雪には失われたなにかを埋め尽くす力がある。空白の白は雪の白。欠けたグラスの一部分、寂しさでえぐれた心の穴を満たすのも、すべてこの雪だ。少なくとも、わたしたち姉弟はそう信じている。

 故郷を離れ数年が経ち、人ごみに慣れ山手線の線路図を頭のなかで開けるようになっても、初雪の知らせを聞くたび蘇る光景が、いま、目前に広がっていた。

 昨晩から降り続けていた雪は、昼過ぎには勢いを弱め、夕陽が顔を出した今ではすっかり辺り一面をショートケーキの表面みたいに覆い尽くしてしまった。

 固すぎず柔らかすぎず、しっとりしていて、かまくら作りにはうってつけの雪質だ。彼の作った純白の城は堅牢に塗り固められ、おおかみが力いっぱい体当たりしても崩れることはないだろう。
 あらためて辺りを見回してみるが、去年の正月に里帰りしたときと特段代わり映えない、実家の庭だった。変わらない風景というのはつまらないものだが、そのつまらなさがかえってありがたいこともある。この場合がまさにそうだ。

 台所の換気扇が排出する、お味噌汁の香りが鼻腔から全身に染み入って、懐かしいあたたかさが蘇った。


「源ちゃん、わたしも入っていい?」


 もちろん、本当に入るつもりはない。彼の身体がわたしの倍近くたくましいことを差し引いても、物理的に不可能なサイズなのだ。
 かまくらのなかを覗き込むと、不用意に近づけばたちまち吸い込まれて無に帰せられそうなブラックホールのごとき瞳がふたつ仲良く並んでいた。
 最後にこの目を見たのは、たしか弟が中学2年のころ。わたしが東京の大学へ進学すると打ち明けた、真冬の夕暮れ。久しぶりの虚無との遭遇に感慨深さすら感じてしまう。

 東京の友人に話しても首をかしげる「雪はあたたかいものだ」というわたしの主張も、きっと彼なら賛同してくれるはずだ。かまくらは風除けもしてくれるし、静けさも相まって落ち着く空間なのだ。
 その温かな雪に包み込まれ、胎児のように身体を丸める弟は、顔の造形こそ幼いころの面影を宿してはいるものの、身体は大きく、文字通り大きく様変わりした。
 中学に入ったころ、突然なんの前触れもなく、背がぐんと伸びてわたしを見下ろすようになった。心なしか首が太くなり、骨格まで男の人のそれに近づいたように思う。高校入学時には成人男性の平均を優に凌ぐ体躯に育っていた。


「そろそろ出ておいでよ」

「……」

「美味しいおやつにほかほかごはんが待ってるよ」

「……」

「あったかい布団もーー」

「姉さんが温めといてくれるのかい」

「姉さんのかわりにハナちゃん寝かせとく」

「うわ 嫌だな」


 こいつはすぐ涎たらすし、そこらじゅうが毛まみれになるんだ。口をとがらせて不満を言うわりに、今彼がただでさえ狭いかまくらの中に引き連れ、ダウンジャケットと厚い胸板の隙間にすっぽりしまいこんでいるのは、その毛玉じゃないか。
 柴犬のハナ、本名平花子はそれはもう弟にベタぼれで(世話をするのは母ばかりで、散歩にだって連れて行ったこともないのに!)、実家にいるときはいつだって弟の半径1.5メートル圏内をうろちょろしている。
 どういうわけか異性にもてる弟は、人間の女のみならずメス犬までもを魅了してしまうらしい。ハナは源一郎が脱ぎ捨てた洋服を寝床に持って行っては、よくシャツをダメにしていた。


「姉さんよくわからないけど。全国大会って誰もが行けるものじゃないんでしょ」

「……」

「源ちゃん、すごかったよ。スタジアムでずっと見ていたんだから。ほら、こういう……双眼鏡で。サッカーのことは、姉さんよくわからないけどーー」

「姉さんにわかることなんてあるのかい」


 おやおや今日はいつにもまして突っかかってくるじゃないか。こんなにヘソを曲げた弟の姿を見るのは久しぶりで、苛立ちよりも愛しさが勝る。


「源ちゃんのことならちょっとだけわかるよ」

「それもあやしいな。姉さん、上京してから年に二回しか帰ってこないじゃないか」

「それは源ちゃんも一緒でしょ」


 人の山にいくつかの線を引くとして、上から数えて三本目、「普通」と「なかなか良くできる」の境目くらいに属していれば満足なわたしと違い、弟は昔からなににつけても一等賞でないと気が済まない子どもだった。

 頂点を取るにふさわしい才能があるのはもちろん、彼は努力も惜しまない。わたしがこたつで蜜柑を頬張っている間も、弟は細雪が舞うなかでサッカーボールを蹴っていた。夕飯が出来たころ鼻の頭を赤くして帰ってきた彼の手はしもやけにやられ、箸を持つのもままならなかった。その凍えた手を温めてやるのはわたしの役目だったけれど、今は違う誰かに温めてもらっているのだろうか。


「お風呂入りなよ。上がったら髪やったげるから」


 わたしがそう言い終えると同時に、あれほど堅牢に見えた雪の城は一瞬にして崩壊し、残ったのは髪を白くさせ、睫毛にまで雪を乗せた弟と犬のみだった。地中に埋まっていた巨人兵がラピュタ王の帰還と共に目覚めたような、畏怖の念を抱かせる佇まいで立ち尽くしている。


「姉さんのトリートメントは使わないでくれよ。アレは女くさくて頭が痛くなる」

「生意気」


 言葉に反してその横顔は、やけに清々しい微笑みで、いつもの小憎らしさを湛えたそれとは違い、未来でも見据えているかのようだった。
 どこか吹っ切れたような、強い眼差しの行方を、わたしは知らない。


(2016.07/04)


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