クラウンフィッシュのめざめ #4
帰る前に一服しようと署の喫煙所に入ると、ほどなくして警部補に声をかけられた。
銃兎が火をつけるのを見計らったようなタイミングだった。
「よう入間」
「お疲れ様です。こんな時間までいらっしゃるとはめずらしいですね」
「あぁ。ちょっと面倒事があってな……お前は相変わらず気取った面してんなぁ」
「はぁ……」
「最近どうだ?」
「おかげさまで。順調ですよ」
「そうか」
禁煙中のはずのこの人がわざわざ喫煙所に入ってきたということは、なにかしらの目的があるのだろう。銃兎の予想は正しかった。
「あの雑貨屋のお嬢さんとはその後……親しくしてんのか?」
「さて……。親しく、ですか」
「とぼけんじゃねぇよ。あーなんだ、ホラ、惚れた腫れただとか……」
「いえ、まさかそんな」
「よく言うぜ。しょっちゅうちょっかい出してんだろ」
「私がそこまで手の早い男に見えますか」
「さぁな。……けど人は見かけによらねぇからな。特に女絡みとなると、わからんもんだ」
「ご心配なく。……なにより、彼女は私の趣味ではありませんし」
「はっ! ナマイキ言いやがる」
まったくの嘘というわけでもなかった。
実際、銃兎の女性遍歴を鑑みると――そのリストの中に彼女が並ぶところを想像すると、彼女の柔らかいほほ笑みはあきらかに異質だ。ワインボトルが陳列された酒棚にまぎれこんだオレンジジュースの瓶のように、色も形も浮いて見えた。
「では、お先に失礼します」
かつて銃兎は、自分にはピンヒールを履きこなす女性が似合いなのだと思っていた。昼か夜でいうなら夜、可愛いよりも美しく、静かでつんと澄ました様子の、そんな女性こそがパートナーとしてふさわしいのだと。
夜のヨコハマを走りながら過去を思い返し、銃兎は唇を歪ませた。
*
「おかえりなさい」
深夜二時。いらっしゃいでもこんばんはでもなく、おかえりと出迎えてくれる。銃兎の不規則な生活に合わせてくれる彼女のやさしさに甘えて、毎晩のように彼女のもとを訪れる日々が続いていた。
「……ただいま」
このような押し入りじみた真似をするなんてと銃兎は自己嫌悪しつつ、家に入るなり抱きしめて玄関でキスをする。必死に受け入れようとつま先立ちになる彼女を見て、どうにか平静を取り戻した。
「夜分遅くにすみません」
「ぜんっぜん。まだ起きてたから……」
夏の終わりには銃兎のスケジュールは彼女の名前で埋めつくされていた。どこへ行くにも彼女が隣にいると気分がやすらぎ、ふれあうと心が満たされる。
元々の銃兎といえば、一人静かに心身を休めるための時間が不可欠なタイプだった。それが今ではこの通り、どれほど疲弊した夜にも体を引きずって会いにいってしまう。彼女の声が聴きたくて、ひと目でいいから顔が見たくて。
「こんな時間までなにをしていたんですか」
「ん〜銃兎のこと考えてた〜?」
「それはそれは……」
彼女に手を引かれてリビングに行くと、ソファの上にブランケットが置かれていた。その無造作な感じからして、ついさっきまでうたた寝していたのだろう。ふれるとまだぬくもりが伝わってくる。
「ほんとはね、本を読んでたの……銃兎のこと考えてたってのも嘘じゃないけど」
「ほう」
彼女が手にした本の表紙には指輪のイラストが描かれていた。アンティーク雑貨の買付に関する本のようだ。
そうして彼女はいたずらめいた表情でそれをめくり、肩をすくめる。
「店長が貸してくれたんだけど、けっこう専門的な内容だからむずかしくって」
「それで、眠くなってここで居眠りしていたわけですか」
「あはっ、ばれちゃった〜?」
「最初から隠す気ないでしょう」
「だって、銃兎にはぜんぶお見通しって感じなんだもん。……あっ、そうだ、なにか飲む? コーヒーとかお茶とか……お酒もあるよ」
「お構いなく。それより……」
