凍解けて君と(弓場拓磨)
私ほどの弓場くんファンはほかにいないと思う。
弓場くんは昔からすごかった。かっこよくて賢くて強くて、それでいて優しい。今は一線を退いてエンジニア部署にいる私も、かつては戦闘員の端くれだったので彼がどれほどの銃手なのかよくわかる。もちろん、ボーダー隊員としての実力だけでなく、情に厚く誠実な人柄も最高なのが弓場くんだ。そのうえ成績も優秀ときている。弓場くんはすごい。
そんなわけで、熱烈な弓場ファンである私には、この廊下の少し先を歩く集団の中から弓場くんの背中を瞬時に正確に見分けられるのだった。
「弓場くんっ」
なれなれしく近寄って背中に飛びついても、弓場くんはいつも通りただ静かに眉根を寄せるだけだ。こんなふうに、素っ気なくあしらわれるとわかっているからこそ、安心して絡みにいけるのかもしれない。
だいたい、弓場くんを動揺させられるような女の子なんて存在するんだろうか。取り乱し赤面する弓場くんを思い浮かべてみる。うーん、なんか違うなぁ。
「みんな揃ってどこ行くの?」
「訓練室っす!」
眉間に皺を寄せる弓場くんにかわって、帯島ちゃんが元気に答えてくれた。素直で可愛い弓場くんの妹分だ。
今週末は雪が降るらしいよとか、近所のラーメン屋さんが美味しいよとか、他愛ない話をしてから弓場隊と別れ、自分のデスクに戻った。
暑い夏も寒い冬もボーダー本部に足繁く通い続けるのは、もちろんこのためだ。弓場くんがいなかったら、遠路はるばるこんな僻地をバイト先に選ぶことはなかったし、できれば大学も弓場くんと同じ進学校に入りたかったくらいだ。もっと勉強しておくんだったなぁと後悔しながら、去年単位を落とした太刀川さんと同じ講義を受けたり、朝まで麻雀に付き合わされたりしている。あの様子だと、太刀川さんは来年もまた同じ講義を受けているんじゃないかなと思う。ボーダーでは頼りになる人なのに実生活では反面教師だ。
雪が降ることは知っていたけれど、連日続くとは思わなかった。
三門市にこれほどの大雪が降るのは何年ぶりだろう。少なくとも、私の知るかぎりではこんなの初めてだ。
金曜の夜、太刀川さんから電話が来た。
「えぇ~麻雀ですか? うーん、ちょっと風邪気味なんでぇ……」
麻雀の人数合わせに呼ばれたけど風邪をひいて寝こんでいると嘘をつき、断っておいた。あの人たちにまざっても、きっとまたカモにされるだけだし、こんな悪天候のなかわざわざ外出するのも億劫だった。
翌朝には家々の屋根が白く染まって、知らない街みたいに見えた。
窓辺に立ったまま、異国のような雪景色を眺めていると、見覚えのある人物が近づいてくるのに気づいた。気づいてしまったというのが正しい。迅悠一だった。
迅は、まるでこの瞬間を予見していたかのようなほほ笑みを浮かべ、手を振っている。嫌な予感がした。
すぐにカーテンを閉めたけれど、やはりインターホンは鳴らされてしまい、
「いるのはわかってるよ~」
と、物騒に呼びかけられ、たまらずドアを開けた。
「なにしにきたの」
「機嫌悪いね。どした?」
あんたがどういう目的で訪ねて来たのか、知るのが怖いんだよ。その怯えを悟られたくなくて私はわざと不機嫌なふりをする。
「いやあ、忘れ物届けにきたんだ」
「忘れ物?」
「とりあえず入れてよ。外すっげー寒みぃわ」
「あっ、ちょっと!」
迅は有無を言わさぬ調子で押し入ってきて、即座にエアコンのリモコンを見つけると、室温を三度も上げやがった。
「忘れ物って、なに」
「あー……ほらほら、これだよ」
たしかにそれは私の持っていた帽子だった。ずいぶん前になくしたと思っていたのに、いったいどこにあったんだろう。いぶかしげな目を向けるも、迅はまったく動じず、いつも通りへらへらと笑っている。
ますます怪しい。この男がなんの前ぶれもなく姿を見せるときは大抵暗躍しているのだ。
「そういや太刀川さんが言いふらしてたよ。おまえが風邪で寝こんでるって」
「あぁ、それね……。昨日麻雀誘われたんだけど雪降ってたから行くのダルくて」
「やっぱりなぁ」
そんなことだろうと思ったよ、と迅は笑って、ちらりと時計を見てからソファに座った。なにかを待っているみたいなその様子に私はふたたび疑いの目を向ける。
「ぼんち揚とかないの?」
「ない」
「ふーん。じゃ、お茶もらえる?」
「お茶もないから。帰って」
「悪いけど今はまだ無理」
今は、ってなんだよ。
「……あ、来た」
インターホンが鳴ると、迅の笑みはさらに深まった。
これはもう、まぎれもなくホラーだ。怖すぎる。来たって、なにが。
「なにしてんの? 早く出ないと帰っちゃうよ~?」
「い……いやだ!」
「居留守つかってもいいけどさ、おまえは後悔するよ」
「あんたのサイドエフェクトがそう言ってんの?」
私がそう訊くと、迅は大真面目な顔で頷いた。
迅が言うならそうなんだろう。なにがなんだかわからないが、もうやけくそだ。意を決して玄関に行き、ドアスコープを覗き見る。思わず息をのんだ。
