夜凪を希う(トリッシュ)
石畳を鳴らしていたトリッシュの足は、ショーウインドーの前で止まった。
サングラスを少し下げて、ガラスに反射する街の風景に目を凝らしている。彼女の瞳が鋭く追うのは、道路を挟んだ向かいの通り、花屋で店員と立ち話をする男の一挙手一投足だった。
(間違いない、あの男だわ。先週も、ナンパ男に絡まれたとき、間に入って逃してくれた!)
近頃感じる妙な気配の正体は彼に違いないと、彼女はほとんど確信していたが、さらに決定的な証拠がほしかった。それに、監視される理由も聞きたかった。
トリッシュは今まさにトラックが通過する道路に飛びだしていく。クラクションが鳴り、通行人の悲鳴があがった。もちろん、万が一衝突した際に備え、スタンドの準備もしていたが、それを使う必要はなかった。
「危ないよ、車が来ているじゃあないか。……無事かい?」
彼女の予想は正しかった。
道路脇でトリッシュを抱きかかえるのは、ついさきほどまで数十メートル先の花屋にいたはずの、あの男だ。
「ありがとう。あなた、先週も会ったわよね。しつこいナンパ男を追いはらってくれた」
「あぁ……そう言えばそうだったね。これって運命かな?」
男の軽口を受けながして、トリッシュは核心に迫る質問をなげかける。
「あなた、組織の人間でしょう。それもスタンド使い」
「……すたんどぉ? ハハッ、なんだいそれ。新しいジェラートの店かい?」
「ごまかしても無駄よ。さっきまであの花屋にいるところを見てたんだから。この距離を一瞬で移動するなんて、ジェット機でもないかぎり無理だわ」
男は考えるそぶりをみせたが、やがて、観念したというふうに話を始めた。
「近頃、うちの組織で内部抗争の予兆があってね。ほら、まだボスが代わって一年だろ。いろいろあるのさ……あぁ、立ち話もなんだし、そこの店に入ろうか」
きみへの接触は許可されていないんだけどね、と言うわりに男はとても饒舌だった。
ギャング組織の新たな在りかたを模索するジョルノの流儀は、一部の構成員から快く思われなかったらしい。かつてパッショーネは金をかき集めた者が昇格する、わかりやすい反社会的組織であったが、それが現在では慈善事業めいた活動にまで手を広げているのだから、なるほど、反感を生むのも頷ける――トリッシュはカッフェを飲みながら納得した。
「そういうわけだからさ。しばらくの間、きみの周りをうろつかせてもらうよ」
この男は、ジョルノがボスの座についた後に加入した新入りで、古株との繋がりは薄いと目され、トリッシュの護衛を命じられたのだという。
「つきまとわれるのは、いい気がしないだろうけど……でもさ、この男前なら女の子のそばにいても、不審じゃあないだろう?」
男は両手を広げ、わざとらしくおどけた表情をつくり、ウインクまでしてみせた。
たしかに端正な顔立ちだった。けれどもその印象は、軽薄の一言につきる。
トリッシュは男の姿を上から下まで冷ややかに見定めた。細身のスーツは落ちついた色味で、明るい髪色を引きたてている。センスは悪くないようだ。やさしい垂れ目に角度のついた眉。大きな口はとにかくよく動く。
同じボディガードでもブチャラティとはまるで違う、正反対だ、とトリッシュは思う。しかし一方で、ジョルノが選んだ男なら信頼できると確信を持っていた。男に対する信頼ではない。ジョルノへの信頼だ。
「だけど……なぜなの? あたしは前任のボスの娘よ。今さら狙われる理由なんてないわ」
男はきょとんとした表情ののち、慎重に言葉を選びながら答えた。
「それは、ボスにとって、……〝今のボス〟にとってきみが、大切な存在だからじゃあないかな」
黙りこくるトリッシュを見る、男のまなざしはやさしげだ。黙々とケーキを食べる幼い子どもを見守るような、温かさで満ちている。
「だから、きみの身になにかあるとマズイんだ。スゴクね。たとえばさっきみてぇな危ない真似されるとさ……俺の言いたいこと、わかってくれるかな?」
トリッシュはわざと「不可解だ」という顔をした。
「あたしのスタンドがどんなものかは知らされていないようね」
