ゆめ【夢】
[1] 睡眠時に生じる、ある程度の一貫性をもった幻覚体験。
[2]将来実現させたいと心の中に思い描いている願い。
[3]現実とかけはなれた考え。実現の可能性のない空想。
Orange #4
ごぽぽ。水のなかを、空気の粒が上昇していく。
ピッ、ピッ、と一定の間隔で鳴りつづく電子音。それから人工呼吸器が可動するような、しゅうしゅうとかすれた音がわずかに聞こえるが、鼓膜が膜を帯びたようにあらゆる音がくぐもっている。
ここは病院だろうか。徐々に視界は鮮明になっていくが、わたしの疑問は晴れない。
とろりとした液体で満たされたガラスのなかだった。水槽、とはすこし違う。縦長の、言うならば巨大な試験管。そのなかに裸で、体中をいくつもの管で繋がれている。
ガラスを隔てた向こう側には白衣を着た男の姿があった。腕組みをしてこちらを観察しているようだ。手を伸ばすがガラスがふれるのみで、もちろん届かない。たすけて。ここから出して。
「無駄だぜ。やつらには聞こえないのさ」
ごぽぽ。ごぽ。泡といっしょに馴染みのある声が聞こえてきた。
「こっちだ」
反射的に横を見ると、わたしの右肩からなにかが生えていた。
それはわたし以外の人体で、さらに一拍遅れでそれが声の主であることに気づき、驚きのあとじわじわと喜びが迫ってきた。
わたしの右肩と彼の左肩。骨盤の骨ばっているところ。それに右手と左手。部分的に皮膚が癒着し、わたしたちはふたりでひとつの生き物みたいに存在していた。
「ここはどこ?」
さあな。俺もさっき目覚めたばっかなんだよ。
彼が声を発さずとも、なにを考えているのか伝わってくるのが不思議だった。
ごぽぽ。ごぽ。……。
奇妙な夢だった。
でも、悪夢ではない。すくなくともあの夢のなかで、わたしと相庭未蘭は"かたわれ"だったように思う。
「
なまえ、なんかいいことあった?」
お弁当の卵焼きを口に運んだときだった。黄色の塊が口元からぽろりとこぼれ落ちる。
模試の結果がよかったとかお小遣いが増えたとか、特別なことは一切ないのだけれど、浮ついた気持ちは心の縫い目から漏れでていたようだ。
土曜日に相庭未蘭と会った件は誰にも言わなかった。
その経緯と、いまだ自分でも受容しきれていない分不相応な思いを、どのようにして話して聞かせたらいいかわからなかった。
「とくに……なにもないよ」
「そうかなぁ。な〜んか嬉しそうに見えるんだけど」
友人は箸を持ったまま前のめりになり、わたしの顔を凝視している。
「うわ! ちょっと近いよぉ!」
「あ、マスカラ塗ってる! めずらし〜」
身の丈にあわない恋心のみならず、こっそり施した薄化粧まで見ぬかれてしまった。
友達に隠しごとはできない。
そうとわかっていても彼への気持ちを打ちあける勇気はなかった。
相庭未蘭にはすでに完璧な彼女がいるし、わたしと彼はあらゆる面でつりあわない。
彼はサッカー部のエースで、全校生徒が知る人気者。対して、わたしの名前は一部の友人しか知らない。彼はかっこよくてセンスもいい。それに、誰にでもわけへだてなくやさしくて親切。子どもの接しかたも上手。白い画用紙に向かうときの、横顔の真剣さ。低い声にやわらかな口調。ときどき見せる年相応の無邪気さ。それから……。
「次選択授業かぁ。書道室行くのめんど〜」
「わたし以外みんな書道だもんね」
「
なまえはなんで美術にしたんだっけ?」
「なんとなく。でも楽しいよ」
楽しい。それは嘘じゃなかった。
お弁当を食べ終えてみんなで教室を出た。
ジュースを買いにロビーの自販機に向かう途中、正面からひときわ目立った男女の姿が目に入った。
相庭未蘭は体格がいいし、隣りにいる彼女はイルミネーションをまとっているわけではないのにきらきら輝いている。
一歩一歩、近づく間にもわたしの心臓は張り裂けそうなくらいに高鳴っていた。
すれ違うその瞬間、彼はこちらを見もせずに、いや、ほんとうに気づいていないのだろう。わたしは見た目も性格も目立つタイプじゃないから。クリスマスツリーでいうなら彼女はツリーに絡まる電灯、あるいは頂上の星で、わたしはというと一番下に吊るされたちいさな飾りだ。探そうと意識しないかぎり見つけるのは難しい。
「みらん〜クリスマスどうする?」
「あー?」
「もぉ。言ったじゃん、みんなであつまろーって」
面倒くさそうな、それでいて満更でもない相庭未蘭の様子が新鮮だった。彼女の前ではいつもこんなふうなのだろうか。間違いなくわたしには見せない笑顔だ。いとしくてたまらないと顔に書いてある。
すれ違いざまに聞こえてきたふたりのたわいない会話がリフレインしているように離れない。そのうえ頭のなかにこだまする声は、彼女の可愛い声ではなく、なぜかわたしの声に置きかわっている。
愚かでかわいそうなわたし。相庭未蘭はわたしのオレンジじゃないんだってば。
(2018.12/22)
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