afterglow(太刀川慶)
今度こそ、終わりにしようと思う。もう慶とはこれっきりだ。
ただならぬ決意を込めてドアを閉めたが慶は追ってこなかった。
何度も通ったこの道も、この夕日も、これが最後だから目に焼きつけておこう。怒りの炎がめらめらと燃えたぎり、歩調がどんどんと早くなる。ついには走り出していた。
「……あ~、それ中止な。言ってなかったか?」
さっき、やつはこともなげにそう言った。
言おう言おうと思っていたが、とうとう言いだせなかった、みたいな雰囲気ならまだ許せたかもしれない。いや、いずれにせよ許せなかった。でもせめてレポートの提出を忘れていたのと同じノリはやめてほしかったのに。
慶は布団と戯れながら、起きる素振りさえみせなかった。終わったあとはいつもこうで、たいていすぐに眠ってしまう。
「中止って、なにが」
そのとき私はベッドの隅に腰かけて、服を着ながら、来月の旅行で持っていくはずのスーツケースのサイズについて問いかけていた。
そういった状況だったので、慶の発言の意味を瞬時に理解できなかった。スーツケース、水着、プライベートビーチ――なに、中止って?
「旅行。行けなくなった」
フリーズした私に、慶は追い打ちをかける。
「迅が今はやめとけって言うんだ」
「なにそれ、占い師?」
「なはは、まぁそんなとこだな」
迅。そういえば前にも聞いたことがある名前だ。私はボーダーの人間ではないからあまり詳しくは知らないけれど、たしか、とても勘のいい隊員がいると言っていた気がする。なんだそれ。オカルトか。
「悪かったよ、マジメに」
慶の手が強引に私を引きよせる。顔を背けたけれど無理やり額に口づけられた。
「必ず埋めあわせはするから」
そんな感じで私たちは別れ、そして数日が経った。
「……で、別れたの。だから誰か紹介して? お願い!」
夏までに彼氏を作りたい一心で頼みこむも、友人の反応は薄かった。
これまで慶とは幾度となく、くっついたり離れたりを繰り返していたこともあり狼が来たぞとわめく少年を見る哀れんだ目を向けられてしまう。
あいにく同じ大学ということもあり、慶は別れてからもしつこく復縁を迫ってくるし、そればかりか別れ話をした事実さえもなかったみたいな気安さで絡んでくるので、私の言葉にはますます信憑性がなくなるのだった。
学食のトレイを持ちながら、私は必死に訴えかけた。ランチタイムはもっとも長い行列ができるので、まだまだ説得の時間はありそうだ。
「明日、バイト先のみんなで飲みに行くって言ってたよね? 私も行っていい?」
「えー、私はいいけど……太刀川はなんて言うかな」
「あいつけっこう嫉妬深いよね」
「だから別れたんだって!」
「――誰と別れたって?」
慶は友人と私の間に強引に割りこむと、なれなれしく肩に手を回してきた。
やめて、近寄らないで。学食のトレイをサーフボードみたいに小脇に抱えるのもイヤ。挨拶代わりに髭をこすりつけてくるのも動物っぽくてイヤ。慶のやることなすことすべてが許せない。そんな私の怒りをよそに、慶は耳元でささやく。
「よう。明日、防衛任務のあと泊まり行ってもいいか?」
「あんた、あったまおかしいんじゃないの。いいわけないでしょ」
「ありゃあ、まだ怒ってんのか。今回は長いな……」
「言っとくけど、旅行のドタキャンがすべてじゃないから。別れた理由はあんたの不誠実な態度が積もり積もった結果です。……さよなら。もう消えて」
そこまで言っても慶にはなにも響いてはいないようだったが、スマホが鳴ったのをきっかけにあっさりと離れていった。
さきほどまでのしつこさはなんだったのか名残惜しさも見せず、背を向けて行ってしまう。慶がこういう潔い態度をとるのはボーダーからの呼び出しがあったときだと決まっている。きっと今、私が泣きわめいて行かないでとすがっても、慶は留まってくれない。今更、だからどうしたという話だけど、別れてからもボーダーを理由になおざりにされるのはなんとなく癪だった。
「慶」
私が呼んでも慶は振り返らなかった。聞こえなかっただけかもしれない。食堂を出ていく間際、ぞんざいに投げられたトレイがガシャンと痛そうな悲鳴をあげた。
慶はこの街に囚われている。慶だけじゃなく、きっと、ボーダーの人間はみんなそうなんだろう。
なにが界境防衛機関だ。なにがA級一位だ。こんな街、さっさと捨てていっそ三門市全域を警戒区域にしてしまえばいいのにと、最近は本気でそう思う。それが無理なら、ゲートが開いても被害がでないよう、警戒区域の周辺をぐるりと塀で覆ってしまえばいい。そこにやつらを閉じこめておけば戦闘員もそれほど必要ないでしょ。だいぶ前、慶にそんな話をしたことがあった。
