんやのこれ」
簓さんは帽子を取って髪をかきまわすと、またしても背を向けてしまった。それでも今度は立ち去ろうとはしない。
あれから数週間、彼はいったいどんな気持ちで過ごしていたのだろうか。知らぬ間に執着されて、家に押しかけてきたと思ったら、留守のあいだ勝手に家中を荒らされて。そのうえ音信不通だ。
年末の忙しいなか頻繁にLINEしたり、サバンナからポストカードを送ったりするよりは、あのままフェードアウトしたほうがずっと楽だったはずなのに。
それだけじゃない。彼のように警戒心の強い人が、本音をぶつけるのはかなりの勇気がいっただろう。泣き顔を見られるのはいやなものだし、今だっていたたまれないはずだ。それでも私みたいに、あの夜の私みたいに、彼は逃げないでいてくれる。どんなに格好悪くても恥ずかしくても、ここにいてくれる。私の隣に。
きっと彼は、愛がなにかを知っているんだ。はっきりとその色や形をキャンパスに描くことができる人なんだ。
そして今なら、私も彼と同じ絵を描けるかもしれない。
いとしさが胸の奥深くからこみあげてきて、溺れてしまいそうな今ならば。
――簓さん。こっちを向いてください。
彼の真上にある街灯に、ぽっと灯りがともされた。
簓さんにだけスポットライトがあたっているみたいに。
いつの間にか辺りは暗く、ひっそりとした陰で満ちていた。夜がすぐそこまで迫っている。
「簓さん……」
これほど強く、人の心を思いやったのは初めてだった。私はいつだって自分のことばかりで、ただなんとなく、流されるままに生きてきた。
一歩、二歩と彼のもとに歩みより、ついには街灯の下へと踏みこんでいく。がらあきの背中に抱きついて手をまわした。ちょうど簓さんのお臍のあたりに。
やがて、私の手の上にゆっくりと手が重ねられた。簓さんの手。あたたかくて、すこし濡れている。それが汗か涙か鼻水かはわからないけれど、できれば涙がいいなぁ。
そんなふうに、しんみりしている私たちの真横を、犬を連れたおじいさんが近づいてきた。
おじいさんはすれ違いざま立ちどまって、
「アンタ……お笑い芸人の……」
と、簓さんを指差した。
なんてタイミングだろう。芸能人はいついかなるときも気を抜けないらしい。
「ちゃいます」
即答だ。ファンサービス旺盛な簓さんにしてはめずらしく突き放した対応だったが、この状況では仕方がないだろう。
「えぇと……あのー、なんやったっけ」
「…………」
「お笑い芸人の……ムラカミくん、やない……? マツコと番組やっとる」
「それは……ほんまにちゃう人やわ…………」
「っ、ふ、ふふふ……」
私は抱きついたまま、簓さんの背中に向かって笑いつづけた。お腹が痛くなるくらいに大笑いした。簓さんも、おじいさんまでもがつられて笑っている。犬も吠えている。どうしようもなく愉快だった。
「簓さん。クリームソーダ、飲んでいきませんか」
冷蔵庫の奥で眠っていた緑のソーダを掴んだとき、それは心なしかうれしそうだった。ぴちぴちぱちぱち、ペットボトルの内側ではじけている。
メロンソーダ、さくらんぼ、バニラアイス。緑赤白、目の覚めるような鮮やかさと甘さ。味はもちろん見た目からして彼に似合いの飲み物だと思う。
三つすべての材料が揃っていたのはただの偶然ではなく、無意識のうちに彼の好物を手にとってしまうせいだ。きっと心のどこかで、彼が家に来ることを望んでいたのだろう。
「今回のロケはしんどかったで、ほんまに」
さくらんぼを洗う私の横で、簓さんはたがが外れたようにしゃべりたおしていた。
「ダチョウに追いかけられてん。最初は仕込みやろ〜思て、ノンキしとったんよ。気づいたときにはスタッフがガチ走りで逃げとって。ほんまえらい目におうたわぁ。蚊にさされまくりやしな。ほら、見てみぃ、ここ。悪魔のキスマークや」
