クラウンフィッシュのめざめ #3
近頃、よく悪夢を見る。
雨の日にコンビニを出ると傘がなくなっていたり、ATMから金を取り忘れたり、ひと気のない山道を走行中に給油ランプが点灯したり、それはたいてい派手さはないが地味に嫌な出来事で、しかもなにかを失くす夢ばかりだ。
今日も猛烈に抜け毛が増えた悪夢を見て、銃兎の機嫌はすぐれなかった。
ペーパーレス化が推進されるこのご時世に、ご丁寧に紙で印刷された捜査書類に目を通し、チンピラと揉め事を起こした左馬刻を釈放させ、やっと一段落ついたと思えばすでに日没。
やれやれと署に戻った銃兎は、コーヒー片手に窓辺で佇んでいた。西側の窓ならどの部屋からも正面のビルが見える。彼女が雑貨店で働き始めたのは好都合だった。
店先で窓掃除をする彼女の様子を眺めながら、あとで顔を見に行こうと考えていると、店内から初老の男が出てきた。男は彼女に声をかけ、一言二言交わしてから去っていった。
あれが、彼女がしばしば話題にする店長≠ネのか。
やさしくて、面白くて、お父さんみたいに――などと彼女は言っていた。
彼と直接顔を合わせたことはないが、マイペースな彼女を雇うだけあり、ずいぶん度量が広い人物なのだろうと銃兎は思う。
銃兎は署を抜け出し、雑貨店に向かった。
彼女に声をかけると、いらっしゃいませの代わりに親しみのある笑顔が返ってくる。
「あれぇ〜? また入間さんに会っちゃった」
へらへらと間の抜けた笑みだが、どういうわけかそれを見ると心がやすらぐ。
「もしかして私、入間さんの監視対象になってます?」
好奇心に満ちた目で銃兎を見て、棚の後ろに隠れたかと思うとふたたび顔を出す。子供じみた遊びを仕掛けている。ほんとうに監視されているとも知らずに。
こうして彼女を知るほどに、あの中王区の女どもと住む世界が同じとは思えなかった。さぞ居心地が悪かったはずだし、だからこそ無理にでも家を出たのだろう。
出会った当初は出世の踏み台にでもなればと邪なたくらみで彼女に近づいたが、そんな思惑はとうに潰え、今となってはこの世間知らずのお嬢様が路頭に迷わぬよう心を砕く日々を送っていた。
銃兎にそのような義理はないが、一度面倒を見たからには陽の当たる道へ導いてやるべきだという使命感が強くあった。それが警察官としての責務とも言えようか。
「ふふ……ご安心ください。ただの巡回ですよ」
「お疲れさまですっ」
姿勢を正すと、彼女は左手をあげて敬礼らしきポーズをとった。
「……おやおや、逆ですねぇ」
左手を下ろしてやり、右手をこめかみの位置に持っていく。
「左手じゃだめなんですか」
「えぇ。元を辿れば、利き手に武器を持っていないことを示すための作法なので」
「ふぅん。けど入間さんって左利きですよね」
「……あなた、意外とよく見ていますね」
「これだけしょっちゅうお会いしてればわかりますよぉ」
「それは失礼。しかし、財布を落としてもお気づきにならないほど散漫なようですから……」
「またそれ言う〜」
屈んだ拍子に財布を落とし、すぐに銃兎が拾ってやったことがあった。以来銃兎がその話を持ち出しては揶揄するので、彼女はそのたび怒りながら笑っていた。不思議な笑顔だと銃兎は思う。
「ねぇ入間さんっ、ふつう敬礼されたら敬礼し返しません?」
にこっ、と頬の筋肉が緩む音が聞こえそうな笑顔で銃兎は答える。
「お断りしますぅ」
「えー入間じゅんさぶちょ〜殿のお手本が見たいなぁ」
「あなたが私の上司にでもなれば、せがまれずともやってみせますよ」
「えぇ〜」
二人が他愛ない会話をしていると、来客を知らせるドアベルが鳴った。
「いらっしゃいませ」
「悪いな、邪魔したか」
「……お、お疲れ様です」
「なんだ、入間かよ。ここで会うなんてめずらしいな」
この店で警部補と出くわすなんて、厄介なことになったな――銃兎は作り笑いを浮かべながら内心嘆いていた。
