やっぱり実家は居心地がいい。
こたつでぼんやり年末特番を見て、母の切ってくれた林檎を頬張るうちに一日が終わってしまった。踏むたびにぎしぎし軋む階段も、ありがたい一言が書き添えられたトイレの日めくりカレンダーも、い草の青くさい香りが漂う和室も、どれも洗練さの欠片もないけれど心からわたしをほっとさせてくれる。
大学進学を機に実家を出た今も、母はわたしの部屋を当時のままに保ってくれていたようで、まるで高校時代に戻った心地だった。好きなアーティストのポスターは、わずかに日焼けしているが去年と同じ位置に貼られていた。この部屋で暮らしていたのはたった一年前のはずだが、制服を着ていた自分は不思議なほどに遠く遠く、思い出のなかに存在している。
明日は中学時代の友だちと久しぶりに遊ぶことだし、もう寝てしまおうと服を脱ぎかけたときだった。
窓にどしゃっとなにかがぶつけられた音がして、カーテンを開けるとやはり雪玉のようなあとが残っていた。
嫌な予感にさいなまれつつ窓を開ける。
なんということでしょう。庭の木の下に、薄着の源一郎が片手を上げて立っているではありませんか。
「……うげぇ。なにしにきたのぉ〜?」
源一郎は手に持った紙袋を掲げ、「渡しに来た」と言う。
そういえば母が「源ちゃんも帰ってきてるんだって」と言っていた気がするが、なにも今でなくたっていいのに。お土産はうれしいけど昼間、玄関から入ってきてほしかった。
「明日にして。今日はもう寝るから」
「梯子、前と同じ場所にあるのか?」
「寝るってば!」
「……お、あったあった。はは、相変わらず不用心だな」
むかしむかし、大昔。
あるところに源一郎という可愛い男の子と、みょうじなまえという平凡な女の子がいました。源一郎はしょっちゅうこんなふうにして、窓から入ってきてはいっしょに遊んでいたのです。めでたしめでたし。
「なんでいっつもここから入ってくるかなぁ」
「泥棒気分を味わえるのがいい」
「ばかじゃない」
源一郎は納屋と塀の隙間に置かれた梯子を軽々と持ちあげ、慣れた様子でそれを窓枠にたてかけると、カツカツと靴音を響かせながら我が物顔でわたしの部屋に入ってきた。こういうホラー映画のワンシーンがありそうだ。
「靴! 脱いでよ!」
「おい、静かにしろ。何時だと思ってる」
それはこちらのセリフだ。何時だと思ってる。
源一郎は、うちの数軒隣に住む同級生で、あまりおおっぴらにはしたくないが幼馴染だ。幼稚園の頃、まだ源一郎が女の子に間違えられて不機嫌になっていた頃には、姉弟のように親しかった。昔の話だけれど。
当時の源一郎は、もうとびきりに可愛らしかったのだ。
それはおもにルックスのことであって、性格は昔からこの調子にふてぶてしく傲慢だった。
外見が性格に追いついたのはここ数年だろうか。
毎日顔を合わせる生活は中学までで、高校からは別々だったのでその変化はより顕著に見てとれた。会うたびにひとまわり、ふたまわり大きくなっていく様子には、恐ろしさすら感じた。むきむき、なんて生易しいものではない。あの胸板の厚み。抱きしめられたらまぁまぁの怪我をするんじゃなかろうか。されたことがないから知らないけれど。
「この部屋は不気味なほど変わらないな」
夜の侵入者は無礼にもじろじろと部屋中を見まわすと、心底退屈だというように「つまらん」と言いすてる。
そうして許可もなく、どかっとわたしのベッドに腰かけて「ほらよ」と紙袋を投げてよこした。目の覚める臙脂色は彼の所属クラブのチームカラー。
「なにこれ?」
「知らん」
「見ていい?」
「好きにしろ」
無遠慮な源一郎にあわせてわたしも無遠慮に紙袋にかかっていた雨よけのビニールカバーを破りあける。
羊羹とどら焼き。よく見るとそのどちらにもクラブのエンブレムが入っていた。
「お土産のセンス!」
「貰い物だ」
「やなやつ〜」
「人からもらったものを横流しするなんて」などと言いつつもさっそく羊羹を食べてみる。頭痛を催すほどに甘いあんこだった。
「それで。最近はどうなんだ」
「どうって……」
「男はできたか?」
源一郎は昔から、わたしがふれてほしくないことに関して、あえてずばりと切りこんでくる。デリカシーのかけらもないやつなのだ。
「……きてな……けど……」
「あ? 声が小さいぞ」
「できてないけど!!!」
「ふっ」
そうして源一郎はどこか満足気な嘲笑のあと、
「そうだと思ったよ」
と、妙にやさしい眼差しをくれるのだった。
口からでまかせに恋人を捏造しようにも、この男はわたしの過去も人となりも知りすぎている。その場しのぎの妄想を並べたところでまた鼻で笑われるだけだろう。
