先輩が高校の寮を抜けたあと、大学近くのマンションに引っ越したことは聞いていたけれど。まさかこんなに間近だとは思わなかったです。独り言みたいにそう呟いて、ガラスから窓枠までよくみがかれた窓越しに、先輩が通うキャンパスを見つめる。
日中は晴天と呼べる綺麗な青だったが、空の端で千切れた雲には薄い茜色が差していた。あと一時間もすれば美しい夕焼けに染まるだろう。
都内の二酸化炭素をありったけ吸ってくれそうな木々に囲まれ建ち並ぶ校舎は、風格があって歴史を感じさせる佇まいだ。
そこにはわたしに見せない顔をした先輩がいて、知らない友達や女の子と、理解の及ばない語らいを繰り広げている。勝手に悲観的な想像をして、気が滅入っている自分がひどく間抜けだった。
コーヒーのいい香りと一緒にキッチンから先輩が戻ってきた。トレイには揃いのマグと共に手土産のマカロンが乗っていた。そのマグ、わたし以外の誰かの口紅がつけられたこと、ないですよね。心のなかのわたしはすごく嫉妬深くて厄介な女の子だ。
「どうした?」
「えっ!?」
「神妙な顔をしていたぞ。悩みごとか?」
なまえがうかない顔しているとこっちまで心配になるよ。そう言う先輩の顔は、心配というよりはわたしを手のひらの上で転がして面白がっているときの微笑に似ていた。
先輩の隣りにいると、心の声が筒抜けになっているんじゃないかと不安に駆られる瞬間がある。見えない女の子の影に嫉妬し自己嫌悪に陥るわたしを、先輩は薄くほほ笑み、頬杖ついて眺めているのだ。
「なんでもないです。それより、……いいお部屋ですね、大学も近いし」
「狭いけどな。ワンルームだし」
言いながら先輩はベッドの方をちらりと見た気がした。気がしただけなのでひょっとするとわたしがそちら側を意識していただけかもしれない。
本棚とテレビ、低いテーブル。それからベッド。こざっぱりとしていて、ワンルームらしい雑然とした感じがない。先輩らしく清潔でまとまりのあるお部屋だ。
「悪いな、椅子がないんだ」
どうということはない、というふうに、そう例えば飴の袋から一粒とりだしてすすめるような気軽さで、先輩はベッドに腰を下ろすと自分の傍らをポンポンっと叩いた。それがわたしを招いている仕草だと気付くまで瞬きを二十二回。
「おいで」
その声は鷹揚でやさしい色を纏っていたが、なにがなんでも従わなくてはいけない気にさせられた。利口な犬が飼い主から芸を命じられてほとんど反射的に身体が動くような。
恐る恐る、ベッドの端にちょこんと座ってみた。ふかふかなはずのそこは、度を越した緊張のせいで居心地の悪さを感じてしまう。
「……あの、フットサル、楽しかったです。最後、先輩がいい位置でパスくれたのに決められたなかったのは悔しいけど……」
今日はここに来る前、聖蹟サッカー部だったみんなとフットサルをして、それからランチを食べつつ各々近況を報告し合った。彼女ができたんだ、とか、髪が伸びたね、とか、くだらないほど些細な出来事からあっと驚く大ニュースまで聞かされて、顔の表情筋が痛むくらいに笑った。なつかしい顔ぶれに囲まれていると、次第に当時へ戻ったような錯覚をしてしまう。まだわたしが憧れと幼稚な恋心を持て余していたあの頃。
「あぁ、あれな。……はは。たしかに見事な空振りだった」
その瞬間を思い出し笑う先輩が、心の底から楽し気だったので、恥をかいた甲斐があったなという気がしてくる。
相手チームは国母先輩の友人で「あっちも女の子いるから、元マネのなまえがいてくれたほうが都合いいんだ」などと言われ、比較的ゆるい集まりだと高を括ってしまったのがいけなかった。何度もボールを奪われたし、2試合目なんてゴール前で派手に転倒して、しかもそれが失点に繋がった。今もそこかしこが鈍く痛む。きっと今夜は筋肉痛にうなされるのだろう。
