クラウンフィッシュのめざめ #1
あろうことか、刑事がブタ箱に入れられるとはな。
白い柵に覆われた部屋の隅で銃兎は自嘲し、力なくうなだれていた。
壁も天井もくすんでいるしなんだか埃っぽい。秋風がどこからか吹きこんで、座る床を通して体温が抜けていく。
『中王区の女どもが思いのままに泳ぎまわるサメだとすれば、お前や俺はミジンコなんだよ』
さきほど聞かされた警部補の声が、いつまでも頭の中にこだましていた。
――どうあがこうと大海を自由に泳ぐ力はなく、波のまにまに漂うだけ。権力にはおもねろ、長いものには巻かれろ。身分違いの女には手を出すな。すべてはひと夏の夢だと思って忘れろ。
惨めさや苛立ちといった感情は尽きて、銃兎はただぼんやりと、ここに至るまでの出来事を思い返していた。
1
ヨコハマの中心地にある公園は、その一角のみ特別に切り取られた空間のように人工物を押しのけて緑と海が広がっている。
ビルがひしめく街中に突如あらわれた幻、そんな情趣があると銃兎は思う。アンティークと同様に古い歴史を持つ公園は彼の好みだった。
街路樹の緑は濃さを増し、春の終わりを感じさせる青めいた風が吹き抜けている。海に面して伸びる歩道に靴音を響かせながら、煉瓦造りの緑廊をくぐり、花壇を越え、噴水の正面のベンチに腰掛けた。
眺望もよく署からも近いので、一息つくには絶好のスポットだった。ある一点を除いて。
「クソッ……やつら、また来やがったな……ッ!」
銃兎の足元では数羽の鳩が奇妙なリズムで首を上下させていた。
もしやこいつら俺のサンドイッチを、すでにランチというよりは三時のおやつになってしまったサンドイッチを狙っているんじゃないだろうな。
空虚な鳩の瞳にそんな思惑を感じ、銃兎は気が気でなかった。
こそこそとサンドイッチを取り出し齧りつこうとした瞬間。銃兎の背後でざぁっと噴水が立ちのぼった。
それと同時に足元で小石をつついていた鳩が羽音を轟かせながら一斉に飛び立っていく。
「――ッ! うわぁあ〜ッ!」
一羽の鳩が思わせぶりに頬すれすれを掠めてゆき、銃兎はたまらず絶叫した。
職業柄よく通る声が辺り一帯に響き渡り、元気に走り回っていた子供もベビーカーを押す女性も、散歩中のお年寄りも、誰もが振り返って声の主を見た。
おひとりさまは気楽だし、好きなときに好きな場所へ行ける自由さがいい。その反面、こういう失態を演じたときばかりは誰かにそばにいてほしいものだなと銃兎は身にしみて感じた。
ドミノ倒しのごとく不運とは続くらしく、手から滑り落ちたサンドイッチは銃兎の股間でバウンドし、地面で派手な着地を決めていた。そこへ追い打ちをかけるように鳩が群がっている。
クルッポポーと間抜けな鳴き声に取り囲まれ、銃兎は唇を噛んだ。
「くっ……まだ一口も食べてなかったのに……!」
黒いスーツに、それも股の部分にサンドイッチの白いソースがついていることに気づき、銃兎は天を仰いだ。
曇をかき分けて顔を出した太陽の眩しさに瞼を閉じる。
「あの……大丈夫ですか?」
天から降ってきたやさしい声。はっとして目を開けると、気遣わしげな面持ちの女性が銃兎の顔を覗きこんでいた。
背に日差しを受けて、後光のような輝きを放っている。
「失礼。お騒がせしました」
銃兎の惨状に気づくと、彼女は我が事のように落胆の声をあげ、あたふたと鞄をさぐりだした。
「……これっ、使ってください」
銃兎もハンカチは持っているし、なにより汚れの場所が場所だ。それを受け取るべきか逡巡しているうちに、彼女の手が大胆にも伸びてきて、銃兎はあわてて飛び退いた。
「いえッ! いいですいいですッ! 自分でふきますか、らッ!」
彼女の手からハンカチを奪い取ると、銃兎はスーツの汚れにそれを当てた。
――まったく、なんなんだ。どういう状況なんだ、これは。
「すみません、仕事の呼び出しが入ったようで……」
タイミングがいいのか悪いのか、ポケットの中でスマホが震え出し、銃兎は逃げるように噴水の裏へ回り電話に出た。
「もしもし」
『――銃兎さん! 今どこですか?』
後輩からの連絡だが、興奮のためか話が行ったり来たり前後して要領を得ない。
「落ち着いて話せ。この件はほかに誰の耳に入ってるんだ?」
「えぇと、俺と銃兎さんとあとは警部補が……」
「すぐ戻る。それまでは内密に」
「は、はいっ!」
