Daily Diary(ブチャラティ)
一日の終りに日記をつけるのが彼女の日課だった。
自他共に認めるほど飽きっぽい彼女にしてはめずらしく、幼い頃からかかさず続けていた。初めて自転車に乗ったときの興奮も、ファーストキスの感触も、すべて、実家の机の引き出しにしまってある。
「毎日熱心に続けているよな」
歯磨きを済ませ、寝室にやってきたブチャラティは、ペンを動かす恋人の手元を覗きこんだ。それは彼にとってなに気ない行動であったが、無神経には違いなかった。彼女は両手で日記を隠し、あからさまに顔を歪める。
「ブチャラティ~……、あなたって、スゴクスゴクやさしいけれど、ほんのちょっぴり、デリカシーがないのよねぇ」
「悪かったよ。恋人でもプライバシーは大事だな」
「まぁいいけど! ほら、このページは面白いわよ。ブチャラティと出会った日の日記」
「ん? どれ……」
嫌がっていたわりに、日記を差しだす彼女の表情は嬉々としていた。
7月15日 天気は晴れのち曇り。
今日は最悪にして最高の一日だった。
最高に行きつくにはまず〝最悪〟のほうから語る必要がある。寝坊だ。
この講義に出ないと単位を落とすとわかっていたのに。いつも、大切な日の朝ほど寝坊してしまうのはどうしてだろう。着たい服は見つからないし、メイクもひどかった。
急いで家を出るもタクシーはなかなかつかまらない。
そうして、道端で右往左往している私に声をかけてくれたのが彼だった。
『チャオ。なにかトラブルかい?』
『……えぇ、今すぐ大学に行かなくちゃあならないのだけど、タクシーが来なくて。だからあなたにかまっている暇はないわ』
『そうか、失礼したね』
余裕がなくて、ついひどい言い方をしてしまった。どう見ても彼は、そのへんで女の子のお尻を追いかけている軽薄な男とは違ったのに。今さら後悔しても遅い。彼は去ってしまった……。
――はい、ここからが〝最高〟よ!
『シニョリーナ!』
あきらめかけた私のもとに、彼はふたたび戻ってきた!
どこから調達してきたのかバイクにまたがっている。後ろに私を乗せてくれて、大学まで送りとどけると、片手をあげて行ってしまった。名前を聞く暇もなかった。その後ろ姿は、まるで絵本のなかの王子様――王子様だって?
「アハハ! さすがにそれは言いすぎだろう。花屋から借りた配達用のバイクだぜ」
「そんなことないわ。あのバイク、白かったから、ちゃんと白馬に見えたもの……あっ! その先は――」
「プライバシー?」
「そう。ちょっと待って…………このページならいいわよ」
8月1日 天気は快晴!
ついに夏が始まった! 先月からずっと真夏日が続いていたけれど、とにかく、私の夏はこれから。ようこそ、サマーバケーション!
そんな節目の一日にふさわしく、私は例の計画を実行することにした。ブチャラティはいつも、ピザ屋の向かいのリストランテでランチをとっているらしい――ん?
「俺を調査したのか?」
「調査? 違うわ、そんなんじゃあない。……ただ少し、周りの人に聞いてみたってだけ。あなた、自分で思っているよりも有名人なのよ」
「そうか……」
ブチャラティはいまいち納得しきれていない様子だったが、ややあって、日記の続きを読むのに戻った。
友達数人を引き連れてリストランテに入るも、彼の姿はなかった。立場上、店に気を遣って目立たない席にいるのかもしれない。私はトイレを探すふりをして店内を探索する。厨房の手前にひっそりと伸びる通路を行くと、そこには別室があった。私の予想どおり、ブチャラティは仲間たちと一緒にワインを飲んでいた。
彼は私に気づくと、親しみのこもった笑みをうかべる。
『また会えるとはね。遅刻はまぬかれたかい?』
『えぇ、おかげさまで』
『それはよかった。……せっかくだし、きみも一緒にどうかな』
そう言って彼は空いていた椅子を引く。
『いえ、私は――』
『ドーゾォ~! ドォゾドォゾ~! さぁ、俺たちはいないものと思ってさ!』
ブチャラティの仲間たちは大げさすぎる身振り手振りで私を歓迎してくれた。ブチャラティと私がどういう関係なのか興味があるらしく、とにかく彼らは面白がっていた。クラスメイトの恋人たちを冷やかす中学生みたいに。
『お誘いありがとう。でも、友達と来ているの。テーブルに戻らなくちゃ』
『そうか、残念だよ』
彼は、ほんとうに残念に思ってくれただろうか。ただの社交辞令かもしれない。私にはわからなかった。でもこの機会を逃したら、二度とチャンスは巡ってこない気がした。
『ねぇ……あなたになにかお礼をしたいのだけど。このあと、時間あるかしら』
「きみとの再会は偶然じゃあなかったのか。どうりで趣味が合うと思ったぜ……」
「なぁに~? つまり、私がコソコソとあなたのことを調査して、ロマンス映画みたいに運命的な演出をしたかってことぉ~?」
「あぁ……いや、なんだっていいな。きみがなにをしても、しなくても、俺たちはいつか巡りあっていたさ。巡りあって、そして恋に落ちる」
「そうでしょう。そうでしょうよ」
ブチャラティは彼女の機嫌を取るようなキスをすると、日記の続きを読むのに戻った。
食事のあと、数件隣のバールでカッフェを飲みながら、ブチャラティと話をした。
年は? 兄弟は何人? 出身は? 大学でなにを専攻しているんだい? 彼に質問攻めにされるがまま答えていく。彼が私に興味を持ってくれていたのはうれしい誤算だった。
『私から聞いてもいい?』
『あぁ、もちろん』
『恋人はいるの?』
私がそう尋ねると、彼は少し面食らってから『いない』と取り澄ます顔をした。ギャングだと聞いていたからどんなものかと思えば、意外と可愛い人なのかもしれない。私は追撃に移った。
『そう。よかったわ』
『いいことか?』
『だって、恋人がいたらデートに誘えないでしょう』
『い……いや、待て。待ってくれ』
彼は銃口をつきつけられた人のように両手をあげて、静止のポーズをとった。
『俺から言わせてくれよ』
『いいわ。それじゃあ、数分前からやりなおしましょう』
『そうだな。……えぇと、きみの名前は?』
数分前どころか最初の質問に戻ってしまった。私はもうおかしくって、けらけらと子どもみたいに笑った。デートの約束もとりつけたし、今年は絶対楽しい夏になる。
「なつかしいな……俺もこの年の夏はほんとうに楽しかったよ」
「ブチャラティが隣にいれば秋も冬も春も楽しいわ」
「あぁ、俺もだよ」
「……ねぇブチャラティ。私がおばあちゃんになって、大切なことを忘れてしまったら、この日記を読み聞かせてくれる? ほら、あの映画みたいに――」
「もちろんさ」
彼女は枕元に日記を置き、サイドテーブルの灯りを消した。暗闇を手探りして彼の腕を見つけだすと、そっとよりそい、胸の鼓動に耳をすませる。
「おやすみ、ブチャラティ」