「で、その塀ってのは、誰がどうやって作るんだ? 空を飛ぶタイプのもいるぞ。そいつらはどうやって閉じこめておく?」
なんて言っていたっけ。留年寸前のくせに、たまに的を射たことを言うから腹が立つ。
塀でも檻でもあんたが作ればいいんじゃないの、最強なんだから。皮肉のつもりで言ったが慶には通じなかったらしく、得意げに顎髭を撫でていた。
私にとっては慶が唯一無二の一番なのに。なのに、どうして慶はそれだけじゃ満足できずに、この街の一番になりたがるんだろう。
いつまでもめそめそしていられるか。二十の夏なんて、一瞬で終わってしまう。
「「乾杯~!」」
慶と付き合い始めたのは大学に入学してまもなくだったから、こういう、いかにもな出会いの場は久しぶりだった。自己紹介から始まって、相手の好みや欠点を少しずつ探っていくやりとりは、どうしてだろう、楽しいと思うよりも煩わしさが上回った。
慶と知り合ったばかりの頃は、なんというか、もっともっと、いい意味でのドキドキ感があった気がする。慶の飄々とした立ちふるまいに翻弄されて、いつだって目が離せなかったし、慶の好みも星座も血液型も明日の予定も、なにもかもを知っておきたかった。
気乗りしないまま夜が過ぎていった。いちおう連絡先は交換したけれど、もう二度と会うことはないだろう。
「なんかつまんなかったね」
「そう?」
「やっぱ太刀川との喧嘩のせいで落ちこんでるんじゃない? 今日も食堂で冷たくされてしょんぼりしてたし」
「だから喧嘩じゃなくて~」
そんなふうにしてだらだらと繁華街を歩いていたときだった。
警報が鳴るとほぼ同時に、遠くの空に妖しい色の稲光が走った。その正体が何なのか確かめる暇もなく、人の波に飲まれるようにして近くのビルに押しこまれる。外の様子は窺えないが、時折地響きが鳴り、かすかに建物が揺れるので地上では戦闘が始まったんだろう。この辺りでゲートが発生するのはめずらしい。
ビルの非常階段に座り、スマホの光を見つめて平静を装った。
慶も今、あの暗闇のどこかで戦っているんだろうか。そう思うと手が震えて、呼吸が浅くなる。
避難指示が解除され、恐る恐る外に出てみると、騒がしいながらも変わりない夜の街が広がっていた。数時間は閉じこめられていたような体感があったけれど、時計を見ると数十分も経っていなかったので被害は少なそうだ。それでもまだ心臓がうるさい。
「ここから先は通行止めです、迂回してください」
一部区間では交通規制されているらしく、ボーダー隊員が市民を誘導している。そのなかの一人の男の子が、こちらを見て足を止めた。
「あ、太刀川さんの彼女だ」
「彼女? そういや別れたって聞きましたけど」
「いーや別れてない。少なくとも俺は別れたつもりないぞ」
ボーダー隊員の間から顔を出した慶は「そうだろ?」という目を向けてくる。
私はなにも言いかえせず、立ちすくんでいた。その間にも周囲は好き勝手に茶化してくる。
「太刀川じゃん~今あんたの彼女と浮気してきたとこ!」
「浮気現場ですって。どうします太刀川さん」
慶だけは私の状態を看破したようで、いつものふざけた調子から一変し、
「大丈夫だったか」
と、心配そうに顔を覗きこんでくる。
そのシリアスな表情に、やさしい声音に、ついに堰を切ったように溢れ出した。ここ数日、胸の中でわだかまっていた感情が一気に氾濫して、もう自分でも止められなかった。
「えーん慶のバカ~!」
「おーよしよし。怖かったな。大丈夫だ」
慶が両手を広げる。それが合図だった。慶の胸に迷いなく飛びこんで、人目もはばからず声をあげて泣いた。
額に顎髭を押しつけられてちくちくしたし、犬にするみたいに頭を撫でられたけれど今はそれさえも懐かしくてたまらなかった。これからは約束を守ってほしい。嘘はつかないで、危ないこともしないで。
「守るさ。旅行にも行こうな」
たぶん慶は懲りずに約束を破るだろう。危険な場所には真っ先に進んでいくだろうし、いつまでたっても旅行には行けないかもしれない。そしていつかまた、そう遠くない未来に、私たちはふたたび別れ話をするだろう。性懲りもなく私は傷ついて、慶は悪びれもしない。それでもいいとさえ思えた。
今はもう少しだけ、馬鹿なふりをしてこの腕のなかで泣いていたい。この人の腕で守られた三門市というゆりかごは、温かくてとても居心地がいいから。