電話が終わり、ベンチに戻るが女性の姿はなく、鳩につつかれたサンドイッチの残骸だけが残されていた。
「ハンカチを返しそびれてしまった……」
車を走らせながら、銃兎は電話で受けた報告を思い返していた。
街中で白昼堂々と違法薬物の購入を持ちかけられたとの通報があったらしいが銃兎はまだ半信半疑だった。
そういった取り引きは往々にして人目を忍んで行われる傾向があり、そこをあえて公の場で、ましてや日中になされるとは考え難い。
しかし、それが事実であれば、よほど逃げおおせる自信があるのか、もしくは危険を冒してでも早急に捌きたい訳があるのか。いかなる事情があるにせよ、その標的は本来薬物とは縁遠いはずの層も含まれることになるだろう。
銃兎は嫌な予感を振り払うようにアクセルを踏みこんだ。
「戻りました」
「銃兎さん〜!」
署に戻った銃兎を出迎えたのは、先刻電話をかけてきた後輩だった。
まだまだ未熟だが、裏切らない忠犬という意味では銃兎にとって信頼の置ける人物だ。
「通報のあった場所は……駅構内、公園、喫茶店と、すべて日中に、ですか」
「そうですッ! 周辺では高校生が見知らぬ男に声をかけられたとの事案もありました。いずれも通報を受けてすぐに急行していますが、これといった手がかりは掴めてないようです」
「おやおやこれは……。闇にまぎれられるのも困るが、こうも堂々と行われるとは穏やかじゃないですねぇ」
「それで、警部補が駅の防犯カメラの映像を確認しようと動いたんですが――」
「また中王区に横取りされたと?」
「はい……」
「なるほど」
一二鶲の前例もあるし、中王区も決して一枚岩ではない。
あの女どもが介入してきたということは、身内ないし近しい組織が関与する不祥事が潜んでいる可能性が高く、それが事実だとするともっとも都合が悪いのは中王区側だ。今頃血眼になって行方を追っているはずで、そうなれば一掃されるのも時間の問題だろう。
特に、中王刑事局の職務権限は銃兎に与えられたそれとは比べ物にならない。本来のしかるべき手順を踏まず、書類や証拠物等もなしに、時には非人道的な強引さで執行していく。
――だからといって、俺たち警察が手をこまねいて何もしないわけにはいかないが。
「よう入間。遅かったじゃねえか」
背後から肩を叩かれ、振り返ると警部補が立っていた。
色褪せたトレンチコートに髭を貯えた、銃兎からすると化石のような男だ。
かつては彼も熱心な捜査を行う正義漢だったと聞くが、その情熱はすでに燃え尽きたらしく、今や権力に迎合するありきたりな刑事に成り下がっている。
「あー……その件だがな、もういい。ほっとけ」
「と、言いますと……?」
「こっち絡みの組織犯罪らしいんだよ。ほら、お前もひどい目に遭っただろ、コンテナヤードの」
そう言って警部補は小指を立てた。この古めかしいジェスチャーは、大きな声では言えないが中王区が絡んでいる、と表現している。
コンテナヤード、つまりほんとうに一二鶲が手を組んでいた犯罪者集団絡みか。
あの件に関与した疑いのある組織は複数存在し、いずれも解体はされたが、一部の構成員は嫌疑不十分により不起訴となっていた。
近頃台頭してきた組織がその残党から成ったとみられ、前身となる組織がそうだったように港湾運送業や貿易等合法的なビジネスを隠れ蓑にし、人身売買や違法薬物の密輸等に携わっていると予測される。警察でも目をつけてはいるが、さすがに海の向こうは管轄外だし、貿易関連となると他国や大手企業の利権が絡むため捜査は難航していた。
クーデターを経て現体制に至ったが、生活の基盤となる資本主義の様式は変わらずに、ただ首をすげ替えたのみであれば、元来の富と権力は継承され、持てる者が持ち続けるのは当然だ。当然だが、銃兎にはそれが我慢ならなかった。
たとえば、と銃兎は想像する。
あらゆる捜査妨害をまぬかれるほどの、この世界からヤクを根絶させるほどの、強大な権力を持つことができれば。
俺ならその権力を、ノブレスオブリージュの精神でうまく使ってやるのに。
時折銃兎はそんな夢想に浸っては苦々しく笑うのだった。
「……ひとまず、現場に行ってみるか」
「いいんですか?」
この件には触れるなと圧力をかけられているらしいが――構うものか。
「フフッ、おかしなことを言いますねぇ。いいも悪いも、我々はこれからただの巡回≠ノ行くだけですよ?」
