クラウンフィッシュのめざめ #5


 朝からどんよりとした雲が空を覆っていたが、ここまで激しい雷雨になるとは。
 スーツを濡らし、やれやれと思いながら帰署した銃兎を待ち構えていたのは、取り乱した上司だった。


「入間、お前なにしたんだ!」

「はて……なに、とは?」


 刺すような視線に、不穏なざわめき。これはデジャブか、いや、前にもあったので再体験か。とにかく嫌な予感しかしない。


「中王刑事局副局長がお待ちだぞ!」


 上司に連れられ応接室に行くと、そこにはたしかに中王刑事局副局長の邪答院仄仄が――そしてその横に恋人の姿があり、銃兎は驚きに目を見開いた。

 二人は並んでソファに座っている。長いことそうしていたのか、テーブルの上の紅茶からは湯気が消えていた。くつろいだ様子の仄仄とは違い、真横の彼女はひどく怯えて、いつもの陽気さは見る影もない。体全体を強張らせ、視線を床の一点に向けている。まさに蛇に睨まれた蛙だ。


「これは、一体……」

「うさちゃん巡査部長〜遅いわよぉ〜? 女の子待たせたら駄目じゃない」


 仄仄がひらひらと手を振った挙動に、彼女はびくりと肩を跳ね上がらせた。


「っ……!」


 その反応を見た銃兎は、彼女のもとに駆け寄りたい衝動を抑えるので必死だった。駆け寄って、彼女が膝の上で握りしめている両手に自らの手を添えたい。その凍えた指先を包みこみ、息を吹きかけてさすりたい。大丈夫だと、俺がついているからと、安心させてやりたかった。


「……あなたのような大物が、こんな場所までいらっしゃるとは何事ですか」

「ふふっ。ほらぁ〜座って座って、まずはお茶でも飲んでっ。あ〜あ冷めちゃった」


 仄仄に促され、銃兎も渋々彼女らの正面に腰掛けた。
 説明を求めて恋人を見るも、彼女は俯いたままで銃兎と目を合わせる気はなさそうだった。


「二人とも、そんなに硬くならないでよぉ」

「はぁ……」

「じつはね、この子のお母様がすごく心配しててぇ〜」

「っ仄仄さん、やめてください!」


 彼女が立ち上がった勢いでテーブルが揺れ、ガチャンと音が響いた。カップの中では紅茶が波打っている。


「やだぁ〜。隠さなくっても、あなたの出自は銃兎ちゃんもとっくに知ってるのよ。そーでしょ、うさちゃん?」


 いつかこんな日が来るだろうと、銃兎もわかってはいた。

 けれど、いざ彼女を前にすると、なにをどのようにして打ち明けるべきか、そもそも打ち明ける必要があるのか――そんな思案に暮れてばかりで、一向に話を切り出すことができなかった。


 しかし、こうも悲惨な苦境に陥るくらいなら、さっさと言及すべきだった。さらりとほのめかす程度でもよかったんだ。たとえばニュース番組で中王区が映ったときに「あなたのご実家はこの辺りですか」なんて、冗談半分に。それが最善とは思わないが、ともあれ仄仄をけしかけられるよりかは幾分ましだったろう。

 銃兎は唇を噛み、仄仄の出方を窺った。


「…………なんのことでしょうか」

「やだやだ、まだとぼける気? この子が中王区のお財布……じゃなかった、大企業のお嬢様でぇ、しかも言の葉党の幹部の娘だってこと、銃兎ちゃんは初めから知ってたのよねぇ?」

「そう、なの……?」

「もう〜、鈍いんだからぁ。卒業後は中王区の幹部候補、とまで言われてたのに。うさちゃんなんかに騙されているんじゃ、到底勤まらないわねぇ」


 彼女の瞳が困惑に揺れ動き、弁明を迫るように銃兎を捉えた。


「……勘違いしないでください、これには訳が、」

「そう? 銃兎ちゃんってば、最初から中王区のお嬢様を利用しようとして近づいたんじゃないの〜?」

「なにを根拠にそんなことを――」

「あらあらぁ〜しぶとーい。証拠ならあるわよぉ」


 仄仄は愉快で愉快でたまらないという笑みを浮かべ、手元のタブレット型端末を操作して画面を見せた。


「じゃーん。ほらぁ、見て見てぇここっ。警察のデータベースの検索履歴なんだけどこの日イルマジュウトって人が彼女の名前で調べてるしぃ、後日閲覧制限がかけられたフォルダに無理にアクセスしてまで探ってるみたいなの〜」