「うわ、痒そう」
「ほんでな、なんやあるたびにきみの顔思い出して耐えたんやで」
「そうなんですか」
「せやのにきみぃ、ひどいやん。ガン無視やん。せめて既読くらいつけてや」
「……」
「覚えとるか? 最初に会った夜、きみが言うたんやで。 "んそれってぇ〜、白膠木さんが女の人を不安にさせているってことじゃないですかぁ〜?" ……ってな」
「……私ってそんなに嫌味なしゃべりかたしてます?」
「たま〜にな。まぁとにかくな、きみが言うように俺はカノジョを不安にさしてまう男やから、気ぃつけとったっちゅーこっちゃ! ちゃんとラインも電話もまめにしたやろ? サバンナからポストカードも送ったんやでぇ、ロケの合間に走って買うてきてな……これ、前より上手に描けとったやろ?」
いつの間にか簓さんはポストカードを手にしていた。
たしか手帳に挟んでおいたはずだが、どうして彼が持っているんだろう。
「それ、どこから引っ張りだしてきたんですか?」
「ん〜? なんやそのへん置いてあったでぇ。心配せんでも家探しはしてへんよ。……あっ」
「……」
「んふっ。今のは嫌味とちゃうからな」
それにしてはずいぶんと意地悪な笑顔だった。
「そのさくらんぼ、ひとつもろてえぇ?」
「どうぞ」
「あ、つながっとるやつがえぇな。せやせや。ん、おおきに。……ほんでな、サバンナやから当然ポストはあらへんし、しゃーなしに移動中に寄った町で郵便局探しまわって、とにかくどえらい苦労の末に送った奇跡の一枚やったんやで。んせやのに……なぁ、なんでなん? ラインのひとつくらい返してくれたってええやろ。ひどいでほんまに。ぐすん」
「でも、簓さんは私の彼氏ではないですし、最初からまめに連絡する義務なんてないですよね」
「は? ……まぁ、せやね。いや〜ほんますまん。不安にさしてもて。仕事でつながりのある子と付き合うんやったら、絶対にいける、って確信持ってからやないとあかん思てな。せやかてきみ、感情が読めへんのやもん。押しても引いてもポーカーフェイスやん。いけるんかな? いやまだ早いか? って、さぐっとるうちにあれよあれよとあーなってもうたから」
「……それはっ、………………それは私が悪いです」
「いやいや! えぇねん! いつかそうなってたやろしな! いやどういう意味やろこれ! あっはっはっ! とにかくえーねん、あのことは!」
簓さんは早口にまくしたてると、さくらんぼをもうひとつ摘みとって、果柄ごと口に放りこんでしまった。
「ん……ちょと、待っちょっへなぁ〜」
そうして簓さんは、口をモゴモゴと動かして、
「じゃん」
舌先に乗せた果柄の輪を見せつけた。
さっきから種を吐き出さないけれど、飲みこんでいるのだろうか。
「器用ですね」
「いやもっとリアクションくれてもええやろ! …………あっ」
簓さんは輪になった果柄をつまみ、しばらくそれを見つめていたが、やがてなにかを思い出した様子で鞄に駆けよっていった。いたずらをひらめいた子どもみたいにいきいきとしている。
「せやったせやった。ちょっと目つむっとって!」
「またですか。お花なら間に合ってますよ」
「今度は花とちゃうねぇ〜ん! もっとえぇもんやから〜! 頼むてほんま一生のお願いや!」
こんなところで一生のお願いを使ってしまっていいんだろうか。
私は一旦アイスクリームを冷凍庫にしまい、言われるがまま目を閉じた。
鞄の中身をひっくり返すような音が聞こえて、思わず目を開てしまうと「あかんで!」とたしなめられた。
「おまたせ〜もうえぇで」
見るとそこにはご機嫌な簓さんが立っているだけで、とくに変わりはない。ここまでは前回と同じ流れだ。