こうして振り返るとほんとうに散々な結果だった。それでも、試合前に先輩とパスの練習をした思い出は、頭のなかの大切な記憶ボックスにそっと格納されたので、なにも悪いことばかりではない。先輩の柔らかく親身なパスを受け取るたび、「うまいぞ」とか「いい感じだ」とか励ましの言葉をかけてくれたのも、たまらなくうれしかった。
「先輩、フットサルのサークルにも入ってたんですか?」
「あぁ、そう言えば入学したての頃に、一度だけ参加したかな。正式には入らなかった」
「じゃあ1年前ですか……。慣れた感じしたんだけどな。やっぱり先輩はなんでもできるんですね」
「いやあ、先週からこそこそ練習してたんだよ。なまえにかっこいいとこ見せたくてな」
どきっとしたけれど、こんなことでいちいち心拍数を上げていたら心臓がいくつあっても足りない。ここは余裕を持って、そう、先輩の冷静さを見習って笑顔という仮面を貼り付け対抗するのだ。
「せ、先輩はいつもかっこいいですよ?」
「そうか、ありがとう。なまえはいつも可愛いぞ」
「っっもぉ〜〜〜!」
「照れてる顔もいいな。ほら、こっち向けよ」
子供っぽいとわかっていても、どうにも堪らなくなって顔を背けてしまった。照れくささと緊張で頬が熱く火照っている。
「……先輩はいじわるです」
「そうだな。けど意地悪されてなまえが喜ぶから……」
「喜んでません!!」
「ははは」
なおもからかい続ける先輩を無視し、それとなく周囲を見回していると、不意に、小指の先に何かがふれた。
見ると、先輩がこちらに手を伸ばして、今まさにわたしの右手を包むように握るところだったので、ぎょっとして思わず飛び退いてしまった。エサを食べる最中、傍らにきゅうりを置かれたときの猫みたいに。
あまりの勢いでベッドから落ちかけたわたしの腕を掴み、少々強引なやり方で引き寄せる先輩の顔には、さっきの意地悪な微笑は浮かんでいなかった。
「嫌だったか」
「い、いや! っ……じゃなくてっ、いやじゃなくて、……ちょっと、びっくりして」
「そうか」
「…………」
「…………」
めずらしく先輩が黙りこむので、「なんでもいいからなにか喋らなくては」という使命感に駆られた。沈黙は不安とあやしさを呼ぶ。
「……へ、変ですよね、わたし……なにかされるわけでもないのに、……いや、なにかっていうか……あは、」
ダメだダメだダメだ、完璧に失策だった。なに言ってるんだろうわたし。
行き場のない気まずさをかき消そうとテーブルの上のマグに手をかける。コーヒーはちょうどいい温度と甘さで、微量のミルクによってやさしい舌ざわりの飲み物になっていた。
先輩は元々お料理もそつなくこなす人だった。一人暮らしを始めてから、その腕はますます上達しているらしい。「今度ごちそうしてくださいね」とお願いしてもう一年近く経ったけれど、今日ようやくその日がやってきた。
フットサルの後スーパーで買い物をし、二人肩を並べて家路につくと、同棲している気分になれて胸が踊った。今は別の意味で心臓がバクバクと飛び跳ねている。
「なにも変じゃないぞ。"なにか"するつもりだったからな」
「ぶっへ!!!」
ふいに先輩がとんでもないことを言うものだから、マグのなかで小さな噴水を生み出してしまった。
不幸中の幸いマーライオンにはならなかったが、鼻の先にコーヒーの雫がついているようで、顔を上げたわたしを見て先輩が破顔した。すぐさまティッシュを片手に駆けつけてくるその姿は、子供の食べかすをとってやるパパに見える。
彼から見ればわたしはまだまだ子供なのだろう。事実、手にふれられた程度で飛び上がってしまう有様なのだから否定はできない。
先輩は、なにか物思いに囚われたように手を止め、ティッシュをぐしゃぐしゃに丸めると、どういうわけかわたしの鼻を拭わずゴミ箱に捨ててしまった。
状況を計り兼ねているわたしに、大きな手のひらが伸びてくる。
「……え」