彼は口にこそ出さないが、銃兎へのまなざしに「中王区のお嬢さんには近づくな」と咎める棘があった。
そんな刑事たちの間に漂う剣呑な空気を知ってか知らずか、彼女だけが呑気に笑っている。
「今日はいかがなさいますか? 奥様へのプレゼントですか?」
「あぁ。結婚記念日なんだ。とりあえずこれを買ったんだが……」
そうして彼は手元の紙袋を掲げて見せた。ケーキと花束のようだ。
「おめでとうございます! 何年目なんですか?」
「さあな。忘れちまうくらい昔の話だよ」
この堅物も女に贈り物をするらしい。それとも狙いは俺と同じだろうか。銃兎は考えを巡らせながら、彼らのやりとりを見守っていた。
「メッセージカードありますよ。……ほら! 可愛くないですか?」
「ははは」
二人は和やかに談笑している。日頃銃兎が目にする警部補の表情とは大違いだ。
「……そういや最近店長見ねぇな。どうしてる?」
「さっきまでいたんですけど……たしかに忙しそうにしてますねぇ」
「へぇ……」
銃兎が固唾を呑むかたわらで、彼女は手慣れた様子でラッピングをし始めた。
「警部補はよくこちらに……?」
「まぁ、たまにだがな。そういうお前はどうなんだよ」
「私、は……」
「入間さんにはこちらの鉢をご購入いただいたんです。なんでも、お部屋のグリーンを買い足してリラックスしたいとか」
「なっ?」
「リラックスねぇ……」
まったく身に覚えのない発言だが、一応彼女なりのフォローだったらしく、謎の目配せをくれるので、銃兎もあいまいに愛想笑いを返すことにした。
「お待たせしましたっ」
商品を受け取ると、警部補は彼女にやさしくほほ笑みかけた。
「いつもありがとうございます」
「おう。なにか困ったことがあれば、こいつでなく俺を頼ってくれ」
「はいっ!」
「……じゃあな入間。ナンパもほどほどにしろよ」
警部補は去り際銃兎に近づき「綺麗な薔薇には棘があるぞ」と、いかにもなことを耳打ちして出ていった。
「ハァ…………」
「どうしちゃったんですかぁ、ため息なんかついて」
「なんでもありませんよ……」
「じゃ、入間さんにはこれでいいかな〜」
などと呟きながら、彼女は手近の鉢を掴んでレジに持っていこうとするので、銃兎は慌てて止めに入った。
「待ってください、なんですかその草は」
「草って。せめて植物って言ってくださいよぉ」
「同じようなもんでしょうッ! だいたい家には造花しか置かない主義なんだ……頼むから土は勘弁してくれ」
「入間さんって結構神経質ですよね。朝起きてからのルーティンとかありません?」
「そんなもの、ありませんよ……」
――ある。
「水だけで育てられるのならどうです?」
「水だけなら……まぁ……」
「これとか可愛いですよ。プレゼントします」
「また勝手にそんなことを……店長さんに叱られませんか」
「大丈夫ですよぉ。私のポケットマネーから出すので」
「……いえ、いいです。買いますよ」
「ほんとに?」
「えぇ。おいくらですか?」
「えっと……」
財布から紙幣を取り出すと、そのはずみにチケットが出てきた。とある美術館で行われるアートイベントの前売り券だ。
彼女を誘ってみようか。ふいに、ごく軽い気持ちでそう思った。
千円札と共に前売り券を出すと、彼女はそれを手にとって、店内の明かりに翳すように掲げ見た。
「なんですか、これ?」
「今度、美術館で面白そうな催しがあるんです。プロジェクションマッピングを用いたデジタルアート展なんですが」
「へぇ〜きれいですねぇ」
そうしてまじまじと見たあと、お釣りとあわせて前売り券を返そうとするので、銃兎はきまりの悪さを感じながらも切り出した。
「よければ一緒に、行きませんか、……というお誘いだったんですが」
「それって、もしかして、あの……デート、ってやつですか?」