「まぁまぁ見とってや。こっからや。チャラララララ〜」
そうして簓さんはマジックのテーマ曲を口ずさみ始めると、私の右手をとって、その上にハンカチをかぶせた。なんの変哲もないただのハンカチです、と言うわりには妙に演技っぽい口調だ。なにやら念を送るような小芝居の後、「じゃん」と勢いよくハンカチが取り払われる。
「……? とくに変化はないんですけど」
「ふっふっふっ。お嬢さん。左手を見てみぃ」
「左……?」
促されて左手を見ると、薬指に見覚えのない指輪がついていた。我が家のさえない照明でも輝いて見える。いかにもハイブランドという雰囲気だ。――うわ、カルティエって。
「サバンナ土産や」
「サバンナにカルティエなんてあるんですか」
「あ……あんねんで」
ほんとうだろうか。
顔をのぞきこむと、観念したというふうに簓さんは両手を広げた。捜査官に追いつめられた犯人のポーズだ。
「嘘です。日本に帰ってきてから空港で買いました」
「その嘘、つく必要あります?」
「なんかしらの口実があったほうが渡しやすいやろ。こういうの、ただでさえ重いやろし……」
「たしかに、受け取ったのが私じゃなかったら、びびって逃げてましたね」
「ほらな!」
「…………ほんとうに、私がもらっていいんでしょうか」
「きみにあげたいんや」
「っていうか、サイズぴったり……」
「へへ〜ん。せやろぉ〜? ふっしぎやなぁ〜?」
訝しむ私をよそに、簓さんは得意げな顔をしている。
今後どうなるかもわからない恋人未満の相手に、こんな高価なプレゼントを買うなんて、もしかすると簓さんもけっこう危ういところがあるのだろうか。衝動的に家を飛び出してしまうような、そんなふうに感情を抑えきれない夜が、簓さんにもあったりして。だとしたら私たちは思いのほか似たもの同士かもしれない。
「ありがとうございます……」
「ほんま気にせんといて。俺があげたくて買うたんやから、なっ。……まぁ、きみがどーしてもいらへんって言うんやったら道頓堀にでもほかしてきたるわ。ほら、貸しぃ」
「ふふ、嫌です」
左手をかざして眺める。
指輪がひとつ増えただけで、自分の手じゃないみたいだ。
簓さんが心底うれしそうにこちらを見ていることに気づいて、あわててクリームソーダ作りに戻った。といっても、ソーダを注いでアイスとさくらんぼを乗せれば完成だ。
「おまたせしました。指輪のお返しのクリームソーダです」
「おぉ! ごっつ本格的やんけぇ! ……ここ、座ってえぇかな」
「どうぞ」
テーブルに移動した簓さんの前にコップを置く。
私は正面の椅子に座って頬杖をつきながら、彼が飲んでいるところを眺めた。ものすごい勢いで緑のソーダが吸いこまれていく。そんなに急いで飲んだらお腹を壊してしまわないんだろうかとすこし心配になる。
幸せそうな顔の簓さんを眺めながら、話をきりだすなら今がチャンスかなと思った。そうして思ったときにはもう、声になって出ていた。
「あのときは……その、すみませんでした」
夜遅くにとつぜん押しかけて関係を迫った、あのとき。それから、彼の留守中に家中を暴いた、あのとき。引き止める彼を振りはらって逃げた、あのとき。
ほんとうはもっと早く、ちゃんと謝罪すべきだった。
「かまへんかまへん。慣れとるから」
「慣れてるんですか」
「冗談やで」
どうだか。だってあなたは "メンヘラキラー" でしょう。
「私……ほんとはそういう女じゃなかったんですよ」
「知っとるで」
「簓さんといると自分を見失いそうになるから……怖いんです」
「俺かてそうや。きみといると自分が世界一おもんない人間に思えるで。きみの笑った顔が見たくてつい気張って、からまわりしてもうて……」
簓さんが? からまわり?
