佐藤さんはときどきこんなふうに「君くらいの若いころはアメリカ海兵隊の特殊部隊にいたんだよ」とか「父親はアメリカ人で母親は中国人なんだ」とか、しかも本名は「サミュエル」だなんて旧約聖書に出てくるような神々しい名前だとか、めちゃくちゃなバックグラウンドを真顔で語ってくれる。ピーナッツを指先で転がす手遊びをしながら。
それは決まってわたしがひどく酒を飲んだ日。白状すると、酔いつぶれたふりをしているとき。このイギリスのパブを思わせるバーは、彼のお気に入りらしく、ここで彼の武勇伝を聞くのは三度目になる。
嘘なのか真実なのか、いや、おそらく全てはわたしを楽しませるための作り話なのだろう。真偽はどうだっていい。無味無臭の水みたいな佐藤さんが進んでおしゃべりに興じてくれることが嬉しくて、わたしは相槌を繰り返す。
「じゃあ佐藤さんは佐藤さんじゃなかったわけですか」
「まあ好きに呼ぶといいよ」
「ニックネームで呼んでも?」
「う〜ん」
この「う〜ん」が肯定でないことはすぐにわかった。声の冷たさから嫌悪感が滲み出ていて、興奮した。
「え。でもあっちの人って、親しい人は愛称で呼ぶのが普通じゃないですか? サミュエルならサム……とか? サミー、とか、……サミュサミュ、とか。……ふふっ、怒らないでくださいよ。とにかくそういった愛称で呼ぶんですよね?」
サミュサミュ、と言った瞬間、いつも不気味な微笑みを絶やさない彼の顔が露骨に歪んだのがおかしかった。
日頃あまり感情を晒さない彼を不機嫌にさせるのがわたしの趣味であり日課であり義務である。昨日は彼お気に入りの帽子を椅子とお尻の間に隠すことでミッションコンプリートされたかのように思われたが、もしかしたら不機嫌なふりをしていただけかもしれない。
わたしは彼の気持ちも素性もなにひとつ知らない。にも関わらず、彼を好きだという想いだけは、それを取り出し手でさわって確認できる確かなものが存在していた。
足の組み方、くたっとした襟足、柔らかい目尻の皺。控えめな、それでいて威厳をたもった咳払いの仕方。彼を形作る些細な事柄が愛おしくてたまらない。胸の奥があつく痺れるほどに、わたしは彼を愛している。
「じつはわたしも、なまえって名前、偽名なんですよ」
思わせぶりに、乾いた小枝のような彼の関節にふれ、人懐っこい猫のように肩に擦り寄る。
「そう」
まったくもって興味が無いと言わんばかりの底冷えした相槌が心地よくて、うっとり目を細め悦に入る。
彼は嘘を付くのもうまいが、人の嘘を見ぬくのはさらに上手い。もっとも、わたしは彼を騙そうとしたつもりはさらさらないけれど。
「このあと、家に行っても――」
「ダメだよ」
「けち」
「まだ帰りたくないんです」全身の甘さをかき集め熱い息と共に排出してみたが、彼の心にも身体にもなんの効果も与えていないようで、わずかに寂しさが滲んだ。わたしは彼を喜ばせる言葉を知らない。
「みょうじ君、飲み過ぎはよくないよ」
「飲み過ぎてなんて――」
「そろそろ出ようか」
「え〜」
駄々をこねるわたしを一顧だにせず、佐藤さんはさっさと支払いを済ませてしまう。このままでは本当に置き去りにされてしまう気がしたので、小走りで彼の元へ向かった。
しばらく地下の停滞した空気を吸っていたせいか、都会の外気でもありがたみを感じる清々しさがあった。街の明かりでチカチカ照らされる彼の横顔は、いつもながらなにを考えているのかわからない。
従順に彼の半歩後ろをついて歩けば、数分後には「おやすみ」と言って別れるのだろう。佐藤さんはしばしの別れを惜しんではくれないし、去り際に後ろを振り返って手を振ってはくれない。そう思い至ると、わたしは途端に寂しくなった。
少し勢いをつけてジャンプして、彼の気に入っている帽子を剥ぎとった。そのまま彼を追い抜かし、見せつけるように帽子をひらひらはためかせながら、走る。
「こら」
こら、と言いつつ追ってくる兆しはないのが残念だった。
頬にできる笑窪に似た皺に、オレンジの口紅をつけたら彼はたいそう嫌がるだろう。眉をしかめる彼を想像して、胸が高鳴った。
(2016/07/05)
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