きょうえん【饗宴】 〔原題 ギリシャ Symposion〕
プラトン中期対話編の一。
悲劇詩人アガトン邸で、各自が恋の神エロスの賛美演説をする趣向。
ソクラテスはエロスと哲学を結んで、いわゆるプラトニック-ラブの原型を示す。
Orange #1
ルネサンス期の芸術とやらは、どうしてこうも裸体が多いんだろう。
本棚の隅で眠っていた図鑑をめくりながらプリントに「裸体が多い」と書きこむ。口ひげを蓄えた美術の先生は「美術に関する本を読み、気づいたことを書くように」と言っていたし、これもひとつの気づきには違いない。裸であるという気づき。
はっきり言って芸術にはさほど興味がない。
一星の選択科目は美術・音楽・書道の三つのうちどれかひとつを履修することになっていて、音楽以外ならどちらでもという消去法で美術を選んだまでだ。昔から絵は得意だったので、ひどい成績をつけられることはないだろうとの打算もあった。
音楽の授業では音楽表現という大義名分でもってダンスが行われている。
ダンス。それが具体的にどんな種類なのか詳しくは知らないけれど、大型の鏡の前で練習している様子を見るに、まぁなんだか楽しそうだ。
そこでは笑い声が絶えない。親切にも、お前の居場所ではないよと教えてくれる。
音楽を選んだ生徒は明るくて騒がしく、なにより魅力的だ。ルックスがいいとかスポーツができるとかファッションセンスがいいとか、なにかしら目を引く取り柄があるように思う。
そんな彼らはスクールカーストの上、ちいさな三角形に属する生徒とあとはそのとりまきで、それ以外のわたしのような平凡な生徒はたいてい美術か書道を選ぶ。美術と書道のふたつにはさほどの違いはない。あえてあげるなら地味で凡庸な生徒の集まり。
だから、彼も音楽の授業をとるだろうと思っていた。
相庭未蘭。
くじ引きによる座席は、到底不釣りあいな彼とわたしを引きあわせた。
男らしく硬そうな額。すっと通った鼻筋。ほどよい存在感のある唇。すこし尖った丈夫そうな顎。
彼の横顔は、窓際にひっそり置かれた石膏像のそれに似ている。
一星では、いや、長崎において相庭未蘭の名を知らぬものはいないだろうと思う。
昔から彼は有名人だった。この学校は太陽系みたいに彼を中心に回っていると言っても過言ではない。あこがれるにしても眩しすぎる。片思いなんて、なおのこと。
「次は来週だな〜借りた本は図書館に返しとけよ〜」
チャイムが鳴った瞬間、生徒たちは一斉に立ちあがり教室を出ていく。
先生が「来週は汚れてもいいようにジャージを着てきなさい」と言っているけれど教室の半分も聞いてはいなかっただろう。
「――おい」
呼ばれたのは自分だと、すぐにはわからなかった。
目だけ動かして彼のほうを確認すると、眠そうな顔がこちらを向いていた。
「その本返しとくぜ。次の授業、こっちは体育だからな」
彼は隣のクラスだからわたしとは時間割が違う。
図書館は体育館に行く途中にあるけれど、これから教室に戻って、着替えて、そのあと図書館に行くだけの時間の余裕があるだろうか。男子の着替えは早いけれど、それにしてもだ。
「……体育なら着替えなくちゃいけないし、大変じゃないかな。よかったらわたしが持っていくよ」
声がちいさい。それに早口。
わかっていても、彼を前に平静を保つのは難しかった。
スクールカースト上位の生徒は自覚があるのかないのか下位の生徒を見くだして、まるで人間扱いしないものだが、彼だけは違った。誰にでもわけへだてない態度で、そっけないながらも親切だ。
わたしはけっこう、そんな彼が好きだった。
「あー……それもそうだな。悪いけど頼めるか?」
「うん」
受けとった本はわずかに温かい。彼の手のぬくもりが本に宿っていて、手のひらが汗ばむのを感じる。
相庭未蘭の選んだ本はずいぶんとアバンギャルドな作風の画集だった。
本棚にそれらを戻し、なんとはなしに本の背表紙を眺める。
彫刻、絵画、写真、音楽、演劇。そこから先は哲学に始まり徐々に文学的な本に移り変わっていく。哲学は美術と同じだけ未知なる分野だけれどたまに挑戦してみるのもいいかもしれない。どうせ六限目の古典は眠気に負けてしまうのだし、それなら本でも読んでいたほうがましだ。
ありをりはべりいまそかり。それから愛の起源と三つの愛について。
「え〜、であるからして。ここはラ行変格活用の――」
古典の教科書をブックカバー代わりに立てかけて、プラトンの「饗宴」を読む。やけに序説が長いのでそこはとばしてしまおう。
――昔々、原始時代までさかのぼると人間は"男"、"女"、"男女"という三種の分類で存在していて、いずれも二体一身、男男、女女、男女であった。けれど彼らは神々に叛逆し、その結果体を半分に裂かれてしまい、以来人々は失った半身を探しもとめ右往左往している。
と、作中でアリストパネスは言っていた。完全体への憧憬と追求が"愛"や"性欲"、らしい。
……なんじゃそりゃ。
わたしの理解の範疇を超えた部分が大半だったけれど、切断面の絞りあとがヘソという発想は嫌いじゃない。
たしかに人間の体はもともとふたりでひとつ、みたいな造形をしている。たとえば手とか。ふたりの人間が右手と左手を組みあわせると、まるで産まれたときはひとつだったみたいにつるりと嵌まる。
縁日の型抜きみたいに切り離されたのが人間だとすれば、わたしは神様の失敗作だろうか。もう一方の失敗作、わたしのかたわれは今どこでなにをしているのやら。
「つれづれなるままに、日暮らし、硯に向かひて、心にうつりゆくよしなしごとを――」
先生が読む徒然草の冒頭を聞きながしながら、美術室の画材道具が並ぶ棚に人々のペアが揃って陳列されているところを想像してみる。
相庭未蘭とわたしは、かたわれどころか同じ棚でもなさそうだ。きっと途方もなく離れたところ。地球の裏側かもしれない。
当然のように、相庭未蘭には彼にお似合いの彼女がいる。
可愛くて、見つめると目が潰れそうなほど眩しい、一等星のような女の子。
(2018.12/21)
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