き せき【奇跡・奇蹟】
常識では理解できないような出来事。



Orange #3



 クリスマス前の土曜日はそれなりに賑わっていた。

 長崎のデパートでこれだけの人ならば都心はどんな状態だろう。生まれも育ちも長崎のわたしには想像もつかない。
 どこへ行ってもクリスマスソングが響いているし、チキンとケーキの予約だとか、おすすめのクリスマスプレゼントと銘打ってあらゆる商品が売りだされている。予算1500円以内でプレゼントを選ぶのはけっこう難しかった。


 友達と交換する予定のクリスマスプレゼントを買って、そろそろ帰ろうかとエレベーターに向かったときだった。
 自販機前のベンチにあつまる、見覚えのあるジャージの群れ。その中心には泣きべそをかいた男の子が座っている。見たところ2、3才くらいだろうか。迷子なのかそばに保護者とおぼしき大人はいない。
 背中にICHIBOSHIのアルファベットが並んだ彼らはやはりサッカー部で、そのなかには当然のように相庭未蘭の姿があった。彼が視界に入った瞬間、頭を揺さぶられたような衝撃とともに心拍数が上がっていく。

 立ち去ることも近よって声をかけることもできずに、すこし離れたところからなりゆきを見まもっていると、彼はわたしの視線に気づき、


「よう」

 と親しげな声を上げた。

 わたしの名前は呼んでくれない。授業中も、彼はわたしを「あんた」と呼ぶ。ともすれば冷たさすら感じる言いかたで。
 美術の授業では出席をとらないので、きっと知らないのだ。

 クラスが違うし、美術の授業で隣の席という以外はとくに接点もなく、あらたまって自己紹介をする機会もなかったから、さもありなんと思う。



 ジャージの集団におずおずと近よって、

「迷子?」

 と聞くと、サッカー部のメンバーが一斉にこちらを見た。動悸がさらに速まり、こめかみが痛む。


「きみ、2組の……」


 草薙順平くん。同学年だ。彼もまたわたしの名前を知らないのだろう。いや、クラスを知ってくれていただけすごいことだ。わたしは彼らのクラスはもちろん、フルネームだって漢字で書けるけれど。


「こーいうとき、どうすりゃいいんだ?」

「迷子センターにつれてくんだろ」

「迷子センターって?」

「ほら、一階の出入り口近くの……」

「げ。バスの時間やべーから先行くわ」

「俺も」


 あんなに沢山いた(ように見えただけかもしれない。彼らは体格がいいし賑やかだから)サッカー部の集団が、たったふたりだけになってしまった。

 草薙くんと相庭未蘭。それから迷子の男の子とわたし。


「迷子の受付は西側のほうだと思う。よければわたしが連れてくよ」

「そうしてもらえると助かるよ」


 草薙くんはあまり子どもの相手が得意ではなかったらしい。肩の荷が下りたというような表情で、去り際に軽く会釈をくれて帰っていった。だったら彼らといっしょにバス時間でもなんとでも理由をつけて行ってしまえばよかったのに。気は弱いが責任感は強いひとなのかもしれない。サッカーのことはよく知らないけれど、ゴールキーパーというポジションにはぴったりじゃないかと思う。


「相庭くんも――」

「いや、俺はついてくぜ」

「バスの時間は平気なの?」

「知らね」


 土日祝日のバスの本数は平日よりさらにすくない。行先によっては一時間に一本、なんてざらだ。


「べつにいーんだよ。急いでるわけじゃねえし」

「そっか……ありがとね」


 べつにわたしのためじゃないのに、ありがとうだなんて。彼はそんなこと気にしちゃいないけれど恥ずかしさに顔が熱くなった。
 相庭未蘭は、子どもを抱きあげて自販機につれていくと、

「どれがいい?」

 とボタンを押させた。
 やっぱりだ。彼はやさしい。誰に対してもわけへだてなく親切なのだ。


「あんたは」

「……へっ?」

「飲み物。なにがいい?」

「あっ……えーと。それじゃ、……お茶を――」


 ガコン、と出てきたペットボトルを、彼がひょいと投げて渡してくれたのに、あろうことかわたしはキャッチを失敗し床に落としてしまった。あぁ。自分が嫌になる。


「うわ、どんくせーなぁ」


 けらけら笑う相庭未蘭の顔は無邪気でかわいらしかった。


「ありがとね」


 今度こそ、これは正当なありがとうだったはずだが、相庭未蘭からの返事はなかった。子どもにジュースを飲ませるので忙しそうだ。男の子の口の端からはジュースがこぼれている。


