ポートレート【portrait】
肖像画。肖像写真。



Orange #END



 美術室はめずらしく暖房が利いていた。外はひどく寒いのだろうか。
 窓の外に目をやるとタイミングよく彼がやって来て、薄くほほ笑み、親しみの証みたいに片眉を上げた。さっき廊下ですれ違ったときも、わたしに気づいたなら同じようにしてくれただろうか。


「今日は顔のデッサンするぞ〜」


 顔かぁ。写真でも配られるのかな、なんて暢気に構えていたわたしは、画用紙を持った先生が次いで言いはなった言葉に目を見ひらく。


「隣の席同士で向かいあってな〜机くっつけろよ〜」


 隣。隣って。つまりそれは。
 わたしの体はカチコチに固まってしまって、瞼も動かせないほどだった。

 ぎい、と机が半回転した音がする。
 切羽詰まった深呼吸のあと、わたしも周囲に倣って机を移動させたが、向かいあわせになっただけで、もう、耐えられなかった。
 わたしを見る彼のまなざしのやさしさに、皮膚の表面からとけてしまいそうだ。

 あぁ、神様。もしそこにいるのなら。面白がって見ていますか。助けてください。今すぐに。


「ぶはっ! なんつー顔してんだ」


 面白がっていたのは神様じゃなく相庭未蘭のほうだった。
 口を大きく開けて豪快に笑っている。緊張するわたしの様子がよほどツボにはまったらしい。


「っ……だって、わたし、こういうの苦手で」

「なんでだよ。あんた絵上手いだろ。俺のこともかっこよく描いてくれよな」

「相庭くんもね。可愛く描いてよ」

「おう、任せろ」


 どうということはない会話だったが、彼と話をしている間に緊張が糸のように解きほぐれていった。冷えた手もいつしか元通りの体温を取りもどした。

 そういえばこれまでも似たようなことがあった気がする。
 彼のそばでは指先が痺れるほどの緊張を覚えるのに、話をするうちにそれはやわらいで、いつの間にか素の自分に戻っているのだ。
 相庭未蘭の呼気には人を落ち着かせるなんらかの物質が含有されているのかもしれない。

 彼の呼気を心ゆくまで肺にふくんでから、わたしも自分の課題にとりかかった。
 当然ながら画用紙は真っ白だ。

 目が合うと気まずいので、なるべく前は見ないよう、記憶を頼りに白紙にあたりをつけていく。なかなかに難しい作業だった。


「おい、顔上げろよ」


 俯きがちだったのがお気に召さなかったようだ。
 この課題は提出するものではないから、適当に描いているふりでもすればいいのに、すくなくとも美術の授業において相庭未蘭は一切手を抜かない。そういう意外な真面目さを好ましく思っていたけれど、今日ばかりは彼の美術に対する情熱がいまいましかった。

 わたしの顔は彼の恋人のように整ってはいないし、薄くメイクをしたところでたちまち可愛らしくなるはずもなく。
 そんな自分の姿が、彼の瞳を通して紙の上にうつしだされてしまうなんて。
 あまりにも残酷で、つらかった。


「……俯いてちゃなんも描けねえぜ」


 ほとほと困りはてたという声音につられて、すこしだけ顎を上げる。彼の口元が見えた。


「そうだ。動くなよ。今いい感じだからな……そのままでいろよ」

「無理だよ……疲れちゃう」

「うーごーくーな」


 前のめりになって接近してきたと思ったら、鉛筆の裏側でわたしの顎をくいと押しあげ、強引に前を向かされた。


「っ……わわ、っ!」


 恥ずかしい。
 顔が熱いからきっと無様なほどに赤面しているんだろう。耳なんてふれると火傷してしまいそうだ。

 そうして慌てふためくわたしを置いてけぼりに、彼はなにごともなかった様子で(実際に彼にとってはなんてことない行為だったのだ)デッサンに戻ってしまった。静かな教室に鉛筆を走らせる音だけが聞こえる。


 おそるおそる正面を見ると、彼は真剣にデッサンを続けていた。
 伏せられた目の、瞼のやさしい丸み。意志の強さをうかがわせるきりりとした眉。まっすぐに伸びる綺麗な鼻筋。大きくてすこし尖った生意気そうな唇。男の人らしい角ばった輪郭。艶がある小麦色の肌。がっしりとした顎と首。

 それらひとつひとつを、大切に描いていく。
 どのパーツも指でなぞって慈しみたいほどに、愛おしくてたまらなかった。
 抱えきれない思いの丈を、画用紙に発散させていく。一気に描きなぐってしまいたい衝動をぐっと抑え、一線一線丁寧に、気持ちをこめて。

 身勝手なくらい一方通行なこの感情を、恋と呼ぶにふさわしいかは疑問だが、詳細に描けば描くほどに彼が好きなのだと思い知らされる。目も鼻も唇も、わたしがどんなに願っても手に入ることはない。

 そうとわかっていても願わずにはいられないのだ。
 彼がわたしの半身だったら。オレンジのかたわれだったなら……。








「できたぞ」


 その声に顔を上げると、彼の真後ろの壁かけ時計は授業が終わる五分前を指し示していた。
 彼は裏側になにかを書くと、画用紙を机のなかにしまいこみ、満足そうな面持ちで頬杖をついた。

