ミーティングを終えて彼が一直線にわたしの元へ向かってくるのが見えたとき、もっと真剣に逃げればよかったんだ。全力で走れば、教室とかトイレとか他のマネージャーの輪に逃げ込めたのに。
そうしなかったのはやはり、わたしは彼からもらえる何らかの言葉を期待していて、この先好ましい展開が待ち受けているのだと、分不相応なことに、そんな馬鹿馬鹿しい思惑を抱いていたのかもしれない。
部室裏の木陰という中途半端な場所で呼び止められたわたしは地蔵のように固まっている。彼のほうからわざわざ正面へ回り込んできて、否応なしに顔を覗き込まれた。
木漏れ日が彼の頬に不思議な模様の影を作っていて、綺麗だった。
「新戸部と付き合ってるって聞いたよ、おめでとう」
「……それが」
「いやあ、意外だなと思ってね」
お前は俺のような賢く聡明な男がタイプなのかと思っていたよ。そんな声が頭のどこかで聞こえたけれど思い上がりも甚だしい。
昨日、罰ゲームでわたしに情熱的な愛の告白をしてきた新戸部に冗談で「センターバックのポジションを奪えたら考えてもいいよ」だなんて言ってしまったせいだろう。どんなくだらない話題でも尾ひれ羽ひれをつけ大げさに広がってゆくのが噂というものだ。
灰原先輩には「新戸部とキスしたんだって?」と聞かれたし、猪原先輩は「まさかみょうじが新渡戸とはな」と笑いながら背中を叩かれた。
「好きなんだ? あいつのこと」
そう言った彼の目が、試すような眼差しに見えたのは、わたしが彼に対し特別な好意を抱いているせいだろう。いつだってわたしは一人相撲をとって傷だらけになっている。
「そうかもしれませんね」
つい心にもないことを言ってしまうわたしは、彼が恋愛対象外と見なすような子供に違いないのだ。
まだ憧憬の眼差しを隠し切れずにいた中学の頃から、ほとんど何の成長も変化もないまま、高校まで追いかけてきてさらには同じ部のマネージャーという避けようのない位置に陣取ったわたしを、彼がどう思っているかなんて知らないし恐ろしくて想像もしたくない。
一年、たった一年の差がこんなにも遠い。あと半年もすれば、またしても彼は去ってしまう。今度はもう追いかけることすらかなわない、雲の上に行ってしまうかもしれない。
ふいに、海底に道を作るモーゼみたいな所作で、先輩のその意外と大きくて無骨な手が伸ばされた。神々しい指先が指し示す方角にいるのが自分だということに気付くのにたっぷり3秒。その間にも、短く切りそろえられた爪は距離を狭め、とうとう頬にぬくもりを感じた。
頬を人差し指でつつつ、となぞられる。そのまま真下まで到達すると、顎の裏側からくいと持ち上げられ、目が合わされた。鑑定士が本物の宝石を目利きするときのまなざしに思えた。
「……俺よりも?」
彼を"優しい"なんて形容詞で持って言い表すひとは、表面ばかりに気を取られ、本物の彼が見えていないに違いない。
やわらかい殻で覆われたその中に潜む、禍々しいほどの漆黒のそれは、内側から棘のついた触手を素早く伸ばし、逃げようとすれば絡め取られ、立ち向かえば痛みを感じずとも知らず知らずのうちに傷つけられている。
わたしの胸はもう随分と前から鋭い棘に貫かれたままだ。
「泣くなよ」
そのときの先輩の声に、駆け引きや芝居抜きの紛いもない動揺が滲んでいて、思わず顔を上げてしまった。涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった、ぶさいくの二乗の顔を見られたくなかったのに。眼の奥が燃えるように熱く、ひりひり痛んだ。
「虐めたいわけじゃないんだ」
「……それは嘘ですよね?」
「まあ、お前の泣き顔は嫌いじゃないけどな。ほら、これ使え」
先輩もようやくいつもの調子を取り戻したんだろうか、冗談を飛ばしつつ、さっとティッシュを差し出してくれた。
それも、よく街中で配られてるいかがわしい求人のポケットティッシュなんかじゃない、ドラッグストアで売っている柔らかくてさわり心地のいいティッシュだ。そんなところまでいかにも先輩らしくて笑ってしまった。
「よかったよ。俺は見限られたわけじゃないんだな」
「それは先輩次第ですよ」思ったよりも自分の声が涙に揺れていて、不甲斐なかった。
(2015.12/22)
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