ソファに腰掛けたまま手招きすると、彼女は子犬のような素早さで駆け寄ってきた。肩を抱きよせ、つむじにキスをする。
紳士的に、余裕のある大人の振る舞いがしたい。
だいたい本来俺は、がっつくような質ではなかったはずだ。少なくともこんなふうに昼夜を問わず見境なく求めるようなことはしなかった。彼女は俺の好みの女性ではないし、彼女にとっても俺はふさわしい男とは言い難い。
銃兎は自問自答しながらも、先を急ぐような深いキスをやめられなかった。
手袋を外す行為が、始まりの合図になる。
彼女もそうとわかっているんだろう。錯覚でなければ、銃兎がそうする仕草を彼女は物欲しげに見つめている。
今も、間接照明のほの暗い部屋の中で、彼女の目だけが光っている。
「脱がせてもいいですか」
「え〜」
「ダメ……?」
「ふふ、可愛い。ダメじゃないけど。けどぉ……」
「ん?」
「恥ずかしいからいちいち言わなくていいのに」
「言いたいんですよ。あなたの照れた顔が見られますし。それに――」
銃兎がわずかに口元を緩ませたのを彼女は見逃さなかった。
「それに、なに?」
「いえ……」
「気になるから続き言ってくれなきゃダメです」
彼女なりに強固な意志表明のつもりか、ブランケットを体に巻きつけて首を振っている。
「こらこら……」
やさしくそれを剥がそうとするも、彼女は力一杯に抵抗するので、このままでは埒が明かないと悟った銃兎は早々に両手をあげて降参のポーズをとった。
「なにを言っても笑いませんか」
「笑いません! なにを聞いても絶対に!」
「すでに笑っているじゃないですか。……まぁ、いいでしょう」
「ふふふ……」
笑うと凹みができる彼女の頬。そこに親指をすべらせながら、銃兎は愛しくてたまらないという思いを、そのまま彼女へのまなざしに閉じ込める。
「……この期に及んで、自信が持てないんですよ」
「それって……つまり?」
「つまり、あなたに拒絶されるのではと……」
「えぇ?」
「現にさきほど、ダメだと言ったじゃないですか。あのような無理強いはしたくないですしねぇ」
「やっ、違っ〜! もう……さっきのダメは、違うじゃん! もぉ〜!」
なにか言いたそうにして、けれど言葉にならず苦悶する彼女の顎下を指でくすぐる。
「だから確かめたいんですよ。毎度、あなたが私を受け入れてくれるって、その事実を……」
「入間さ――」
「銃兎、でしょう?」
「銃兎……」
もう恋人なんですから他人行儀なのはやめましょう。そう言ってあらためさせたはずだが、彼女はまだこの呼び名に慣れないらしい。
彼女の両手が緩んだ瞬間を見計らってブランケットを取り払うと、銃兎はやさしくくちづけた。
いつもならばそうするとたちまち大人しくなるはずの彼女が、物言いたげに目で訴えかけてくる。
早く続きがしたい。したい、が。焦れながらも銃兎は、彼女の必死さに免じて唇を離してやった。
「なんですか」
「……っ、銃兎をキョゼツなんて、私絶対しないのに!」
「は?」
「さっきの話の続き!」
「あぁ……。そう、ですかねぇ……?」
「そうですよぉ」
「しかし、この世に絶対などと保証できるものは存在しないですから……」
「じゃ、九十九%なら?」
「ふむ……それなら限りなく信頼できる数値だ」
「安心した?」
「えぇ……」
彼女はふたたび銃兎の腕の中に収まると、満足げに目尻を下げた。
指を絡めて胸の鼓動を感じあって、夜と朝の境目でまどろんでいると、絶対的な保証も、約束も、なにもいらないと思えた。
夜が来るたびに確かめあい、そうして確かめあうごとに深まる愛を実感できるなら、これ以上に幸福なことはないのだから。
4話(2023.03.24 pixiv公開)
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