「……お。気が利くじゃねーか」


 鞄からポケットティッシュを取りだして差しだせば、相庭未蘭は「サンキュ」とほほ笑み、それで男の子の口元をそっと押さえてあげていた。


「やっぱ女子だな。あいつらとは大違いだぜ」


 あいつら、とはさっきいたサッカー部のことだろうか。たしかに彼らは子ども慣れしてるタイプではなさそうだが、わたしだって特別に子どもが得意なわけじゃないのに。


「よし、それ飲んだら行くぞ」

「どこ……?」

「お母さんのとこだ」


 お母さん、と聞いてまたぐずぐずと泣きだした男の子は、相庭未蘭のジャージの裾をぎゅっと握って、それでもしっかりと自分の足で歩いていた。ちいさな歩幅がいじらしい。それに合わせて彼の歩調もゆっくりだ。


「お母さんの名前、わかるか?」

「……ママ」

「あー、そっかそっか。ママだよなぁ。……よし。じゃあ、何才だ?」

「さんさい」


 三才、と言っているが示された指の本数は二本だ。


「ハッピーバースデーのケーキ、ロウソク三本ささってるの食べたか?」

「うん。さんぽん。このまえ食べた」

「おー、よかったな」

「ちょこのけぇき」

「チョコか。チョコのクリームはうまいよな」


 意外と、なんて言ったら失礼かもしれないが、相庭未蘭は子どもの扱いが上手だった。男の子の顔から涙が消え、かわりに笑顔が浮かんでいる。

 ちいさな頭をなでる彼の手のゴツゴツしたところを見つめていると、えも言われぬ感情に苛まれて胸が苦しくなった。息をするたびに刺さった骨が食いこんでいくようだ。ほんとうになにかが刺さっているのではと、みぞおちのあたりをなぞってみるが、言うまでもなく、そこにはなにも刺さってはいない。






「――くまさんのマフラー、紺色のコートを着た、三才の男の子」


 男の子の両親が駆けつけてきたのは、受付の人にわずかな情報を伝え、店内放送を流してもらった直後だった。店中探しまわっていたのだろうか。額に汗を浮かべて「ありがとうございます」を繰りかえす。


「すぐに見つかってよかったね」

「あぁ」


 デパートから出ると冬の凛とした空気とともに、ぞっとするほど鮮やかな夕陽に迎えられた。上のほうは深い藍色で、雲らしき部分は濃いピンク。下にさがるにつれて滲む黄色みがかったオレンジ。
 彼が塗る空の色はこんなふうじゃなかろうかと思う。自由で思いきりがいい、ドラスティックな美しさ。


「きれい」

「だな」


 空が綺麗と呟いて返事が返ってくるなんて。
 休日に学校の外で、相庭未蘭と並んで歩くだけでも、わたしにとってはそうとうな非日常だ。クリスマスのイルミネーションで飾られた街の美しさもあいまって、すべてが奇跡みたいに思える。

 わたしたちはバスターミナルに向かいながらささいな話をした。サッカー部の練習をときどき抜けている理由とか。弟がいることだったり。岡本太郎という素晴らしい芸術家についてとか。

 彼の半歩後ろを歩いていると、マフラーから守られない無防備な首筋が寒そうで、どういうわけかそこばかりに目がいってしまう。ここに口づけるかたわれの心地を想像してみたりする。


「今日も部活だったの?」

「練習試合だったんだよ。このさみーなか屋外グラウンドだぜ」

「うわぁ。凍っちゃうね」


 さきほど子どもにしていたように、わたしの歩幅にあわせてゆっくり歩いてくれているようだった。それが意識的かどうかはわからない。そういうことに慣れていて、知らず知らずのうちにしているのかも。たとえば弟相手とか。彼女とか。



「あんた何番のバス?」

「わたしはここ」


 そう言った直後にバスがやって来て、ぷしゅーという大げさな音をたてて扉が開かれた。まだ帰りたくないのに。露骨に残念な顔をしてしまった。


「……じゃあな。気をつけて帰れよ」

「うん。ばいばい」


 踵を返す直前、彼は唇の片側をくいと上げて笑った。その笑顔が瞼の裏に焼きついて、いつまでも消えそうにない。



 バスに揺られながら、願った。
 絶対に違うとわかっていても、願わずにはいられなかった。

 彼がわたしの"オレンジのかたわれ"だったらいいのに。




(2018.12/22)


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