反射的に目をつむったので、その後なにがあったかはわからない。ただ、鼻の頭にざらりとした、湿り気のある、やわらかくて温かい、これまで感じたことのない奇妙な感覚があった。
あっけにとられていると、先輩の舌は(そう、舌だ!)そのまま下って、上唇と皮膚の境目に滑り落ちた。
先輩は、俯くわたしの顎を持ち上げ、真正面からうろたえる瞳を見据えた。指先が泳ぐように骨の上を伝い、首筋で停止する。一挙手一投足がわたしの胸を高鳴らせた。
「んっ……ぅ、っ」
先輩はキスの仕方まで如才ない。上唇を柔らかく挟み込まれ、じくじくと味わうようにねぶられる。これが初めてではないにしても冷静さを失ってしまう。慣れることなどないだろうと思う。
キスだけで目を白黒させるわたしを置いてけぼりにして、先輩はいつだって平穏で、それどころか面白がっているようにすら見える。
この日のために百貨店で買ったばかりの新しいグロスは、期待の味がしたかもしれない。
「なまえ。少しだけ、口を開けてくれないか」
言われて初めて、自分がキスのとき必要以上に固く口を結んでいることに気がついた。
わたしの両肩をやわく掴んだまま困ったように笑う先輩は、どうしてか呼吸がしづらそうに肩を上下させていた。
小粒のさくらんぼが入るくらい口を開けてみると、先輩の舌が、唇の隙間をひと撫でしてから、探るように入り込んできた。くちのなかに、おとなしい軟体動物が放たれたような心地だった。歯の裏側をさまよい、奥に隠れていたわたしを見つけると、そっと絡みつき、花の蜜でも味わうように吸い上げられる。
別れ際、儀式みたいに軽くキスされたことはあれど、舌を絡める大人のそれは初めてで、やはり今日はなにかが違うのかもと、否応なしにそんな期待と恐れで心が揺れた。
身体から力がぬけて、ひとりでに瞼がおりてくる。キスをするときは目をつむるものだと数多のラブストーリーが教えてくれたけれど、あれは能動的にする行為じゃなかったらしい。うっとりと悦びに浸っていたが、ついと唇が離された。粘膜が離れ離れになる瞬間、孤独に似た切なさを感じてしまう。
「……」
「せん、ぱい……?」
先輩はわたしの瞳を、宝の暗号を読み解く海賊さながらに注意深く見つめていたが、やがて意を決したようにもう一度口づけると、背中に手を添え、ゆっくり、ゆっくり、覆いかぶさってきた。
キスを繰り返し、大きな手のひらで二の腕をいたわるように撫でている。こんなことになるなら筋トレでもしておくんだった。力こぶができる先輩の腕と比べたらわたしのそれは低反発マットレスだ。
キスの雨を途切れさせないまま、先輩の手が着々とわたしを裸にさせてゆく。下着に行き着くと一旦手を止め、自分のTシャツも脱ぎすてる。シャツが頭を抜けていくとき、襟に引っかかった髪がさらさらと宙を舞い、綺麗だった。
わたしが凝視しているのに気づくと、はにかみながら、うなじをくすぐったそうに掻いた。なんだか先輩らしくない、可愛い表情だ。今わたしはどんな顔をしているのだろう。想像もつかない。
しつこく見つめ続けるわたしに手を差し伸べ、上体を起こさせると、先輩はわたしを正面から抱きしめた。雪山で遭難した恋人たちが、互いの体温を移し合うような切迫した、ひたむきな抱擁。
抱きしめながら、耳元で、
「ずっとこうしたかった」
と囁く。
ずっとっていつからですか、と聞いたとしても教えてはくれないだろう。代わりに先輩の肩に唇を寄せ、背中に手を添えてみる。皮膚の下に眠れるドラゴンが潜んでいるような、固くて危険な香りがした。
ひとの素肌ってこんなに気持ちいいんだ。いいや、誰でもいいわけじゃない、先輩の肌だから気持ちいいんだ。そう思い至って胸が詰まった。
軽く目をつむり、においやあたたかさ、胸の鼓動に耳を澄ませる。それらを全身で感じる一方で、この感情の正体を探ってみたが、適当な言葉が見当たらなかった。先輩にふれられるとわたしはいつだって、どうしようもない、説明のつけようのない感情の渦に翻弄されてしまう。