「まぁ……そう、ですかねぇ……?」
思いもよらぬ問いかけに面食らった。どう応じるべきか逡巡し、さりげなく一瞥すると、彼女はなぜか妙に目を輝かせていた。
かつて、親元にいた彼女がいかに過干渉を受けてきたかは想像に容易い。一貫して女子校だったと言っていたし、この反応から察するに、デートという行為に対しある種の憧れめいたものを抱いているのかもしれない。彼女の瞳にはどことなく、そんな光が宿っている。
「デートは嫌ですか?」
銃兎がそう訊くと、彼女はぶんぶんとおおげさに首を振った。
「ではあらためて。私とドゥぇート、していただけますか?」
我ながら馬鹿げている。
銃兎は自らにあきれつつも、うやうやしく胸に手を添えて軽く頭を下げると、逆の手のひらを差し出した。さながら、プリンセスを舞踏会に誘う所作で。
「……よろこんでッ!」
*
約束の日。待ち合わせ場所にあらわれた彼女は、人混みの中から銃兎を見つけると「あれぇ〜?」と呟きながら銃兎の周囲をぐるぐる回った。
「なにごとですか」
「すみません。待ち合わせしてた人とすごく似てるんです。入間さん、っていうんですけど、いつもはスーツに眼鏡かけてて、こう……髪型もぴっちりしてて……」
「ほう……」
彼女があまりにご機嫌なので、くだらないお遊びに付き合ってやることにした。
「奇遇ですねぇ。私が約束している女性も、あなたにそっくりです。あなたに似て、無邪気で可愛らしい人なんですが……あぁでも、あなたのほうが彼女より賢そうでお綺麗――」
「入間さんひどいッ!」
「ふふふ……」
「きゃはは」
こんな姿を左馬刻や理鶯に見られた日にはおしまいだ。銃兎はそんな恐れを抱きながらもつい、彼女のペースにのまれてしまう。
「コンタクトの入間さんもいいですねぇ」
「眼鏡はお好きではなかったですか」
「そういうわけじゃないんですけど〜、なんだか特別って感じで。ほら、ウエハースについてくるおまけのキラキラレアシールみたいな。丸いアイスにたまにまぎれこんでる星型のアイスみたいな」
「はあ……」
「それに……なんていうか…………」
「なんです?」
「すっ……ごく、かっこいいです!」
溜めて溜めて搾り出されたふいの一球に撃ち抜かれ、銃兎はたじろいだ。彼女の言葉はいずれも真っ直ぐで、心の中にじかに届いて響く。
「……あなた、誰にでもそんなこと言っているんじゃないでしょうね」
銃兎があきれながらそう訊くと、
「そんなわけないじゃないですか」
と、今度は逆に彼女のほうから、どうかしているという顔をされてしまった。
「はぁ……」
やれやれと思いながらも、銃兎は顔が火照るのを感じていた。きっと夏が近いせいだ、と誰に問われたわけでもなく言い訳してみせる。
「……あなたもお綺麗ですよ。お世辞ではなく、本心からそう思います」
「ふっふふーん。入間さんさっすがお目がたかーい。これぜんぶ今日のために買ったんですよぉ」
そう言うと彼女は、芸を仕込まれた利口な犬のように得意げな顔をして、くるりと一周まわって見せた。
ファッションだけでなく、彼女自身を褒めたはずだったのだが――銃兎はそう思いつつ、照れ隠しに意地の悪い冗談を言った。
「でしょうね。……首に値札がついてますし」
彼女にはその意図はなかっただろうが、銃兎にとってはさきほどの意趣返しのつもりで。
「えっ?」
慌てふためいて首の後ろに手をやった彼女は、それが銃兎のからかいだと知ると、ほっと胸をなでおろした。ついで、頬を赤らめて銃兎の肩を叩く。叩くといっても子供がするそれのように痛くも痒くもない。
「もぉ〜入間さんのばか〜」
「フフ……」
会場に入るなり、彼女を連れてきたのは正解だったと銃兎は安堵していた。
どこを見ても恋人同士と思われる二人組が仲むつまじく群れをなしており、銃兎と彼女もその群れに馴染んでいる。彼女を誘ったとき他意はなかったが、薄暗く写真映えしそうなデジタルアートはデートスポットとして最適なのだろう。
