こい びと【恋人】
恋しく思う人。相思の間柄にある、相手方。
Orange #2
"彼女"とはそのひとにとって特別な、かけがえのない女性を指す言葉として使われていて、恋人、ともいう。辞書で調べたことはないけれど、だいたいそのような意味だったはずだ。
恋人たち。ふたつでひとつのもの。それはひとつではたりなくて、ふたつで完全になる。お箸。コンタクトレンズ。手袋。ピアス。どんなに素晴らしくとも、ふたつ揃っていなければ無価値なものたち。二体一身。男男、女女、男女……。
先週からずっとこんな調子だ。こうなるとわかっていたらあんなつまらない哲学書、絶対に読まなかったのに。
「――じゃあね未蘭。終わったら迎えにきて」
「おう」
繋いでいた手を放し、彼女は名残惜しそうに美術室を出ていく。
あれが相庭未蘭の恋人だ。
すらりと伸びる長い手足にちいさな顔。零れおちそうなくらいの大きな瞳。アイドルグループの一員だったら間違いなく人気上位、センスがいいからどちらかというとモデルタイプかもしれない。
とにかく彼女は美しくて、相庭未蘭の隣りにいても霞まないほどに目立つ女の子だ。
ふたりはどこへ行くのもいっしょなのに選択授業が別々なのはどうしてだろう。
彼女は当然のように音楽クラスで踊っている。相庭未蘭の居場所も本来はそちら側じゃないのか。
「絵の具準備したら画用紙取りに来いよ〜」
先週、先生が「汚れてもいいようジャージで」と言っていたけれど、ジャージの上着だけバッグに入れてきたのは正解だった。相庭未蘭もふくめてみんな普段の制服姿のままだ。危なかった。
絵の具と筆を洗うためのバケツの準備が済んだところで、相庭未蘭がわたしのぶんまで画用紙を持ってきてくれた。
「あ、りがとう……」
返事はないしこちらを見もしなかったが、わたしの胸は言葉にできないほどの喜びでいっぱいだった。
にやける口元を押さえつけて模造品の林檎と向きあう。本物の林檎とは違い、つるりとした光沢がある。あまり時間がないから下書きはあたりをつける程度で充分だろう。彼の持ってきてくれた画用紙は、ほかのものとは違って特別に思えた。特別な画用紙に引く最初の一線は勇気がいる。
ちらりと隣をぬすみ見ると、相庭未蘭が選んだフルーツはオレンジだった。
そういえば、古いスペイン語のことわざで「オレンジのかたわれ」という表現があるらしい。
それは生涯愛すべき相手、魂の伴侶、というような意味あいで、オレンジを半分に切ると同じ形のオレンジはそれ以外にひとつとしてないことから由来する。あの本の、切り離された男男、女女、男女の話とも似ている。
……またおかしな考えにとらわれてしまった。
いい加減、目の前の現実に集中しなくては。
気を取り直して顔をあげた瞬間、どこからか視線を感じて、おそるおそる横を見るとやはり相庭未蘭がこちらを注視していた。
こんなとき、なにか気の利いた声をかけるべきなのだろうが、わたしの体は石のように固まったまま、爬虫類のごとく目玉だけをきょろりと動かして彼を見ることしかできない。
「うまいじゃねえか」
そう言うと彼はわたしの机から画用紙をつまみ上げまじまじと見つめた。
その間わたしはあっけにとられ、目と口を開きっぱなしで、脳はまだなにが起こったのか把握しきれてないようだった。
「何色で塗るんだ?」
「えっ………………、あ、赤、かな……林檎だし」
なんてつまらない答え! 声がちいさい! せめて吃らないで! わたし!
「べつに林檎だからって赤を塗る必要はねーぞ。青でも緑でも……あんたの好きなようにしたらいい」
「そうなのかな」
林檎を青や緑で塗るなんて、考えてみたこともなかった。相庭未蘭の発想はおもしろい。そういえば先月粘土の課題をやったときも、彼の作ったオブジェはひときわ独創的な作品だった。
相庭未蘭が恋人と同じ音楽クラスでなく美術を選んだ理由がなんとなくわかった気がする。
「青い林檎がありなら……空の色を虹色に塗ってもいいのかな」
「いいんじゃねえの。でっけー虹がかかってるみたいできっと綺麗だぜ」
「じゃあ林檎に顔描いちゃお」
「そりゃまずいだろ」
「青に塗ってもいいのに顔はダメなんだ」
「食うとき目があうとヤダろ」
「あはは」
いつの間にか普通に口がきけるようになったわたしは、林檎の線をなぞりながらとても自然に笑っていた。
このおしゃべりは先生から注意をうけるまで続いた。わたしが授業中にうるさいと叱られたのは、小学生の記憶までさかのぼってみてもこれが初めてのことだ。
「緑がかった青か」
「うん」
ひそひそ。男子と小声で会話をするのも初めてだった。内緒話をしているみたいで耳がこそばゆい。
「いいな。宝石みてーだ」
「そうなの。キラキラさせて、エメラルドみたいにする」
彼のおかげでわたしの林檎は、多彩に輝くユニークな作品に仕上がった。光を受けて七色に発光するエメラルドだ。
(2018.12/21)
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