 恐れに満ちていた彼女の表情が、じわじわと悲痛に染まっていく。その様相の変化が銃兎には手にとるようにわかった。


「これでなにも知らなかったとは言えないわよねぇ〜?」

「……っ、それは」

「それはぁ?」

「っ…………」

「銃兎……そんなの嘘だよね……?」


 ――まずい、このままでは仄仄の術中に嵌まって抜け出せなくなる。手遅れになる前に弁明しなくては。


「……ったしかに、彼女の出自を知っていたのは事実です。ですが……」

「ふふっ。運命の出会いを装って近づいて、世間知らずのお嬢様を懐柔しようとしたのよねぇ?」

「ちが……っ」

「違う? ほんとうにぃ? 最初からなにひとつ下心がなかった? 彼女の目を見て違うと言い切れる?」

「……っ」


 仄仄に言われるまま彼女の目を見てしまった銃兎は、その瞬間言葉を失った。彼女もまた押し黙り、なにも言わなかった。


「あははっ。銃兎ちゃんったらひどい男〜」


 部屋の中に仄仄の悪魔じみた笑い声がこだましている。

 窓から稲妻が差しこみ、ややあって雷鳴が轟いた。雨はいっそう激しさを増し、窓ガラスを叩きつけている。





       *



 打ちひしがれる彼女をどうにか助手席に乗せ、銃兎は車を走らせた。これほど険悪なドライブは初めてだ。彼女を乗せるときは、いつもたいてい笑っているか、あるいは大笑いしている。


「あの……」


 声をかけるも後が続かず、車内の空気はただひたすらに重苦しい。すべては銃兎が自分で蒔いた種だ。自分で刈り取るべきで、彼女にはなんの責任もない。

 信号待ちになり、助手席にちらりと目をやると、彼女はすがりつくように鞄を抱きしめていた。俯いていて表情は見えないが、かえってそれでよかったと銃兎は安堵し、そんな己の不甲斐なさにほとほと嫌気がさした。


「これから食事に行きませんか。そこでゆっくり話を……」

「うん……。今日は疲れちゃったから、帰るね」

「そう、ですか……」

「ごめんね……」

「いえ……謝らないでください」


 ――あなたが謝ることなど、なにもないのに。悪いのは浅はかな俺ひとりだ。

 素直にそう言ってしまえたらどれほど楽だろう。ハンドルを握りながら、頭の中でぐるぐると最適な言葉を探し続けるも、ついに一言も発しないまま、彼女のマンションに到着してしまった。

 彼女の出自がどうだとか懐柔してやろうとか、そんな不毛な思惑は出会ってすぐに消えていたし、だいたい彼女から中王区の特権でもって特別な計らいを受けたためしがない。一度たりともない。

 せめてその部分だけでも釈明したいが、仄仄が言うように彼女に近づいたきっかけとして一切の下心がなかったというのもそれはそれで嘘になる。防犯カメラで密偵したり、偶然を装って接近した手前、後ろめたいことはたしかにある。

 完璧に誠実でありたいという思いが強いほどに、彼女を安心させる言葉をかけられないでいた。



「送ってくれてありがとう」

「いえ……」

「じゃあ……またね」


 普段なら別れ際のキスをねだるはずの彼女が、顔を近づけようと前のめりになり、ところが直後、ためらいがちに後ずさった。


 一連の挙動を見た銃兎は、完全に絶望の淵に突き落とされ、ドアが閉まって彼女の姿が見えなくなってからも動けなかった。

ハザードランプの点滅音に責め立てられながら、左右に水飛沫を散らすワイパーを呆然と目で追っていた。





5話(2023.03.24 pixiv公開)


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