「知らないな。どんなのだい?」
「教えないわ」
「そう! べつに構わないさ。とにかく、きみはいつもどおりに過ごしててよ。俺のことは後ろをついて歩く人懐っこい犬だと思っていればいいさ」
「人懐っこい犬? 顔の周りを飛びまわるハエじゃあなくって?」
「それでもいいや。あぁ、荷物を持つよ。ほら、そっちも……全部貸して」
そうして、買い物袋で両手がふさがってしまうと、男は自身のスタンドを出現させた。
「さあ、ショッピングの続きといこうか!」
そのようにして、ふたりの奇妙な生活は始まった。
トリッシュの日常は一般的な高校生と変わりなく、男に言わせれば健全そのものだった。
学校へ行き、放課後は友人と集い、ときには街へ繰りだす。新しいジェラート屋やコスメショップ、映画館。男はつかず離れずの距離を保ちながら、彼女が困ったときには必ず手を貸してやった。急に雨が降ってくれば傘をさしかけたし、友人にドタキャンされたランチでは食事を共にした。新作のコスメを前にして、どの色を選ぶか迷っていると助言をくれさえもした。
いつしか彼は、トリッシュの第二のスタンドのような存在となっていた。
「なにか食べないのかい? 今日はまだ水を飲んだだけだろう」
少食な彼女を気遣い、彼はよく食事を差しいれた。
裏庭のベンチに腰かけるトリッシュは、彼に一瞥をくれると、ふたたび手元の教科書に視線を戻す。
「ふぅん、授業でシェイクスピアを扱うんだね」
トリッシュの手から教科書をとりあげてかわりにサンドイッチを持たせると、男はシェイクスピアを音読し始めた。熱っぽい口ぶりで、それがかえって彼女には滑稽に見えた。
「あぁ、あなたの固く閉ざされた心に、私はたまらなくひきつけられてしまうの!」
トリッシュはサンドイッチを食べながら、男の演じる夏の夜の夢を冷ややかな目で眺めた。昼休みを費やしたところで、テストの結果は劇的に変わるものではないと、彼女もわかっている。ほんとうの目的は友人と離れて、ひとりになることだった。
明日予定している催しについて考えるとき、トリッシュは深い孤独を望んだ。しかし男の存在がそれを難しくする。
「あなたは……学生ではないのよね。あたしとそう変わらないように見えるけれど。年はいくつなの」
「学生だったよ、昔はね。もしかして俺のことが気になるのかい?」
トリッシュは返事をするかわりに炭酸水を飲んだ。
男の生いたちや私生活に関して知っておきたいという思いはあったが、聞いたところで今のようにはぐらかされるばかりだった。心を閉ざしているのは彼のほうじゃあないかと、トリッシュは内心で毒づく。なにを聞いてものらりくらりとかわしてしまう、そんなつかみどころのなさに惹かれる一方で、彼女はそれがもどかしくもあった。
「これはいったいどういう物語なんだ? まさに恋に溺れるって感じだね」
「惚れ薬の影響で、目が覚めて最初に見た相手を好きになってしまったのよ」
「へぇ、そりゃあ便利だ」
「便利?」
「毎晩いっしょに眠ればいいだけじゃあないか。簡単だろう」
「そうかしら……」
「人の心をつなぎとめるのは難しいよ。鎖でつないでおくことはできないからね」
ほんとうにそうだろうか。トリッシュは考えた。
(だって、あたしの心はあの日、一年前のローマにつながれたままだもの)
夜になっても彼女はそのような考えに囚われていた。
「明日、朝の八時にここで待っているわ。車で来てほしいの」
一日の終わりの習慣として、彼はトリッシュの額におやすみのキスをする。
いつしかトリッシュは、このキスを待ち遠しく感じるようになった。別れ際になるとそわそわしだし、髪型やメイクがおかしくはないかと、しきりに立ちどまっては鏡を探した。しかし、彼女自身はまだその自覚に至ってはいない。
翌朝、喪服を着たトリッシュは車に乗りこむと「おはよう」と言ったきり口をつぐんだ。車内の空気は張りつめている。おしゃべりな男もこの日ばかりは寡黙だった。
やがてふたりは、潮風が漂う小さな町の、見晴らしのいい丘の上に到着した。そこにはひっそりと墓石が立ちならんでいる。