「うわぁ〜すごいですねぇ。きれ〜」
たしかに綺麗だった。咲き乱れる青い花々の中、ぽっと黄色の灯火が浮かびあがり、弾ける。クラシック音楽の穏やかな旋律と共に床が波打ち、水面にたゆたう淡い街の明かりも、音に合わせて揺れている。一面に広がる麦畑の風からは穂の香りまでもが漂ってきそうだった。
これが投影された映像であると理解していても、モチーフになった絵画の風景にとりこまれたような没入感があり、不思議と心が落ち着いた。
「ずっと見ていられますね」
「そうですね……」
「…………」
視線を感じて横を見ると、彼女と目が合った。
「あなた、さっきから作品じゃなく私を見てませんか?」
「バレましたか?」
「これほど熱い視線を向けられれば……」
はにかんだ彼女の顔にひまわりの柔らかな光が差しこんで、窓ひとつないはずの館内に太陽のぬくもりを感じた。彼女の瞳の中で弾ける、光の粒の幻想的な彩り。
「……私でなく作品を見てください。ほら、こっちはひまわり畑ですよ」
「見てますよ。入間さんを通して作品を感じてるんです」
「またあなたは……おかしなことを言いますね。私を通して見たアートはいかがですか?」
「ん〜。あったかくて、やさしくて……でもなんだか情熱的で。感情が洪水みたいに流れこんでくる感じ」
しばらく正面のひまわり畑を眺めていたが、頬に浴びせられるくすぐったい熱に耐えきれず、銃兎は彼女のほうを見た。
「だめですよ。入間さんは作品を見ていてください。そうでないとただ見つめあっているだけになっちゃいますよ」
「それもいいでしょう」
あなたと私で、見つめあうだけ。ただそれだけで、素晴らしい芸術品を鑑賞するよりもっともっと特別な思いが湧き上がってくる。
彼女が言った通りだと銃兎は思う。感情が洪水のように流れこんでくる。そのいたずらな瞳からすべてを感じとれる。青と黄の色彩に包みこまれ、喜び、幸福、憂い、孤独、悲しみ、喜怒哀楽のすべてを。
「入間さんは? 私を通して見たアートはどうでした?」
いつしか、無意識のうちに銃兎のほうも彼女を見つめていたらしい。銃兎がほほ笑むのに合わせて、彼女の口元も緩む。
「あなたと同意見ですよ」
ひまわり畑を抜けて、幻想的な夜空の渦に降りた二人は、館内に設置されていた椅子に腰掛けた。籠型の揺れ動く椅子はハンモックのような安心感がある。
「実際、当時の絵はどんな感じだったんですかねぇ」
椅子を揺らしながら、彼女が問わず語りに話しだした。
「ほら、絵の具って時と共に色褪せていくじゃないですか。この黄色とか赤とか……描かれた当初はもっとビビットな色だったんじゃないかなって思って」
「たしかに花々の色なんかはもう少し鮮やかだったのかもしれませんねぇ」
「きっとそうですよね。私、思うんですけど、色覚って人によって違うじゃないですか。色の見え方はもちろん、感じ方が……同じ絵を見ても、時と状況によっても変わるんだろうなって……」
「……以前どこかでこの絵を見たことがあるんですか?」
「やだ、刑事の推理。そーいうテクニックはプライベートで使わないでください」
「推理もなにも、話の流れからしてあきらかにそうだったでしょう」
「そうかなぁ」
「そうですよ。……それで、以前見たときと、どう違っていたんですか」
銃兎が尋ねると、彼女は遠い目で光の渦を見つめた。
「……昔はこんなに、明るい気持ちにはならなかった気がするんですよね。あのときは寂しさばかり感じて、物悲しい絵だなって勝手に思ってて……」
それも決して間違いではないはずだ。人生への悲観や絶望。そういった寂寥もたしかに感じられる。
とはいえ、よかった、と銃兎は思う。このカラフルな渦から、彼女が憂い以外の色を見いだせるようになってよかった。