なぜだか先輩の身体は小刻みに震えていた。若干エアコンが効きすぎているので、そのせいかもしれない。あたためるつもりで背中を撫でてみる。先輩の肩甲骨は天使の羽というより雪渓にできる深い裂け目みたいだ。
しばらく抱き合ったのち、先輩は思い出したようにキスをした。一行程先の段階に進むたび、穏やかなキスを間に挟んで、わたしを安心させてくれる。
背中に手が回されて、ふれられたと思ったときにはブラが外されていた。涼しくなった胸元を包み込むようにやさしく揉まれると、背骨を見えないなにかが通りすぎたような切ない寒気が走り抜けていく。
首筋に唇を這わせつつ手を下へと滑らせてゆき、じっくりと焦らすように下着をなぞると、隙間から足の付根に指を差し入れてきた。
指が入り口にふれた瞬間、ぐちょ、と派手な水音が響く。
それはキスのとき唾液を交換するのとも違う、まとわり付くような質感の音だった。思えば、キスの段階ですでに下着がつめたく、居心地悪い感触がしていた気がする。
段々と事態を把握してきた脳が伝えたのは、いますぐここに穴を掘って入れという命令だった。唐辛子を齧ったときのように、じわじわと羞恥心が湧き上がってくる。
「ずいぶんいやらしいこと考えてたんだな」
わたしを煽るためというよりは、心の声が脳を通過せずに喉から飛び出してきたような呟きだった。
あまりの恥ずかしさに全身の血液が顔に集まってくる。気が遠退いて、耳鳴りがした。
「悪い」
「格好悪いくらい、余裕ないんだ」と言って先輩は、そっとわたしの手を掴み、自分の下半身に押し当てた。
服の上からでもわかる、脈打つ、熱くかたい存在。手のひらから先輩の血が巡ってくる心地だった。「わかるだろ」と聞かれたので、素直に頷く。
血液の貯蓄でこんなふうに変化してしまうなんて。ここに来て初めて、不安や羞恥を好奇心がまさった。場面にそぐわない人体の不思議に感心しているうちに、あちこちの強張りが和らいだ気がする。
「こういうのは、俺もあまり慣れてないから。正直、どうしていいかわからない」
「ほんと……?」
「本当だよ。好きな子の抱き方は知らない。だから今、すごく緊張してる」
先輩が緊張することなんてあるんだ。どんなときも泰然自若と振る舞う先輩の心を、わたしなんぞが乱しているとは、いまいち信じがたい。
「なまえ」
先輩の、少し低くて落ち着いた声がわたしを呼ぶ。色で例えるなら夜の帳が降りてまもなくの、深く凛々しい藍色の声。
返事をする代わりに目を合わせたら、そこにはいつもの緩やかな微笑が浮かんでいた。
なんだ、やっぱり緊張なんてしてないじゃないか。心持ちがっかりしたような、ほっとしたような。あるいは両方か。
「もう一度最初からやり直していいか?」
「最初からって、具体的にどのへんですか」
「そうだな。なんなら家に入るところから始めてもいいぞ」
「そんなにぃ?」
普段通りにくすくす笑うわたしの口を、先輩のそれがやさしく塞いだ。
キスは好き。なによりも幸せな味がする。抱き合うのも好きだ。抱きしめあうと、得も言えぬ幸福が全身を駆け巡って、叫びだしたくなる。今すぐ外に飛び出して、わたしはこの人が好きなんですと、ほうぼうにふれまわりたい。日が暮れ、叫ぶことにも疲れたら、ふたたび彼の腕のなかに帰ってくるから。
そんな張り裂けんばかりの危うい激情が常にわたしのなかでくすぶっていることを、彼は知っているだろうか。知らないなら、伝える義務があるような気がした。
「わたしも」
「ん?」
「……わたしも、ずっとこうしたかった」
彼のくりっとした目がこれでもかと見開かれた。半開きの無防備な口がその吃驚を物語っている。
「驚いたな」
