もうすっかり秋ですね、秋通り越して冬かも。そんなふうに気の抜けた世間話をぽつりとぽつりと交わしながら、茜色の絨毯の上を踏み歩いていたときだった。


「俺と付き合わないか」


 先輩はよく、小難しいことを言う。先ほど書店で彼が手にとっていた哲学書にも「スポーツの本質と倫理的諸問題」なんて難解な見出しの帯がかけられていたっけ。ときどき、いや、往々にして、わたしは彼の言わんとすることが理解できない。


「わたしはこの後家に帰るだけなので別に構わないですけど」

「いや、そうじゃなく」

「はあ」

「つまり男と女としての交際だな」


 日曜の平穏な昼下がりである。鷹揚な風が吹くたび新しい葉が落ち、感傷的な秋の情緒たっぷりのひと時だ。
 そんなわけで、ただセンター試験の参考書を買ったついでに立ち寄った並木道だというのに、先輩のこのささいな冗談までもが「もしかしたら」と胸の鼓動を早める、さも意味有りげな一言のように思えてしまうのは致し方がない、と言えよう。


「先輩、メッシが脱税疑惑で禁錮22ヶ月を求刑されたってニュース見ました?」


 昨日、ヤフーニュースで見たんですよ。ほんとですかねぇ? そういう税金関係の処理ってメッシほどの大物になれば専属の税理士雇って任せきりにしてるイメージなんですけど。メッシがいないとバルサどうなっちゃうんですか、やばくないですか。ねえ。

 舌は驚くほどよく回った。話題はなんだってよくて、監督が元奥さんと復縁しそうだとか三年になっても君下がまだ学年一位をキープし続けているとか先輩たちが卒業してから来須が調子に乗ってるとか他愛ないことだ。話の落ち葉はとめどなく降ってきて、埋もれてしまいそうなくらい。

 そうだ、わたしはもう随分と前から、彼に会いたくて会いたくて、頭がおかしくなりそうだったんだ。
 ねえなんで会いに来てくれなかったんですか。水樹くんだってプロになって忙しい合間を縫って部活に顔を出してくれたんですよ。先輩が卒業してからたまにくれるメールや電話、そのたびに嬉しくてどうしようもなかった。
 「センター試験の参考書を選びたいからついてきてくれませんか」なんて見え透いた嘘をついてごめんなさい。先輩。すごくすごくさみしかったの。


「それで、監督がわざわざ大柴の家まで行ってーー」


 まずは頭を整理しよう。わたしはこと先輩関連になると自分の都合のいいように解釈してしまいがちだから。このぐちゃぐちゃの、テレビ裏の配線みたいな脳を片付けるまでは絶対、彼のペースに引き込まれてはいけない。


なまえ


 抵抗も虚しく、すっと手のひらで制されて、わたしの無駄なおしゃべり劇場は幕引きを余儀なくされた。彼が手のひらを見せるのは、徳川光圀が印籠をかざすようなもので、誰も抗うことはできない。
 こんなときに限って風は止み、見守る木々が固唾を呑む音が聞こえてきそうだった。


「少し、目を閉じてじっとしてろ」


 柔らかな語勢でいかにも優しげなのに、有無を言わせぬ強引さを感じる。そうだ、昔から彼はこういう物言いをする人だった。

 わたしは言われた通り、その場で微動だにせず目を瞑る。視覚が遮断されると他の五感が鋭くなった気がする。枯れ葉が濡れた土に落ちて発する匂い。北風がスカートで遊ぶ感触。なにもかもがダイレクトに伝わってきて胸が震えた。
 一瞬、頭になにかふれたような気がしてそっと目をあけると、「ついてたぞ」と黄色交じりの紅葉を手渡された。どうやらわたしは大変間抜けなことに頭に葉っぱを乗せていたらしい。いっそ狸のように変化してこの場から消え去ってしまえたらどれだけ楽になるだろう。そこの街灯に化けたとしても彼ならわたしだと見破るかもしれない。


