仰せのままに(ジョルノ)

ランチの約束は十二時を予定していた。


オフィスからほど近い、いつものバールで待ちあわせだ。彼はすでにテラスでカッフェを飲んでいて、わたしに気づくと「チャオ」と親しみがこもった眼差しで片手をあげる。


「あれ、車は?」

「そのことでまず、きみに謝らなくちゃあならない」


彼はカップを置き、神妙な面持ちで言葉を続けた。


「事情があって、ぼくの車は使えないんだ」

「べつにいいけれど……なにかあったの?」

「ミスタに貸したんですよ。……返ってきたときはバンパーが外れていたけどね」

「えぇ!」


もうひとりの恋人のように大切にしていた彼の愛車。それを壊されたというのに、どういうわけかジョルノはうれしそうだった。彼らにしかわからない、男同士の事情があるのだろう。


「今代わりの車を呼びます」

「いいよ、すぐ近くだし。歩きましょう」

「しかし――」


ジョルノは心配そうにわたしの足元を見た。幸い今日はハイヒールではなかったので、すこしくらいの散歩なら平気だ。


「ね? ひさしぶりに手を繋いで歩くのも素敵じゃない。なんだか昔に戻った気分」

「きみがそう言うのなら、ぼくは構わないけれど……」

「さあ、行きましょ! ほら、早く立って!」

「あぁ……なんだか今日はやけに元気がいいね。またカフェインのとりすぎかい?」

「ジョルノとの約束が待ち遠しかったのよ」

「そう思っていたのはぼくだけじゃあなかったんですね」


彼の腕を引っ張ってネアポリスの街を歩くのは不思議な心地だった。肩を怒らせて歩いていたチンピラが、ジョルノの顔を見た途端小さな悲鳴とともに姿勢を正す。

かつてこの街を仕切っていた〝ボス〟は、けっして正体を現さなかったと聞くが、ジョルノは顔も名前もさらけだしている。最初から隠すつもりもなかったのだろう。かといってひけらかすようなこともしないが。


「あなたの車を破壊した〝ミスタ〟って、いつもそばにいるボディガードっぽい人よね?」

「えぇ、でも彼はボディガードなんかじゃあないですよ。ぼくは自分の身くらい、自分で守れますし……もちろん、きみのこともね」

「わたしだって、自分の身くらい自分で守れますよ」

「そうでしたね」


わたしを見るときの、彼のやさしい眼差しがくすぐったい。

ほんとうはジョルノが、わたしをあらゆる悪意から守ってくれているのだと知っている。

夜遅くなった帰り道、背後に気配を感じて振りかえると彼の部下がついてくれていた、なんてことはしょっちゅうだ。去年わたしにセクハラまがいの嫌がらせをしてきた上司はなんの前ぶれもなくアジアの支店に飛ばされていった。その件について詳細を知っているらしい同僚は多くを語らない。ただぎこちなくほほ笑むばかりだ。

ジョルノはなにも言わなかったが、彼がなんらかの方法で圧力をかけたのは間違いない。問いただしたとしてもジョルノはしらを切るだろう。それでも、わたしは確信していた。まず、そんなことができるのはジョルノしかいない。
しかしこの件でまだ腑に落ちない点が残っている。わたしはジョルノにセクハラ上司の話をした覚えがないのだ。そんな相談をすれば彼は絶対に上司を許さないだろうとわかっていたし、ふたりきりの甘い時間を仕事の愚痴で台無しにしたくはなかったから。

もしかすると社内に〝パッショーネ〟の内通者がいるのでは、などと、ときどき本気で考えてみたりもする。ジョルノに言えば「きみは映画の見すぎですよ」と笑うに違いない。彼は嘘をつくのが上手いから、真実は永遠に明かされないままだろう。

そのようにしてジョルノの流儀は少々手荒く、ときに法を犯す場合もあるが、彼がボスになってからというものネアポリスの治安はずいぶんと安定した。ほうぼうにはびこっていた麻薬は殲滅され、軽犯罪の検挙率もあがったと聞く。


「チャオ、ジョルノ!」

「チャオ。……おっと、車に気をつけるんだよ」


こんなふうに、街の少年たちも彼の素性を知ったうえで気軽に声をかけてくる。
この街と、この街の人たちを思う、とても真剣なジョルノの愛情が、今現在のネアポリスの様子にあらわれているのだ。


「店についたら今年のバカンスについて話しあおうか」

「もう夏の休暇の話? ちょっと気が早いんじゃあない?」

「春なんて一瞬で終わってしまうさ」


彼の言うとおり、街は春の陽だまりのやさしさよりも初夏の活気で満ちていた。頭上でさあさあとしなる枝の先に瑞々しい青葉が茂っている。


「あっ!」


気まぐれな突風に帽子が飛ばされていく。
わたしが声をあげるより早く、風は帽子をさらって遠く遠く、雑踏の向こう側に消えていった。


「お気に入りだったのに……」

「気を落とさないで。ほら、見てください」


ジョルノが指をさす方向を目で追う。
青空にぽつんと浮かぶ白い雲――いや、鳥だ。鳥は徐々に近づいてきて、しかもよく見ると、たった今風に飛ばされたはずの帽子を咥えているではないか。


「うそぉ……」


それは結婚式で放たれるような、純白の鳩だった。

鳩は行儀よくジョルノの手首に舞いおりて、わたしに帽子をさしだした。おそるおそる受けとる。すると鳩は、まるで天命をまっとうしたかのように満ちたりた様子で、ふたたび空に羽ばたいていく。その光景を、わたしは口を開けたまま眺めていた。


「これはジョルノが用意した仕掛けかなにか? だけど、本物の、生きた鳩に見えたわ」

「間違いなく本物の鳩でしたよ」


周囲の人たちも、ショーを見る眼差しで立ちどまっている。
ただひとり、ジョルノだけが動揺を見せずにほほ笑んでいた。


「前から気になっていたのだけれど……。ジョルノといっしょにいると、なんというか、きまって動物が集まってくるのよね。まるでミュージカル映画みたいに」

「彼らもきみの美しさに引きよせられているんじゃあないかな。ぼくと同じようにさ」

「もう、ごまかされないんだからね」

「……なぁ? きみだってそう思いますよね、帽子さん?」


ジョルノはめずらしくおどけた表情をつくり、わたしの帽子に問いかける。


「あっ! 見て! 青い小鳥よッ?! こんなのってアニメでしか見たことないわッ! それに蝶も! 小鳥に蝶に……次は子鹿かしら」


これではまるで、おとぎ話のプリンセスだ。
どこからともなく寄ってきた鮮やかな蝶は、わたしの頭上をはらりひらりと舞う。小鳥は一軒先のバールの看板にとまった。


「そんなに騒がないでくださいよ……ただの無害でキレイな蝶だよ。ね?」


ジョルノは一頭の蝶を指先に乗せ、くちびるを寄せた。糸で操っているかのようなその動きに、わたしの疑念はますます深まっていく。


「先月も、モナコのホテルの最上階で窓を開けた瞬間、白鳥が飛びこんできたじゃない。しかも、バレエ〝白鳥の湖〟を見た翌日にね? そんな偶然ってある?」

「あのときはよろこんでいたじゃあないか」

「それは……っ、旅先でめったにない経験をすれば、誰だって舞いあがるわよ……」

「てっきりきみはそういう演出が好きかと……」

「〝演出〟?」

「フフ……」


ジョルノは意味深な笑みを浮かべて、リストランテのドアを開けた。
彼の背中越しに、おずおずと店内を覗きこむ。ひょっとすると、子鹿のカメリエーレが皿を運んでいるかもしれない。