食べたり、眠ったり、人間が生命維持に欠かせないはずのそれらの行為は、どれも彼には不似合いだ。
 睡眠中はもちろん、起きている間すら呼吸をしているのかあやしく思えて、ときどきふと思い出したような具合で口元に手のひらをかざしてしまう。すると彼は一度きょとんと呆けてから、子どものように悪戯な笑みを目元に湛え、わたしの手のひらをべろりと舐めるのだった。


「ほんとうにもう食べないんですか?」

「いいよ。私はあまり食欲がないから」

「こんなに美味しいのに」


 もったいないから全部食べちゃいますよ。いいんですか。そう言い終わるや否や、チリソースがかかったエビを二、三匹、口の中に放り込む。

『お腹がへって死にそうなのでなにかごちそうしてください』


 二時間前、電話越しの佐藤さんはなぜだかとても上機嫌の様子で、開口一番不躾な要求をつきつける小娘に「あぁ〜いいよぉ〜」とやけに間延びした、それでいてゴキゲンさを隠し切れない返事をくれたのだった。

 待ち合わせ場所は一度も降りたことのない駅で、「じゃあ行こうか」と言ったきり無言で歩く佐藤さんの足は徐々に込み入った路地に進んでいくし、周囲から聞こえる言語は耳馴染みのないものばかりだったので、正直わたしは少し緊張していた。
 しかし、餃子にひとくちかじりついた瞬間、その得体の知れない不安はすべて過去のものとなり消え去った。噛むたび肉汁が溢れだし、ほどよく生姜が香るスープともちもちした皮の食感に唾液が止まらない。

 出てくる料理はどれもこれも目玉が飛び出すほど美味しいのに、彼は水餃子にひとつふたつ手をつけると、海老をいくらかつまんだだけで箸を置いてしまった。それ以降は中国の見たこともない瓶ビールに口をつけるのみで、鷹揚に頬杖までつきながらごちそうを貪るわたしを眺めている。なにが面白いのかいつも以上にニヤニヤと不気味な笑みを浮かべながら。

 人に見られながら食事をするのは得意じゃないけれど、あまりの美味しさに箸が止まらない。がつがつ、といった表現がふさわしい食べっぷりだと我ながら思う。佐藤さん的に例えるなら、レニングラード包囲戦から開放された人々のように。
 海老のチリソース煮、空芯菜炒め、麻婆豆腐。いずれもわたしが知っているそれらの味とはなにかが違い、かいだことのないミステリアスな香辛料が含まれているようだった。中枢神経がびりびり刺激されドーパミンがとめどなく溢れ出てくる感じがする。ようするに、旨い。


「君は本当に美味しそうに食べるねえ」

「だってこれ、ほんとうに美味しいんですもん」

「それはよかったよ」

「……佐藤さん、なにかいいことありました? なんだかすごく楽しそう」

「そうかなぁ」

「そうですよ」


 「わたしのいないところで、なにか楽しい趣味でも見つけたんですか。」大げさに唇を突き出してすねてみせたが彼は笑顔に似た表情のままグラスを傾けるばかりで、彼を楽しませるなにかについて、語るつもりはなさそうだった。



 佐藤さんと出会ったのは犯罪心理学の講義だった。
 ノートもペンも鞄も持たず手ぶらで、ドアの真横の席に腰掛けていた彼を見たとき、てっきり他学科の教授が見学に来ているんだと思った。
 少なくとも博士号をいくつか取得していそうな佇まいの彼を気にしているのはどうやらわたしだけのようで、他の学生たちは気にも留めないどころか見えてすらいないようだった。

 二度目に会ったのは翌日のカフェテリア。自作の歪なおにぎりをもそもそと頬張るわたしに「やあ」と馴れ馴れしく声をかけてきたおじさんが誰なのか、思い出すのに数秒を要した。
 彼は自分を「佐藤」と名乗り、「教授の古い友人なんだ」と言ったけれど、わたしはそれが嘘だと直感でわかった。
 不審者だったらどうしよう、そう訝しんだのはほんの一瞬で、「それだけじゃ足りないでしょう」と学食をご馳走してくれた佐藤と名乗る見ず知らずの男に、わたしの警戒レベルは5から1に引き下げられた。ほんとうにちょろい女だと思う。

 それからわたしたちは、ときどきこんなふうに食事したり、時間を見つけては顔をあわせるようになった。
 彼が何者で、どのような理由でここにいて、どんな目的でわたしに近づいてきたのかわからないし知る由もないけれど、胃袋が満たされるのと同時に、彼の声や眼差しには不思議と安心させられるのだった。


「佐藤さんって何者ですか?」

「なんだいその質問は」


 佐藤さんが笑う。笑うと、生きた痕跡そのものみたいな皺が目尻に集まって、ゆっくりゆっくりほどけてゆく。

 今時めずらしいブラウン管のTVでは、連日報道されている亜人の高校生のニュースで持ちきりだ。
 トマトと卵の炒めものを運んで来た店員の手によって、番組は巨人対阪神の試合に変えられた。野球の応援と中華料理を作る音はなんとなく親和性がいいような気がする。ほどよい騒がしさのコンビネーションは人を落ち着かせるのかもしれない。


「だってなんだか佐藤さんって、人間っぽくないんですもん」

「言うねえ」

「もしかして亜人だったりして」

「ははは」






(2016/05/21)


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