そう言うと、銃兎は片側の口角を吊り上げた。
薬物の取り引きがあったという現場に向かうが、見たところなんの変哲もなく、昔ながらの喫茶店だった。事前調査するも店主に犯罪経歴はない。
「警察です。捜査にご協力いただきたいのですが」
「またですか?」
「また、とは……」
「あ……」
口を滑らせた店員の様子を見るに、先客は中王区か。
通報を受けた時刻は数時間も前で、中王区にも先を越されたこの状況では望ましい収穫はなさそうだが、念には念を入れるに越したことはない。
「全員、その場を動かないでください――はい、ストップストップ」
「銃兎さん、大丈夫ですか? 令状もなしに……」
「えぇ。あくまで任意≠フ捜査なので」
店の出入口を塞ぎ、聞き込みと所持品検査を行っていく。客入りはまばらなためすぐに済みそうだ。
銃兎は最後に、奥まったボックス席にいた女性客のもとに向かった。
その位置から店内の様子は窺えなかったらしく、彼女一人が我関せずといった調子で、のんびりとティーカップに口をつけている。
柔らかな夕日が差しこんで、テーブルに窓枠の影をうつしだしている。この空間だけ時の進みが穏やかになったようだ。
「あれ?」
「おや、あなたは……」
昼間、公園でハンカチを差し出してきた女性だった。銃兎と目が合うと、彼女は旧知の仲であるかのように親しみのこもった笑みをくれた。
そうして、銃兎に向いていた彼女のまなざしは、その真横に掲げられた警察手帳にスライドしていく。
「警察の方だったんですね。気づきませんでした」
この街でMTCの入間銃兎を知らない女性はめずらしい。雰囲気からしてラップバトルは好みではないのだろう、と銃兎は思った。
「えぇ。一応、刑事の身分を伏せるためにスーツを着ているので……」
「あはは、それもそうですね」
あっけらかんと笑っている。まったくもってこの事態を掴めていないのだろう。
当然だし、わかっていてこうも見事に白を切っているとすれば大したものだ。
「なにか事件があったんですか?」
「えぇ……お騒がせして申し訳ないのですが、そちらのお荷物を拝見してもよろしいでしょうか」
「バッグの中を、ですか?」
「はい。そう長くはかかりませんが……あぁ、これは失敬。抵抗があるようでしたら、署で女性の警察官に対応させることもできますよ」
「暑で? 私逮捕されるんですか?」
「フフッ、そうですねぇ。もし逮捕されるようなことをしたのなら――」
「し、してません!」
銃兎としては場を和ませるための、お決まりの警察ジョークのつもりだった。
ところが彼女は両手をあげ、半泣きで無実を訴え始めた。あきらかに堅気の女だがここまで必死に否定されると疑わしく思えてくる。
「冗談……ですよ?」
「ほんとに……?」
「えぇ」
もちろん強制ではありませんが、ご協力いただけると助かりますねぇ。そう言って困り顔を作って任意同行を求めると、彼女は渋々ながらもそれに応じた。
わずかな気遣いとして、取調室ではなく応接室に彼女を通し、紅茶を出してやった。やさしげな笑みを湛えるのも忘れない。
銃兎は自身の容姿が、こと女性相手には有効な武器になり得ると知っていた。
「こんな場所ですが、またお会いできて嬉しいです。ハンカチを返しそびれていましたので……。あぁ、でも汚れてしまったな……こちらはクリーニングに出してからお返ししますね」
「いえ、いいんです」
銃兎がいくらほほ笑みかけても、彼女から返ってくるのは形ばかりの笑顔で、昼間見たときのそれと比べると硬い表情だった。
定期的にブタ箱に送られるヤクザやゴロツキと違い、どう見ても犯罪とは無縁の雰囲気だし、萎縮するのも無理もない。無理もない、が――。
「どうぞ楽にしてください。あなたが偶然あの場に居合わせたことはわかっています。念のために調書を取るだけなので、まずはこちらにお名前とご住所を……」
ペンを差し出すも、名前を書いた直後に彼女の手が止まった。
上目遣いで銃兎を見つめる。その目には媚びるようなあざとさよりも、困り果ててどうにもならないという様子が見てとれた。
「いかがなさいましたか」
「あの……住所……は、まだなくて……」
「住所がない?」
「はい。……住むところを探していて、今はホテルにいます。ヨコハマには最近来たばかりなんです」
「なるほどなるほど……。では、以前のお住まいは?」