いったい、いつの話をしているんだろう。まったく記憶にない。
「せやけど恋ってそういうもんとちゃうん? きっと誰しもそやねん。我を忘れるような恋はこのクリームソーダみたいに濃い〜ってな」
「でた、オヤジギャグ。簓さんってカメラ回ってないと……なんていうか、ギャグの質が違いますよね」
「なんでや! おもろかったやろ!」
クリームソーダのアイスを崩しながら、簓さんはリズムに乗せたオヤジギャグを連発している。
「ごちそーさん! うまかったわぁ」
コップをさげようと伸ばしかけた手を掴まれた。さっきまで無邪気に笑っていたのに、一瞬にしてシリアスな表情に変わってしまった。
表情の真剣さに反して、口の端にはアイスがついている。
「正直、今も怖いで。……本気やから」
手首を掴んでいた彼の手が、徐々に手の甲へと降りていって、指を包みこむようにしてやさしく握りしめた。やさしいけれど振りほどけないくらいの力加減で。
「本気できみが好きや」
鋭く凛々しい男の人の強い眼差し。でも、やっぱり、口の端にはアイス。
そのちぐはぐな顔を眺めていると、段々と混乱してきた。笑いたいような、泣きたいような。うれしいような、せつないような。
「え……その反応なんやの? どないな感情? 簓さんの顔になんかついとる?」
「ついてます」
「ほんまっ?!」
「右の……いや、簓さんから見て左かな」
ぺたぺたと顔にふれているが、どこも見当違いの場所でかすりもしないのがおかしかった。その様子を見ていると、好きだなぁ、とあらためて思う。これが誰かを愛しいと思う感情だという、たしかな手ごたえがあった。
「ん、おおきに」
ティッシュを口元にあてる。アイスがついていないと、ただのかっこいい男の人に戻ってしまった。指摘しないほうがよかっただろうか。私は胸の鼓動が早まるのを感じながらも、今なら、今の私ならちゃんと言えると、どこからわいてきたのか確信が持てた。
「私も好きです」
「…………私も好きです、クリームソーダが。とか言わんよな?」
私の口調を真似たつもりらしい。さすがに女性の声質まで再現できてはいなかったが、簓さんは人の特徴を捉えるのが上手だ。
「クリームソーダはそんなに」
「ほんなら――」
「簓さんが好き」
「……」
「つらくても苦しくても、不安になって自分を見失っても、そばにいたいです。……いさせて、くれませんか」
「……っなん〜やぁ! 俺ら相思相愛やん! ハッピーエンドやぁ〜ん! 祭りで着るやつ〜! ってそれ法被ぃ〜!」
そうしてしばらくの間ギャグを連発しておどけていたけれど、ふいに真面目な顔でこちらに向き直り、
「そばにいさせるもなにも、きみが嫌やって言うても放さへんよ。こー見えて俺はけっこ〜重いし執着するタイプやからな。地獄のはてまで追ったるから覚悟しとき」
と言う。
口説き文句にしては、やけに殺気立った様子だ。
「そんな脅しみたいなこと言わないでください」
「 "脅しみたい" やなくて "脅し" やからな」
そんなふうに物騒なことを言ったかと思えば、今度は陽気にけらけらと笑ってみせる。やっぱり簓さんの考えていることはちっともわからない。
でも今は、それでいいと思える。わからないのは本気の証だ。私が物語の内側にいる証。
目があって、どちらからともなくキスをした。ほんのりとクリームソーダの味がする。たくさん買いこんだのに結局一度も手をつけなかったあの緑のソーダはこんな味だったのか。幼い頃を思い出す、真っ直ぐでやさしい甘さだった。
私が笑うと彼も笑った。へにょん、と気の抜けた笑みだった。ほほ笑みが返ってくるだけで心が温まる。それだけで心と心が通じあっているような気さえする。
「なぁ、おかわりもらえる?」
「それもギャグですか」
「いや、マジやで。簓さんが言う冗談にしてはおもろないやろ?」
「…………」
「こらこら、沈黙すな」
狭い部屋の真ん中、淡くあたたかなスポットライトの下で、私たちは喜劇の続きに戻った。さあ次はどうしよう。手をとっていっしょに踊ろうかな。
END 6話 ロマンティック・コメディ(2020.02/04)
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