「そーいうあんたはどうなの。また女の子泣かせてるんでしょ」
こいつの女癖が最低だと気づいたのはいつ頃だったか。
決定的な事件が起こったのは、中学二年の秋。
校内で一番の美人の女子と付きあっていた、というのが表面上の肩書きで、そのうちにクラスの女子15人中5人、つまり三分の一と関係を持った事実が明るみになり、クラスは崩壊した。読んで字のごとく、崩壊。
源一郎は美食家らしく、王様が半熟卵の黄身だけをすくって食べるみたいに、見さかいなくだれとでも寝るなんてことはしなかったせいで、いっときクラスの可愛い子だけが教室から消えてしまったのだった。
不運にも当時はわたしも同じクラスだったから、ほんとうに最悪だった。受験前でなかったのが不幸中の幸いだろうか。
そのときばかりはさすがの彼もまずいと焦ったらしい。
というのも、己の不誠実を反省したわけではなく、簡単にバレるような身近なところで手を出してはいけないと狡猾な教訓を得たにすぎない。おそらく今はもっと、上手に卑劣に、何股もかけていることだろう。
「俺は女たちを楽しませてやってるだけだ」
「うわっやめてよ。そんなの聞きたくないし……」
気を取り直し、もう一本の羊羹に手を伸ばしたとき、指先になにかやわらかいものがふれた。
雰囲気からして布のようだった。
「あれ……なんか入ってる」
「あぁ。それお前に」
「うわ! ユニフォームじゃん」
袋のなかをのぞくと、源一郎の所属クラブのユニフォームが入っていた。
広げてみると当然のようにTAIRAの文字と彼の背番号が刻まれていた。サインまで入っている。
「わたしに? なんで?」
「平じゃなくてなまえって入れたほうがよかったか?」
「いや、そうじゃなくて……べつに、着る機会もないし」
「……そうか。俺はてっきり、お前はうちのクラブのサポーターなのかと」
「はぁ? そんなわけ――」
「最終節、来ていただろう」
なんで。
おもわず羊羹を咀嚼していた口の動きが止まってしまった。
まさか、バレていたなんて。
人混みにまぎれて絶対にわからないと思ったのに。
「ビジター側の席は限られているからな。けっこう後ろまで見えるんだよ」
「……大学の…………友だちが……サッカー好きだって……」
「へぇ」
「チケットが……余ったからって……」
「そうか」
「……」
すべてが言い訳がましく響いてしまう。いや、事実言い訳なのだ。
わたしがあの試合のチケットを買ったのは、ほんの出来心だった。
夜のスポーツニュースで天皇杯だとかACLについて語るキャスターが名残惜しそうに、それでいて興奮した調子で、リーグ戦は今年最後の試合だと熱弁していた。そういえば源一郎はどうしているかと田舎のおばあちゃんを思い出すようにふと頭をよぎり、ウェブページを見れば奇しくも次の試合はわたしの住んでいる地域で行われるという。空席はまだわずかにあるようだし、一度くらいは観に行ってやってもいいだろうと、気まぐれでスタジアムを訪れたのだった。ほんとうにただそれだけだ。
「まぁいい。とりあえず今住んでるとこの住所教えろよ」
「住所……? なんで?」
「チケット。いい席送ってやるから、今度はホーム戦に来い」
「でも……」
「次はかならず勝つ」
源一郎の横顔には、おもわず固唾をのんでしまうほどの真剣みがあった。
そうだった、サッカーをするとき源一郎はこんな顔になる。
あの日は折悪しく黒星を喫したものの、彼は最後まで果敢に挑んで勝負にしがみついていた。
どんな美しい女の子にも本気になれない源一郎が、唯一心から愛し、がむしゃらになるのは今も昔もサッカーだけだ。
「いたっ! ……なんで叩くの!?」
固唾のかわりに羊羹を飲みこめば、思いきり頭を叩かれた。熟れたかぼちゃのような気の抜けた音が響く。
「人が真面目な話をしているときにアホ面で羊羹を食うな」
今のは真面目な話でしたか。それはそれはすみませんでした。
わたしが頭をさすっていると、源一郎は「じゃあな」と背中を向け、窓から出て行ってしまう。遅く来たサンタクロースみたいに。
「気をつけてね」
次に会えるのは今年の冬だろうか。いや、その前に。
彼の言うとおり、今度はホーム戦に行ってやるのもいいかもしれない。なんて、わたしらしくないことを考えながら、のしのしとホッキョクグマのような風格で遠ざかっていく源一郎の背中を見つめ続けた。
あけましておめでとうございます(2019.01/04)
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