図書館に行く、と母に嘘をついて家を出ることにもようやく慣れてきた。まぁ実際に、図書館で待ちあわせをしているので、まるきり嘘というわけでもない。
「チャオ、ナランチャ。待った?」
「いーや、ぜんぜん。さぁ、行こうぜ」
そうして彼は、わたしの手をやさしく握って先を行く。彼はたいていちょっぴり駆け足かつま先が弾むような歩きかたをする。まるでこの時間を待ち望んでいたみたいに機嫌よく。母に嘘をつくことには慣れても、ナランチャと手を繋ぐ瞬間は何度繰り返してもぎくりとしてしまう。ぎくり、どころではない。肝臓の上で心臓がバウンドするのだ。
「なァ……今日もいつものとこでベンキョーすんのか?」
彼の言ういつものとこ≠ニは、図書館からほど近い、裏路地の階段だった。ひとりで立ち入るには勇気がいるが、ナランチャといっしょなら平気だ。ときどき野良猫が横切るくらいで、ほとんど通行人のいないこの場所は、人目を忍ぶわたしたちにぴったりだった。
「そうよ。明日は科学の小テストがあるし……」
「じゃあさ〜その小テストが終わったら遊びに行こーぜぇ? 買い物でも散歩でもなんだっていいけどよぉ〜、とにかくずっと座ってベンキョーってのは体に悪りーよ」
「それもいいけど……この前教えた元素記号は覚えたの?」
「モチロン!」
あまり清潔とはいえない石階段に座るのは抵抗があるけれど、図書館では好きにおしゃべりできないし、同級生や、両親の知りあいにナランチャといっしょにいるところを見られたら、厄介なことになるのは目に見えている。
ここでなら大声で元素記号の暗記をしようと、小学生向けの算数ドリルに苦戦しようと、注目をあびる心配はない。
「N」
「ナトリウム!」
「おしい。窒素よ。Oはわかるでしょ?」
「酸素?」
「正解。じゃあS」
「う〜ん。……今スヌープ・ドッグしか出てこねぇわ」
「その人は元素じゃないでしょ。Sは硫黄」
「なぁ、キスしていい?」
ナランチャの声は普段のトーンとなんら変わりなく、まるで、先ほどわたしを散歩に誘ったときのようだった。
わたしはうなずく。うなずくと、彼の真横に置いた手に、彼の手が重ねられた。手の甲が熱い。唇の表面がすこしくっついて、離れて、さらにもう一度。二度目のキスは長かった。わたしを見るナランチャの目は、男の人の眼差し。
「わたし、キスって初めて」
ナランチャは、不意をつかれたようにきょとんとしてから、
「へへ……じつは俺もなんだ」
と、わかりやすい嘘をつく。
彼はわたしと同じ十七で、軽いタイプではないはずだが、わたしと違ってキスの経験くらいはあるだろうと思う。でなければこれほどスムーズにはいかない。彼のキスは完璧だった。
たとえば角度を間違えて鼻がふれてしまったり、歯がぶつかったり、とにかく多かれ少なかれ不手際があってしかるべきなのに。なんであろうと、初めてとはそういうものだから。
「嘘つき」
尖らせたわたしの唇はふたたび塞がれてしまう。一歩ずつ、段階を踏むようなキスだった。足し算を覚えたら引き算、そのあとに掛け算、割り算という具合に。このキスが足し算であるならば、割り算はどんなだろうか。はやく四則計算を飛び越えて因数分解を教わりたいと思うわたしは、焦りすぎかもしれない。
「ナランチャ、あのね」
今日は家に帰りたくないの。ナランチャの濡れた瞳に映る、物欲しげなわたしの顔。
学校のみんなはわたしを、ドラッグどころか夜更かしさえしない退屈な優等生だと思っているだろう。事実、ナランチャに出会う前のわたしは、けっしてこんなことを言う女の子ではなかった。ギャングのボーイフレンドがいるだなんて噂がたったら、母はわたしを軟禁するに違いない。
「そんなの、俺だって……」
握る手の力が強まった。今度のキスは子供の挨拶みたいなそれではない。
ナランチャの舌は体温よりもわずかに冷えている。絡ませあうごとに、ゆっくりと、口に入れたジェラートのようにとけていく。
たとえ母が泣いても、友達に批難されても、彼のそばを離れたくなかった。
(2019.07.20発行 個人誌イタリアーノ書き下ろし再録)
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