クラウンフィッシュのめざめ #8
スマホが震えていることはわかっていた。さっきからずっとだ。
頭の中と同じくらいに散らかったこの部屋の、一体どこに置き去りにされたか知らないけれど、たぶん今もそれはどこかにあって震えながら私を呼んでいる。
それか、もしかすると幻聴なのかも。この音も、記憶も、ぜんぶ嘘で、偽りで、ただの白昼夢。いっそ、そう思いこんだほうが簡単だし楽だ。
『たしかに、彼女の出自を知っていたのは事実です。ですが……』
ですが……。ですがぁ? なんとか言えよ入間銃兎!
言い淀み、挙句の果てに沈黙した彼の横顔。思い出すと、今も胸が張り裂けそうに痛かった。
気をまぎらわせるため、本日二度目の入浴をした。
昔からお風呂は好きだった。子供の頃、一人になりたいときはお風呂に入った。それに、こうして水中に手を沈めていれば指が滑って彼の呼び出しに応じてしまう心配をしないですむ。もし電話に出てしまったら、一瞬でも声を聞いてしまったら、銃兎がどれほど見え透いた嘘をついたとしても私はそれを信じてしまう。
彼のことを考えると息をしても息をしても胸に酸素が入っていかなくて苦しい。海底にいるみたいに心細い。
ぬるくなってきたお湯に浸かりながら、浅い呼吸を繰り返し、泳ぎ方を忘れた魚はこんなふうに水中で溺れ死ぬのだろうかと想像した。うっかり者の魚。邪悪な魔女にそそのかされ、海底の洞窟に迷いこんだ間抜けな魚。
そうして深海でさまよい続け、多彩に輝いていた珊瑚礁の思い出さえも色をなくしていく。
浴槽に仰向けで寝そべって天井を見つめ、両手でお湯をかきまぜると、ちゃぷりちゃぷりと水面が波打って、孤独な魚と心が通った気がした。足びれはなくとも、私たちは陸と海の溺れる者同士。孤独な魚に思いを馳せるといくらか気分がましになった。
でも、銃兎はほんとうに、ただの打算だけで私と関係を持ったんだろうか。いつまでも往生際が悪く、釈然としなかった。
少なくとも、二人で過ごしているときの彼の笑顔は本物めいて見えたし、彼のまなざしは私を愛しくてたまらないと語りかけてきた。ふれる手はやさしかった。唇は熱く情熱に満ちていた。目を閉じると今もあのぬくもりが蘇ってくる。
――でも、やっぱり、でも。
そんな相反する考えを幾度となく反復させても、辿り着く答えはいつも同じで、結局のところ私は彼を好きで、好きで、好きで。
たとえすべてが彼の演じる喜劇で、私は観客席にいながら知らず知らずのうちに道化役にされていたとしても、そうだとしても泣きながら舞台に向かって拍手すると思う。立ち上がって喝采を送ると思う。銃兎が演じるシェイクスピアの十二夜を想像して、少しだけ笑えた。
彼を愛していると自覚するほどに、邪答院仄仄に刺された脅しの毒針がじわじわと効いてくる。無職くらいではすまないかも、なんて言っていたが、あの人ならどんな非道な真似もしかねないし、それができるだけの力がある。
私が大人しく中王区に戻れば銃兎は今まで通りの仕事を続けられて、ヨコハマの街にも平穏が訪れて、めでたしめでたし。とかなんとか、そんなことを考えているうちにお湯は冷めきっていた。
真夜中になり、急に思い立って荷造りを始めた。
銃兎に手紙を残そうとしたけれど、さよならを言えばそれきり終わりになってしまう気がして、最後まで書けなかった。またしても私はしくしくと泣いた。泣くと頭がスッキリすることに気づいて、動画配信サービスの泣ける映画特集から一作選び、支度を進めながら流し見た。二つに穿たれた豪華客船。凍える海に沈みゆく恋人。流し見するつもりがいつしか没頭して、テレビの前でクライマックスを見守っていた。
やがて朝を迎え、勢いに任せて家を出たものの、そこから先はなかなか踏ん切りがつかなかった。
あの壁の向こうへ一歩でも踏み入れれば、もう二度と外へは出られないかもしれない。人生への諦観と、未練がましくも一縷の望みにかけたい執着が胸の内で錯綜し、タクシー乗り場を行ったり来たり、スーツケースを転がし続けること一時間。
