※このお話は現代設定です
彼ほどにやさしくて働き者の恋人はほかにいないだろうと思う。ふかふかの布団に包まれながら思う。ぼやぼやと夢と現実の境界線を跨ぎながら、思う。
リビングから聞こえてくる掃除機の音は、きっと控えめモードだ。休日に寝だめするわたしを気遣ってのことだろう。掃除はお互いに気づいたときにやる、という曖昧な取り決めになっていたせいで、実際は彼がそのほとんどをこなしている。
ベッドから抜けだしてカーテンを開けると、朝にしては強い日差しがさしこんできた。今日はさぞ夏らしい一日になるのだろう。
掃除機の音はリビングから玄関に移動していった。彼と入れ違いにリビングに行くと、テーブルにはラップがかかった朝食が並んでいた。それはどれもわたしの好きなもの。白米の炊き具合も、卵のかたさ加減も。ひと目見ただけでわかる。
「月島さぁん」
掃除機をかける彼の背中に抱きつけば、一度こちらにやさしい目を向け、「おはよう」と一言。しかしそれ以降は、なにごともなかったように掃除に戻ってしまった。掃除機をかけ終えると、今度は無心で床を拭き始める。いつだったか彼が「俺はけっこう掃除が好きなんだ」と言ったときは、ものぐさのわたしに気を利かせたのだと解釈したが、もしかするとあれは本心だったのかもしれない。
彼に倣ってわたしも。と思いたったが、まずは朝食だ。せっかく彼が作ったんだもの。おいしい目玉焼き。おいしいお味噌汁。
鼻歌まじりに皿洗いを済ませたら、さっそく洗濯にとりかかる。月島さんが掃除を好むのと同じように、わたしもこの作業が好きだった。月島さんの汗が染みこんだシャツ。月島さんのぬくもりをとじこめていたパジャマ。月島さんの――。
「おい」
いつからそこにいたんだろう。月島さんは壁に寄りかかり、腕組みしてこちらを見おろしていた。呆れたような、あるいは照れたような。くすぐったいまなざしに、お腹のあたりがむずかゆくなる。
「なにしてんだ」
「月島さんの、シャツのにおい。嗅いでました」
「やめなさい」
「いやです」
月島さんが一日着てすっかり汗を吸ったあとのシャツに顔を埋める。肩が上がるほどに大きく息を吸う。ボディローション(メントール系の、おじさんっぽいやつだ)と月島さんの体のにおいが鼻孔いっぱいに広がっていく。
月島さんは、ふうとため息をつくと、洗濯かごのなかを手探りし、いたずらっぽい笑みを浮かべた。
「いいのか? 俺も同じことするぞ」
挑発的な目でこちらを見る彼の指先には、わたしの下着が引っかかっていた。太くて節がごつごつしている月島さんの指に絡みつく、あざやかな色の紐。
「だめですよっ」
彼の手から下着を奪いとって、洗濯機のなかに放りこむ。月島さんはそれを目で追うこともせず、呆れた様子でほほ笑むばかりだ。"ふり"だけで、本気でそうする気なんてないのだろう。
「自分はするくせにか」
「そう。わたしはいいの。洗濯担当大臣なのでこの場のあらゆる権限はわたしにあります」
「ずいぶん独裁的だな」
「ここに立ち入った瞬間から月島さんはわたしの言いなりですよ」
「洗濯担当大臣は俺になにをさせるつもりなんだ?」
「そうですねぇ、まず……」
月島さんの首にネクタイを引っかけて、そのまま引きよせる。
回り始めた洗濯機を椅子がわりに、長いキスをした。絡みあいながら、揺れながら。
「あ〜つかれたぁ」
一週間ぶんの家事を済ませたわたしたちは、ソファに身をゆだねテレビを眺めていた。どれもこれも退屈な土曜の昼番組。競馬とゴルフと再放送のバラエティ番組。それからサスペンスドラマ。わたしは月島さんの硬い膝を枕にして、だらしなく寝転がる。
「ねえ月島さん、お出かけしましょうよ」
「そうだな」
レースのカーテン越しに、昼下がりのおだやかな日差しが入りこんできて眩しい。それでも目を瞑れば眠ってしまいそうだ。
「お買い物したいな」
「よし。冷蔵庫確認してから行くか」
よし、と言っても月島さんは立ちあがろうとしない。膝の上に乗ったわたしの頭が動きだすのを待っているみたいだった。起こしてと言う代わりに手を伸ばすと、やさしく引きあげてくれた。
「牛乳がなくなりそうなんですよね」
「そうだったな」
食材の管理は月島さんの担当だ。おかげでうちの冷蔵庫はいつだって軍隊の行進のように整然としている。
「それから駅前の通りを……さらに路地に入って、神社を越えて高台に登ったところにあるカフェ。……に行きたいです」
「けっこう歩くんじゃないか」
「ぺたんこのサンダル履いていくので大丈夫ですよ」