弓場くんだった。雪で前髪が濡れて、いつもと少し雰囲気が違うけど、これは間違いなく、弓場くん。
「どうしたの?」
「オウ……元気そうじゃねェか」
弓場くんのパンツの裾は雪で濡れていた。きっとここまで来るのに苦労したんだろう。手にはコンビニの袋がぶら下がっており、大きめのペットボトルが重そうだった。
「……もしかして、太刀川さんからなんか聞いた?」
「高熱出して寝こんでるんだってなァ」
「あーははは……。あの人、大げさだから……」
とにかくあがってよ、寒かったでしょ。そう言いかけて先客がいたことを思い出す。私は迅の靴をさり気なくつま先でずらして弓場くんの死角に追いやった。
「もう大丈夫。ごめんね、心配かけて。せっかくだし外で話さない? 近くにパウンドケーキの美味しいカフェあるんだけど――」
「あれぇ、弓場ちゃんじゃん。よく来たね」
「迅!」
こいつはほんとになんなんだ。
てっきり、弓場くんの訪問を知らせに来たおせっかいやきだと思ったのに。迅との関係を変に誤解されたらどうしよう。
背後からあらわれた迅を見て、弓場くんはとても驚いたようだった。
「あの……えっとね、違うの、弓場くん……」
ドサッと鈍い音が響き、弓場くんの手からコンビニの袋が滑り落ちる。眼鏡越しの目はかっと見開かれ、わなわなと唇を震わせて、一歩二歩と後ずさっていく。
こんなに動揺した弓場くんは初めて見る。
「そうか…………邪魔したな」
「え?」
弓場くんは踵を返し、無言で去っていった。走っているわけでもないのにものすごいスピードで階段を降りてゆき、玄関のドアを開ける音が聞こえた。
「早く追え! おれのサイドエフェクトがそう言ってる!」
満面の笑みを浮かべた迅が指をさして叫んだ。
こいつ、ふざけてるな!
「弓場くん! 弓場くん! 待って、お願い!」
叫びながら階段を駆けおりると、弓場くんは律儀に待っていたようで、心配そうな、それでいて怒ったような、複雑な表情をしていた。
「なにしてんだァ……? 病み上がりだろうが」
「ちっ……ちがうの、ごめんね……」
私はここ数日の出来事を洗いざらい説明した。太刀川さんから麻雀の誘いの電話が来た金曜の夜のこと。妙なタイミングで忘れ物を届けにきた迅のこと。風邪で寝こんでいたのは嘘だけど部屋が寒いから毛布にくるまって過ごしていたのは本当。
私の怠惰な暮らしぶりを知られるのは苦痛だったが、それ以上に誤解されたままはいやだったし、なにより弓場くんの優しさを無下にしたんだ、そのことを心から謝りたかった。
「ほんとにごめんね」
「ン……だよォ……」
「怒った……?」
「し……す…………ろが…………」
「え?」
よく通る声ではっきりと話す弓場くんにしては、歯切れの悪い言い方だった。
ほとんど聞き取れなくて耳を近づけると、今度は息を吸う音まで聞こえてきた。あ、くる――そう思ったときにはもう遅い。
「心配ィ! すンだろうがッ!」
「うわぁ!」
トリオン体でない生身のときに、ここまで元気な弓場くんはめずらしい。キーンと耳鳴りがする。
弓場くんの頬は寒さのせいか赤らんでいた。
「弓場くんってもしかして……私のこと、けっこう好きだったりする?」
いつもみたいに冗談めかして訊いてみたけど、弓場くんは無反応で、眼鏡が曇っていて感情が読み取れない。なんだか妙にどきどきした。
「……嫌いじゃあねェ」
「じゃあ好き? ラブ? ライク? ラブよりのライク? これからラブになりそうな感じ?」
「……てめェーは好きでもねェやつのために、雪道歩いて見舞いに行くのかァ」
「うん、行くよ。走っていく」
今、私はとても調子に乗っている。
もしかしたらという一縷の望みが、愚かしいほどの自惚れが、ファンとしての一線を越えさせてステージ上によじ登らせようとしている。迷惑な客だ。でも、もっともっと、確実な言葉がもらえたら――もらえたら? 私はどうするつもりなんだろう。自分でもわからない。
「どうでもいいやつのために2リッタァのペットボトル背負って歩けンのかァ」
「うん。ほら、私って親切だから」
「…………」
弓場くんは長いため息をつき、額に手をあて、ほとほとあきれ果てたというふうな様子だった。こんなに弓場くんを困らせた女の子は私が初めてなんじゃないの。なんて、さらにさらに思い上がっていく。
固唾を呑んで次の言葉を待ったが、弓場くんはついに首を振ってしまう。
「……今は言わねェぞ」
「なんでぇ?」
「こンなもん誘導尋問だろうが」
だったら私から言ってやろうじゃねェか、弓場ァ! 歯ァ食いしばれ! そんな私の決意を見透かされたようで、片手で口元を塞がれた。
あからさまに肩を落とす私に、弓場くんはふっと柔らかいほほ笑みをくれると、今度は真剣な面持ちで、こちらに向き直った。
「月曜は本部に顔見せに来い。大事な話がある」
大事な話って、なに。ねぇ弓場くん、今すぐ聞かせてよ。
遠ざかっていく弓場くんの背中を見つめながら、引きとめたい気持ちを必死になって抑えているうちに、ほんとうに熱が出そうだった。