縦に流れる光の筋が、光と同じ数だけ二人の体に影を作る。そうして光の檻に囚われたまま、しばし静かに佇んでいた。
*
彼女が右足を引きずっていることに気づいたのは、美術館を出た直後だった。いくら暗がりだったといえども、これほどはっきりとした不調を見逃すとは――銃兎は忸怩たる思いで拳を握りしめる。
「待ってください。あちらのベンチに座りましょう」
「え?」
彼女の腕を引き、できるだけゆっくりと歩みを進めた。
美術館の出入口付近に設置されたベンチは、アバンギャルドな形状で座り心地は悪そうだが、ひとまずの処置はできるだろう。
「入間さん、疲れちゃいました?」
「あなたこそ。足が痛むんでしょう?」
彼女の足元に跪き靴を脱がせるとぴくりと膝が反応した。
「大丈夫ですか?」
「入間さんには、なにもかもお見通しなんですね……」
そう言うと、彼女は寂しげに目を伏せた。
銃兎は一瞬うっと息が詰まり、急いで言葉を探すも唇を動かせなかった。
――頼むからそんな顔をしないでくれ。さきほどから俺は、光の渦にのまれるのと同時に、あなたに夢中なんだ。
当初は、単なる庇護対象だったはず。それどころか、利用してやろうと目論んで近づいた。
かつて感じたことのない、自分の中に眠っていた生々しい衝動に、欲望に、銃兎は怯んだ。完全に感情を持て余していた。
平静を装いながら、祈るような思いで顔をあげるも、直後、無垢な目に射抜かれてしまい、もうだめだった。
混乱のせいか心にもない辛辣な言葉が口をついて出る。
「……いいですか。次からは新品の靴は避けてください。美術館は歩きまわることが多い施設ですから。あぁそれに、なるべく靴音も響かないソールのほうが――」
ほんの数時間前、この場所で彼女と交わした会話を思い出し、銃兎はそれ以上なにも言えなくなった。
買い揃えたばかりの服と靴。それも、慣れないヒールで。浮かれていたのだろう。心待ちにしていたのだろう。今日この日を。俺との約束を。
「すみません……」
「えぇ〜? なんで入間さんが謝るんですかぁ」
けらけらと笑う彼女の明るい声が響いた。
「っお願いします、もう一度だけチャンスをください。次のデートは、もっとちゃんと……」
「今日だってちゃんとしてたじゃないですか。楽しかったですよ?」
「……そうですか」
「入間さんとなら、いつでも楽しいです」
咄嗟に彼女の手にふれると、清らかな笑顔が返ってきた。
今、目の前の男がいかなる思いでそれを見ているかも知らずに。
「俺は……、あなたが思っているような男じゃないんだ」
そう伝えるのがやっとで、銃兎は俯いて口元に手を当てた。
とてもじゃないが、彼女の目を見られなかった。今彼女に真っ直ぐ見つめられたらなにを口走るかわからない。
なんてざまだ。ガキのようにはしゃいでいたのは俺のほうだった。視野狭窄に陥っている自覚もなく、独り静かに溺れていた。水底に足が着いてから初めてその事実に気づかされた。あるいは、ただ目を背けていただけかもしれない。
そもそも彼女に接近したきっかけは、いくら大義名分を謳えど言ってしまえば私欲のためだ。それを知ってもなお、彼女は今と同じ笑顔を向けてくれるだろうか。
おそるおそる顔をあげると、心配そうな彼女のまなざしに迎えられた。
「じゃあ、どんな人なんですか? 教えてください」
――入間さんのこと、ぜんぶ知りたいの。好きな色は、好きな季節は。お誕生日の星座はなに?
耳元で内緒話をするように囁きかけられた。
頭上を流星群が通過していく。その、こぼれ落ちた星の欠片が銃兎の上に降り注ぎ、目がちかちかして、全身に熱い血潮が駆けめぐって。そうして煮えたぎる頭では到底、ろくな思考などできなかった。
3話(2023.03.24 pixiv公開)
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