とわたしは言ったが、彼の目は疑わしそうに細められていた。
去年の花火大会で、足を痛めたわたしをおぶって歩いたことを思いだしているのだろう。彼の背中は広くて、熱かった。
月島さんはわたしの身支度に時間がかかっても、絶対にせかしたり嫌な顔をしない。その間、のんびり本を読んだりしている。
わたしはそんな彼のやさしさに甘えて、どこに行くにも万全すぎるほどにきっちりと仕上げる。
ちょっとコンビニに行くだけでも、隣に月島さんがいてくれるならデートだ。
「いいな、それ」
月島さんはファッションに明るいわけではないけれど、わたしが新しい服を買ったり、髪型を変えれば、必ず気づいて褒めてくれる。このワンピースは先月買ったものだが、彼の前で着るのは今日が初めてだ。
「かわいい?」
「そうだな。かわいいぞ」
「きれい?」
「あぁ。……すごく綺麗だ」
子猫にしてやるみたいに、顎の下をやさしく撫でられる。どちらからともなくキスをすれば、塗ったばかりのリップグロスが月島さんの唇に移った。
宣言通り、ぺたんこのサンダルを履いて家を出た。アパートの階段を降りるとき、月島さんはいつもエスコートするみたいに手をかしてくれるし、人の多い道でははわたしをかばってくれる。そういうさりげないやさしさが嬉しい。
「うわぁ〜暑いですねぇ」
北海道とはいえやはり夏だ。ノースリーブでもうっすらと汗が滲んでくる。月島さんの腕もすでにしっとりとしていたけれど、わたしはそれを放すつもりはなかった。たとえ砂漠の真ん中にいたって、月島さんと腕を組んで歩きたい。
書店でビジネス書を物色する月島さんを置いて、雑誌のコーナーに向かう。ふたりで買い物に出かけて、離ればなれになる唯一の瞬間だ。彼は本を選ぶとき、ひとりでじっくり見てまわるのが好きなようだから。
いくつかの本を買ってリュックを重くした月島さんと、ふたたび腕を組み並木道を歩く。
月島さんはいつものお店でいつもと同じ仕事用のシャツを買う。白くて無地の、なんの変哲もないシャツ。ネクタイはわたしが選んだ。ダサすぎず、かっこよすぎないものを。わたしの知らないところで、ほかの女に目をつけられないように。
わたしが洋服を選んでいる最中、月島さんは辛抱強く待っていてくれる。身支度のときと同じように、待っている素振りすら見せない。
色違いを見比べていると、「なまえは青が似合うんじゃないか」なんて声をかけてくれた。
「オレンジのほうが夏らしくないですか」
「そうだな」
「月島さんは青のほうが似合うかな」
青いスカートを彼の下半身にあててみる。ひらひらのスカートから伸びる、すね毛に覆われた、がに股の脚。あぁ、なんていとしいんだろう!
「そうか。では俺が買おう」
「月島さんが着るのぉ?」
「次のデートで着てやるさ。お前とペアルックになるな」
「ペアルックって! 死語ですよぉ〜」
そんな冗談を飛ばしながら、月島さんは本当にスカートを買ってくれた。オレンジと青の色違いを両方。
「まだ暑いですねぇ」
「休んでいくか?」
駅に併設されたコーヒーショップを指差す月島さんに首を振り、ひたすら歩き続ける。もちろん目指すは例のカフェだ。
歩くのが苦手なわたしが先導するので、月島さんは幽霊でも見たような顔をしていた。
「おい、大丈夫か」
「月島さんっ遅いですよっっ」
「そんなに急がなくても――」
久しぶりのデートだ。いつもと同じコースで家に帰るのはいやだった。少しくらい夏らしい、特別なことがしたかった。
長い階段を登りきり、振り返る。肩で息をする月島さんの背後に、この街のすべてが広がっていた。ビル群の間近にそびえる山々は夏色に茂っている。こうして見ると、山に囲まれた街なのだ。
カフェの入口横、手書きの看板には、かき氷の絵が描いてあった。月島さんもそれが気になるようだ。
「メロンがいいな」
「俺は宇治金時」
お互い好きなフレーバーを言いあって店内に入ったけれど、メロンも宇治金時もないという。
「残念でしたね。けどこれもおいしそう。月島さんなににします?」
「そうだな――」
月島さんはどんな店に入っても、店員さんに対してとても丁寧に、親切な注文の仕方をする。今回もわたしのぶんまで頼んでくれた。
メロン味のかき氷代わりのメロンソーダを飲みながら、窓の外に目をやる月島さんの横顔を見つめる。今年の夏はどこに行こうか。話しあうわたしたちのまなざしは真剣だ。瞬きをしているうちに消えてしまうこの街の夏を逃さないように。
(2018.8/31)
< BACK >