パッショーネのボスとその側近たちに出迎えられ、トリッシュは静かにほほ笑む。男も車から降りて、少し離れたところでその様子を見守った。
墓石に花を供える彼女の背中はわずかに震えている。トリッシュは、彼の名を呼びたい衝動をこらえるので必死だった。それは〝ブチャラティ〟ではない。ここ数ヶ月、彼女の心の隙間を埋めていた、お調子者の〝あの男〟の名だ。
今すぐ駆けよってきてほしい。肩をさすって、抱きしめて、大丈夫だよと額にキスをしてくれたなら。そうしてくれたならあたしの心はどれだけ軽くなるだろう――トリッシュはそう思わずにいられない。
あの男の気配を感じると、彼女の心はたちまちやすらいだ。それと同時に、自分だけが安穏に過ごすことへの罪悪感にさいなまれる。彼らを置きざりにして、自分だけが未来を、幸福を手にするなんて。
なつかしい顔ぶれとの再会によろこびながらも、トリッシュは悲しみに暮れていた。
一年前の記憶がより鮮明になり、渦を巻いて彼女を飲みこむ。一年という月日が経ち、墓石は潮風に吹かれわずかに色あせていたが、彼女の心の傷を癒やすには短かすぎた。
トリッシュの胸にはいまだ穴が開いたまま、傷口を広げるように潮風が吹きぬけている。
夜になり、男との別れ際、彼女は額のキスを避けるように背を向けた。
そうして部屋に駆けこみ、トリッシュは泣いた。そんな彼女の様子を、男は扉が半分空いたバルコニーから見守る。あえて気配を消さないのは、いつでも声をかけられるようにとの、彼なりの配慮からだった。
「そこにいるんでしょう」
トリッシュが呼びかけると、スタンドと共に男がそっと顔をだした。いたずらがばれた子どもみたいな困り顔だ、とトリッシュは思う。
「ひょっとして、きみが眠れないんじゃあないかと思ってね……こういうの、どうかな」
そう言って、男は後ろ手に持っていたDVDを広げる。どれもトリッシュの好きな恋愛映画だった。
「女の子って好きだろう。可愛いパジャマを着て、みんなで映画鑑賞。それと恋バナ」
「そうね。……それで、あなた用の可愛いパジャマは持ってこなかったの?」
「あいにく、俺に合うサイズがなくてね」
トリッシュはくすくすと笑った。それは彼女が今日初めて見せた、心からの笑みだった。
薄暗い部屋のなかベッドに並んだふたりは、画面の向こう側で人々が恋に落ちる瞬間を見た。いつのまにか繋がれた手から、ぬくもりを分けあいながら。
「この映画、初めて見るよ。きみは結末を知っているのかい?」
「えぇ。でも、ラブコメディの結末はどれも同じよ。恋をして、なにかに邪魔されて……最後はやっぱり結ばれるの」
「そうならない物語もあるじゃあないか。タイタニックなんて氷の海で永遠の別れを……」
そこまで言いかけて、男は口ごもる。
「あれはラブコメディじゃあないもの。ラブロマンスよ」
しばしの沈黙が続いた。
それを打ち破ったのは、いつになく真剣な男の声だった。
「なにか……俺にできることは、ないかな」
彼は切々と、訴えかけるように言葉を続ける。
「きみの力になりたいんだ。パッショーネの用心棒としてじゃあなく……おれ、が……」
切実みを帯びた一言一言に、トリッシュの胸は震えた。彼女を真っ直ぐ見据える男のまなざしからは、ごまかしや飾り気は感じられない。ありのままだった。
トリッシュはその瞳の奥に、途方もない思いやりとやさしさを見いだした。それは同時に、彼女が自身の恋心を認め、受けいれた瞬間だった。
「あたしが眠るまで、ここにいてくれる?」
「……あぁ、もちろんさ」
「手を放さないでね」
「きみが嫌だって言っても放さないよ」
そう言って男は、彼女の華奢な手をさらにきつく握りかえす。
エンドロールにさしかかった頃、トリッシュは眠った。映画は彼女の言ったとおりの結末だった。
男はさきほどしそこねたおやすみのキスを落とす。こわい夢を見ないようにと、ささやきながら。彼女の頬には涙が乾いたあとが、青空に浮かぶ飛行機雲のように残っていた。
「おやすみ、トリッシュ……」
開け放たれたバルコニーから月明かりが差しこんで、ふたりの足元を照らしている。
夜は静かに更けていった。