「それは……」
「……? ご実家の住所で構いませんよ」
「実家、は……」
なぜだ。なぜそんなにも目が泳ぐ。
悪人には見えないが彼女の挙動はあまりに不審だ。薬物の取り引きに加担してはいないにせよ、なにか後ろめたいことがあるようだった。
銃兎はいっそう目を細め、椅子を引き、座り直すふりをして彼女との距離をつめた。
「もう記憶にありませんかねぇ」
「は、はい……」
「つい先日まで住んでいたというのに?」
「…………」
「ふふ、わかりました。ではこちらにご職業を」
「えっとぉ……仕事……も、今探しているところでして……」
「……つまり、家も職もない状況で、新天地にいらしたと?」
「そうなりますねぇ」
「ほう」
「いくつか面接を受けてみたんですけど、なかなか通らなくって。どうしようかなって思ってます」
なんと悠長な。
どうしようかなと言いつつも、彼女に困窮したふうはない。家も収入もない人間としての悲壮感や切迫感といったものをまるで感じない。
まだ知り合って間もないが、彼女のやけに楽観的な思考や危なっかしい言動を見ていると、なんとかしてやらねばと庇護欲をくすぐられる。
「……さて、質問を変えましょうか。喫茶店に来る前の行動を教えてください。たしか、私たちが公園で会ったのは昼過ぎでしたよね」
「はい。あの後すぐに公園を出ました。有名なパン屋さんがあるってガイドブックで見て、行ってみようかな〜って探してたんです。でも道に迷っちゃって……。しかも、スマホの充電も切れちゃって……。それで、しばらく歩いてたんですけど、だんだん足が疲れてきて、近くにあった喫茶店に入りました」
「偶然に、ですか」
「はい」
「ふむ……」
今の説明に、偽りはなさそうだ。
刑事としての習性か、あるいは元々の性分なのか。隠されれば隠されるほど暴きたくなる。赤子の握りしめる手をほどくように、彼女の手のひらの中に隠される秘密をなんとしても知りたかった。
「あの、運転免許証はお持ちではなかったですか? それか健康保険証でも――」
「入間、ちょっといいか」
ノックもなしに入ってきた警部補が手招きしている。
「失礼」
廊下に出ると、大声だけが取り柄の男がめずらしく声を抑えて言い淀んでいた。
「なんでしょうか」
「あ〜……入間、あのなぁ。熱心なのはいいことだが、あのお嬢さんはもういい。どう見てもシロだから家に送ってやれ」
「私が、ですか……?」
「そうだ。お前は働きすぎなんだよ。有給もろくにとってねぇだろ? 最近そういうのうるせぇんだから、とっとと帰って休め」
「はぁ……」
この人がここまで言うとは、なにか裏がありそうだ。
銃兎は応接室に戻るふりをして資料室に向かった。
「どうなってやがる……」
資料室のデータベースで彼女を検索するも、該当データはあるが一部情報が閲覧禁止になっていた。
その不自然さに、銃兎は眉をひそめた。
彼女に秘匿すべき経歴があるとは思えず、そもそもデータベースに制限をかけるにはよほどの権限が、それこそ中王区の権限がないと手を加えられないはずだ。
「おいおい……」
銃兎の読みは当たっていた。現時点で閲覧可能な情報と照らし合わせ、やがてひとつの答えを導き出した。
――言の葉党の幹部の娘、しかも大手企業のお嬢様じゃねぇか。家出してホテル暮らしって、白黒映画のストーリーかよ。
だがこれでなにもかも合点がいく。親の反対を押し切って家を出た手前、警察の世話になったとなれば無理にでも連れ戻されかねない、それを恐れて素性を隠そうとした、といったところだろう。
「入間、なにしてんだ」
銃兎が唖然としていると、真後ろのドアが開いて、警部補が資料室に入ってきた。彼の目には忠告を通り越して咎めるような険が滲んでいる。
「少し調べ物を――」
「あのお嬢さんのことだけどな、あまり深入りするなよ」
銃兎は返事の代わりに片眉を上げた。
「わかるだろ。余計な真似すれば、お前のクビだけじゃすまねぇってことだ」
たしかに、中王区がお目付役の女性といたずらに関わりを持つのは、虎の尾を踏むようなものだ。このまま取り調べを続けていたら、また中王区が押しかけてきてありもしない罪を背負わされるかもしれない。
しかし、裏を返せば彼女には虎穴に飛びこむだけの利用価値があるともいえる。彼女に取り入って上層部の弱みを握れば。たらしこんで手玉に取ってやれば。ハイリスクハイリターンな投資だが、権力と対峙するには自らが権力者になるのが最短経路ではなかろうか――。