 わたしのほうも、あとすこしで完成しそうだ。今は髪の毛を一本一本、慎重に生やしているところ。


「そっちはどうだ?」

「いい感じ。今は植毛中なの」

「ぶはっ! ふさふさにしてくれよ〜」

「もちろん」


 笑ったときに見える、肌とは相反する白い歯が好きだ。口を大きく開くと刻まれる笑い皺も。眉と目の間の、二重の溝も。なにもかもが好きで、好きで、たまらない。わたしは相庭未蘭が好きだ。


「……できた」

「よし! 見せろ!」

「せーので見せあおうよ」

「いいぜ」


 せーの、重なる声が教室にこだました。
 直後に授業の終わりを告げるチャイムが鳴って、教室はざわめきで満たされる。


「……すげえ!」


 わたしの絵を見た彼が感嘆の声をあげた。がっかりされなくてよかった。正直なところ、これはめずらしく自信作だったから、本人に酷評されていたらひどく落ちこんだだろう。


「よかったぁ〜」

「あんたも見ろよ。けっこう上手く描けたんだぜ」

「うん……なんか怖くて」

「ハァ?」

「あとで見るよ。ひとりになってから」

「へんなやつ。……それにしても、マジでよく描けてるなぁ。特徴とらえてるぜ。いけめんだし、目元なんかちょっとクリロナに似てねえか?」

「くりろな? わかんないけど、えへへ。ありがとう」

「おいおいクリロナ知らねえって正気か? クリスティアーノ・ロナウドだぞ」


 クリスチャン・ディオールなら知ってるけど。
 そんなつまらない冗談を言いかけたときだった。


「未蘭〜!」


 美術室の入り口からひときわ明るい流れ星が飛びこんできた。わたしはあまりの眩しさに目を細める。


「遅いよ、なにしてたの〜? また体育遅刻しちゃうじゃん」

「体育で遅刻するのはお前の着替えがおせーからだろが」

「未蘭の迎えが遅いから!」

「へーへー」


 相庭未蘭とその恋人は、ほほえましい会話を交わしつつ、背中を向け遠ざかっていく。

 ここにわたしはいないみたいだ。空気よりも静かに、息をひそめていたから当然だが、無性にやるせなかった。


 教室を出るとき、彼が一度だけ振りかえって、

「じゃあな」

 と画用紙を持っているほうの手を上げた。


 控えめにほほ笑んでふたりを見おくると、わたしはしばらくの間そこで呆然と立ちつくしていた。





 ほんのひと時ではあるが、絵を通して彼の心の一部にふれたような気がしたのに。
 その感覚は錯覚ではなかったはず。


 勇気を振りしぼって、彼から受けとった画用紙を見る。そこには、はにかんだ微笑を浮かべるわたしがいた。
 それも未蘭画伯の筆記体サイン入りだ。

 羞恥に赤らむ頬まできちんと表現されていて、実際のわたしよりずっとずっと可愛い。
 コンプレックスに思っていた顔の部位も、真っ黒で垢抜けない髪型も、しっかりと描かれているけれど不思議と気にならなかった。

 そればかりか、すてきに思えた。
 自分の顔を肯定的に捉えられたのは、これが初めてかもしれない。
 ほんとうにすばらしいポートレートだった。


「っ……」

 感情の波に飲まれて倒れてしまわぬよう、両足を踏ん張る。唇を噛みしめすぎて痛いくらいだった。

 わたしは彼の半身ではないし、オレンジのかたわれでもない。恋人でも、友達でも。
 それどころか、彼はわたしの名前すら……いや、それでもいい。
 このポートレートだけは、相庭未蘭とわたし、ふたつでひとつ。ほかにはない。


 感慨に指を震わせながら、なんとはなしに裏がえして見ると、右下にちいさくなにか書かれていた。
 思わず目を見ひらいた。それは、ことのほか可愛らしい字だった。






『 みょうじなまえさん へ 』




 あぁ。息もできない。


 彼は、ちゃんと知っていたんだ、わたしの、名前を。




 気づいたときにはそれを持ったまま走りだしていた。

 どこへ向かうでもなく教室を飛びだし、廊下を一直線に駆けぬけていく。
 誰かにぶつかってどよめきがあがっていたけれど振りかえる余裕はなかった。


 ひと気のないトイレの一番奥の個室に入り、声をころして泣いた。画用紙を胸にあて、天上を見あげる。涙はとめどなく溢れでてとまらなかった。
 六限目の授業が始まるチャイムが鳴ると辺りは急に静まりかえり、わたしのすすり泣きだけが響いている。




 いつかそう遠くない未来に、彼はわたしを忘れてしまうだろう。

 名前も顔も、エメラルドの林檎のことも、デパートで迷子を送り届けた日の夕焼けの鮮やかさも、今日の日のことだって。彼にとっては取るに足らない出来事だ、きっとすべて忘れてしまう。

 それでもわたしの描いたポートレートだけは、彼の学習机のなかで昏々と眠りつづけるのだ。彼は妙に律儀なところがあるし、あの反応を見るにすぐには捨てないはずだから。

 数年後に、なにかの拍子で彼がそれを見つけたとき、わずかでも思い出してくれたらいい。永遠にめぐりあえない、ポートレートのかたわれたちのかわりに。美術の授業、隣の席の地味な女子のこと。一瞬でいい。それだけで、わたしは。わたしは。




END(2018.12/22)


< 目次に戻る >

< INDEXに戻る >