「中王区までお願いします」
高い壁に囲われた区域と、手前に伸びる不自然な更地。
いつ見ても異様な光景だ。しかもその三角形の中心では、自分こそが高貴な人間だと信じてやまない高飛車な女たちが蔓延っている。そして私も外から見ればそのうちの一人であると気づき、余計に気が滅入った。
禍々しい門をくぐり、スーツケースを引きずりながらとぼとぼ歩いていると、真横を通った車が少し先で止まり、ゆっくりと後退してきた。
なんだろうと思いつつぼやっと眺めているうちに、後部座席の窓が開いた。
「久しぶりだな」
「……無花果さん?」
「乗れ」
無花果さんは、べそべそと泣く私を車に押しこむと、そのまま執務室に入って、いい香りのする紅茶を淹れてくれた。
そればかりか、うっとうしそうな顔をしながらも話を聞いてくれた。
この人が母の上司の上司の上司……くらいの立場で、とにかく途方もなく偉い人だとわかってはいた。
ただなぜか無花果さんは昔から私にやさしくしてくれるので、私も私で、厳しいけれども頼れるお姉さん、みたいな調子で、なれなれしく接してしまうのだった。
「……っ、というわけなんです!」
「……」
私があらましを話し終えると、無花果さんは眉間に皺を寄せたまま、紅茶をひとくち啜った。
「それで、お前はあの下郎……入間の役に立つようなことをしてやったのか? 出世の踏み台になるようなことを」
「そんなの、できるわけないですよぉ」
叶うならば銃兎の役に立ちたい。けれど、私には銃兎の出世を口添えするほどの力はなく、それどころか邪魔になってばかりだ。
「つまり、お前に利用されるだけの価値があったのかと訊いているんだ」
「ないですよ? ……ん? あれ…………てことは……」
私に取り入って、利用したわけでないとしたら。どうして銃兎はすぐにそうだと言ってくれなかったんだろう。
小首をかしげる私を見て、無花果さんは静かに笑った。
「よかったじゃないか。遅かれ早かれ、あのいけ好かない野郎とは縁を切るべきだったからな。お前はもっと分別を持って、ふさわしい人付き合いをだな――」
「いけ好かなくなんかないですよぉ」
「まぁ、入間よりもたちが悪いのは雑貨屋のほうだったからな。意固地になってあのままヨコハマに残っていれば、お前もろとも連行されていたぞ」
「えっ?」
「まさか……仄仄から知らされていなかったのか?」
「なにをですか?」
私が訊くと、無花果さんは心底あきれたという顔をした。
そして、とんでもないことを言い始めた。
「お前の雇い主は表向きの商売として雑貨屋を営んでいるが、裏の顔はヤクを製造密売する犯罪組織の親玉だ」
思わず飲んでいた紅茶をこぼしてしまった。
「っ、……てんちょ〜が? 嘘だぁ」
「嘘なものか。あの男にはその他にも公文書偽造や詐欺、人身売買等多数の嫌疑がかけられていた。関係者を洗い出し、全体像が判明するまで泳がせていたが、すでに物的証拠も掴んでいる。やつもマークされている自覚があったのだろうな、高飛びのための資金集めなのか、かなり大胆にヤクを売り始めた。中王区と繋がりのある小娘に近づき、雇うことで人質をとったつもりでいたらしいが……」
状況を飲みこめず騒いでいると、デスクに置かれていた無花果さんのスマホが鳴った。
無花果さんは険しい面持ちで誰かと短いやりとりをし、通話を終える間際、なぜか私に意味ありげな視線をくれた。
「噂をすれば……入間銃兎が留置場に収容されたそうだ」
「えぇ! なんでぇ?」
「さぁな。だが、お前にはもう関係のないことだろう」
「じゅ……銃兎を助けに行かないと!」
執務室の重い扉を押し開けて、私は駆け出した。生まれて初めてっていうくらいの全力疾走で。
8話(2023.03.24 pixiv公開)
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