「ほら、戻るぞ。お嬢さんを待たせんじゃねえ」
「えぇ、今行きますよ」
「ったく……。だいたいなぁ、この件には関わるなって言ったろうが。勝手に現場行きやがって……俺たちが動かなくたってどうせ上の連中が揉み消すんだから、お前はいつも通りせこせこ点数稼ぎでもしてろ」
「せこせことは心外ですねぇ。いつだったか、そちらの新人に私のポイントを分けて差し上げたことがあった気がしますが――」
「うるせえ」
銃兎は何食わぬ顔で彼女のもとへ戻り、満面の笑みを浮かべた。
「お待たせしました。ご自宅……いえ、ホテルでしたか。お送りしますよ」
署に着いた当初は夕暮れだった空に、夜の帳が下りていた。
「さ、どうぞ」
「あの、ほんとうにいいんですか? ここからなら一人でも平気ですよ?」
「いえ、いいんです、送らせてください。無事にあなたを送り届けるのが、本日最後の仕事ですから」
彼女を助手席に乗せると、銃兎は普段より控えめな速度で車を走らせた。信号で止まるときもブレーキを踏んだことを感じさせない穏やかさで。
「今日は疲れたでしょう」
銃兎の問いかけに彼女は弱々しい笑みで応えた。
「警察署の中に入ったの初めてで、ちょっと緊張しました」
「まぁ、善良な市民の方には馴染みのない場所ですからね」
つい癖で煙草に手を伸ばしかけ、思いとどまる。
彼女の鞄に煙草もライターも入っていなかったし、佇まいからしてもおそらくは非喫煙者だろう。
「警察署って、やっぱりドラマとは雰囲気が違うんですね。なんていうか、みなさん親切ですし……印象が変わりました」
「それはよかった。ちなみにどういったイメージをお持ちでしたか?」
「ほら、ドラマとかでよくあるじゃないですか、悪徳警官の暗躍、みたいな。じつは反社の人と繋がってて、裏金もらったり、盗聴とか違法捜査とかいっぱいして。証拠はあるんだぞ、って脅したり、相手の弱みを握って陰で糸を引く、とか」
「ははは……。それはドラマの中だけだと思いますよ」
いくつか身に覚えのあることを言われて、銃兎の作り笑いが引きつった。
「ですよねぇ。……これでも食えよ、ってカツ丼出されるかと思ってました」
「ずいぶんとベタなドラマを見ていらっしゃるようで。そういえば、夕食はまだでしたね。お腹すきましたか? たしかカツ丼屋ならこの付近にも――」
「いえ、いいんです。なんだか今は食欲が……」
不慣れな体験をしてよほどこたえたのだろう。彼女が力なく首を振るのが、銃兎の視界の端にちらりと見えた。
「そうですか……。まぁ、カツ丼が食べたいのでしたらいつでも署にいらしてください。ご馳走しますよ」
「え〜それってまた取り調べですか?」
「ふむ、そうですねぇ。あなたが取り調べられるようなことをしたのなら――」
「してませんよぉ」
ようやく笑ってくれた。彼女の笑顔が伝播して、次第に銃兎の表情も緩んでいく。そうして二人はドライブがてら雑談していた。
「入間さんは以前からずっと警察にお勤めだったんですか」
「そうですよ」
「すごいなぁ。警察官を目指そうと思ったきっかけとかあります?」
「……昔のことですから、きっかけは忘れてしまいましたね」
簡単に答えられる話題でもないし、面倒だ。話を逸らそう。
「あなたは? 子供の頃の夢なんてありませんでしたか?」
「ん〜……アイスクリーム屋さん……だったかなぁ」
「へぇ。いいじゃないですか」
「そういえば、ヨコハマ署の前にアイスクリーム屋さんありますよね、雑貨屋さんの隣の」
「よくご存知で」
「今日、喫茶店に入る前にその雑貨屋さんの店長さんが声をかけてくださったんです。従業員募集してますよって、すごくやさしそうな感じで」
「いいですね。面接を受けてみたらいかがですか」
「うーん……。私にできると思います?」
「えぇ、もちろん。あなたにぴったりですよ」
「そうかなぁ」
我ながら無責任なことを言っている。
銃兎にその自覚はあったが、彼女の無防備な横顔を、零れ落ちそうな笑顔を見ると、つい聞こえのいい言葉ばかり口走ってしまうのだった。
1話(2023.03.24 pixiv公開)
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