「俺の話聞いてた?」

「聞いてません」

「ならもう一度言うか」

「結構です!」

「一度と言わず何度でも言ってやるけど」

「あ〜! あ〜! うわあ〜!」

「大学、合格が決まってからでいいから。いや、落ちたら中止って意味じゃないぞ。わかるな?」


 先輩、わかりません。だってわたし、こんなに多くは望んでないです。会う口実に後輩の立場を利用したことは謝りますから、どうか受験生の心を乱すような意地悪はやめて。
 混乱と気恥ずかしさでまともに目も合わせられない。ガキくさいとわかっているけれど、俯き、震える両手で顔を覆った。


「か、からかうつもりなら……」

「驚いたな。俺ってそこまで信用ないのか?」

「わたし、先輩から見ればぜんっぜんガキだろうし、っていうか事実ガキなんです暗闇で目を開けるのちょっと怖いなって思うくらいで。ほら壁の染みとかおばけに見えちゃう」

「そんなに怖いなら一緒に寝てやるさ」

「そ、っ……それに比べて先輩は大人で大人すぎて何考えてるかわからないし腹黒いですよねあとけっこう意地悪」

「俺のことそんなふうに思ってたのか」

「先輩と行った水族館で買ってもらった亀のぬいぐるみ、先輩の名前つけて可愛がってたんですけど、って言っても変な意味じゃないですよ、寝る前に頭なでておしゃべりするだけです。けど先輩がなかなか会いに来てくれなかったから、今は亀甲縛りで吊るして部屋のオブジェにしてます、亀だけに」

「それは出来れば聞きたくなかったかな」

「先輩がわたしをどう思ってるかも、いまだによくわかりません」


 自分でも驚くほど、あまりに素直な気持ちが堰を切って溢れ出る。言わなくていいことまでありのまま捲し立ててしまった気がするけどもはや後戻りは出来ない。
 長らく胸の内に秘めていた思いのマグマはついに痺れを切らし、噴煙と共に四方八方へ言葉の礫を撒き散らす。彼が怪我をしてないといいけれど。もう顔を見る勇気は残されていなかった。


「俺がどう思ってるか知りたい?」


 声だけで笑っているのがわかって少しだけ安堵した。その笑顔が見たくて顔を覆っている指に僅かな隙間をあけてみる。彼が笑うときにできる目尻の皺がたまらなく好きなのだ。
 ちら、と目をやったその隙を先輩は見逃さない。首を傾げさせ、わたしの手首を掴み、いささか強引なやり方で顔を覗き込む。


「そうだな。まず……昔から慌てると顔が赤くなるな? はは。隠すなよ。馬鹿ってわけじゃないんだけど不器用で……それでいて真面目だ。緊張すると自分でも止められないくらいおしゃべりが加速するんだろ? 悲しいと黙りこむし、嬉しいと犬みたいな口の形になるよな。そういうのまるっと含めて、お前は可愛い」

「か、可愛い……」

「最近は綺麗だぞ」

「!!」


 まるで「お前が望んでいる言葉はこれだろ?」とでも言いたげな眼差しと絶妙なタイミングだ。キーパーが弾いたボールをゴール前にいるFWの足元へぽすんと落としてやる先輩の様子が、頭のなかで勝手に再生される。そのシュートは入ったんだろうか。残念ながらそこまでは見えなかった。

 わたしはいよいよもって恥ずかしくなり、苦し紛れに憎まれ口を叩くしかできない。


「先輩ってほんとイジワルですね」

「今のは可愛くないな」


 まだ時期は早いけれど、この日のために買ったロングブーツが、かさかさコツコツ、と乾いた落ち葉と石畳を交互に踏み鳴らす。大人なはずの先輩の足音は、なぜか妙に軽やかで、弾んでいるようにさえ聞こえるのがおかしかった。














ツイッターでの台詞交換企画で、桐原さんから以下の台詞をお借りしてます

「俺の話聞いてた?」
「俺がどう思ってるか知りたい?」
「今のは可愛くない」
「出来れば聞きたくなかったな」


ありがとうございました! (2015.12/22)


< BACK >