と言ったときの先輩の瞳には試すような色が宿っていたので、すでに平常心を取り戻した後のようだった。
今度はこれまでより幾分乱暴なキスをされ、背中に衝撃を感じるやり方で押し倒された。
濡れた下着を脱がされるとわたしは完璧に裸になった。徐々に首から鎖骨、胸元へ、唇の着地点が下降していく。胸の先をねぶる先輩の舌の動きを目の端でとらえる。ぎゅっと目をつむってもその赤色は瞼の裏に焼き付いて離れなかった。
指をすっと奥まで挿入したと思ったら、途中で折り曲げたり、側面をすりあげたり、そうしているうちに下腹部の窮屈さが和らいで、お腹の奥が真夏の車内に置き忘れたチョコレートみたいにとろけていった。張り詰めた神経と緩みきった快感とが拮抗し混乱している。
「ぅっ、あ、っ、……あ、先輩、先輩……」
先輩の腕にしがみついて、うわ言のように繰り返し名前を呼ぶ。到底自分の声とは思えない嬌声が響いている。もう止められなかった。
やがて優しく引きぬかれた指は、てらてら妖しい光をまとっていて、さらに手首のあたりまで続いていた。先輩がそれをまじまじと凝視するものだから、たまらず目を背けてしまう。
「み、見ないで……」
「見られたくないんだ?」
「だって、……恥ずかしい、から」
「そう言われたら見なきゃな。俺の彼女は意地悪されるのが好きだから」
口元をほころばせたままわたしの額にキスを落とす。先輩のやさしいキスは魔法みたいで、そうされると恥じらいも不安も消え去って、最後にあたたかい幸せだけが残る。
「痛い、と思う」
どうかな。とでも言いたげに、少し困った顔で小首を傾げる先輩は可愛らしく、それでいて薄く張った涙の膜には扇情的な気配が漂っていた。
粘膜の入り口にかたいものがあてがわれているのを感じる。先輩の血液がぎゅうぎゅうに集まって、わたしのなかに入りたいと急いているようで、いとしかった。
無言で頷いたわたしの頬を、先輩の指がふわりと撫でる。そうして、ゆっくりと慎重に体重を加え、捩じ込んできた。
さらに奥の方まで押し込まれたとき、行き過ぎた痛みがそこにあるはずのないまばゆい光を見せた。
悲鳴に似た嬌声がふたりの唇からわずかに漏れる。先輩はわたしの疼痛を吸い取るように深く深く口付けを続ける。
ほどなくしてゆるゆると動き始めた先輩は、わたしと同じくらい余裕がない様子だった。
歯を食いしばり、額に汗を滲ませ、留まるのも進むのも退っ引きならない、袋小路に追いやられた怪盗みたいに。この人にならなにを盗まれたって良いと真剣に思う。差し出しても欲しがるとは限らないけれど。
「ひゃっ。……先輩、あっ、ぅんっ、いやっ」
「いや?」
先輩は片眉をひょいと上げ、まばたき一つ逃さないと言わんばかりのじっとりした眼差しでこちらを見下ろしていた。
動きに合わせてふたつの身体がぶつかり弾む音が聞こえる。いちばん奥に先端が当たるたび、痛みと、産毛が逆立つような名状しがたい甘い痺れで、足の先がぴくぴくと痙攣した。
「っいやじゃないよな? なまえは、ずっと、こうしたかった」
耳の下、顎の付け根をべろりと舐められ、背骨に電流が走る。「そうだろ」と囁く声はもうずいぶんと遠くから発せられたように感じる。
わたしの胸を忙しなく揉む先輩の手は、部室で洗濯物をたたむのを手伝ってくれた、あの柔らかなそれと同じものとは思えなかった。荒い呼吸と共に上下する雄々しい喉仏。薄暗がりのなか艶やかさを主張する唇。厚い胸板のたしかな重み。
どれもこれも、わたしが知っていたようで知らなかった彼の一部だ。そのひとつひとつを手に取って、誰が見てもわかる箇所に自分の名前を記せたらいいのにと思う。それで彼の全てがわたしのものになるのなら。
証印を刻むつもりで、先輩の肩に吸い付くようなキスを落とした。
(2016/07/07)
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