サッカー観に行かねえか。
 ミスタがそう誘いかけたのは、みんなで昼食をとっている最中だった。



「サッカぁ?」



 馴染みのリストランテ。日替わりメニューは春野菜とムール貝のパスタ。デザートはイチゴのシャーベット。これおいしいね、フーゴもひとくちいる?



「いりませんよ、そんな食べかけ」

「おいしいよ。ほら、あーんして」

「おい、話聞けって。オメーらもサッカー好きだろ?」

「ミスタ、それってまさかよォ……」



 アバッキオが片眉をあげて聞いた瞬間、待ってましたとばかりにミスタは起立した。それも、とびきりの指パッチンつきで。



「そう! 我らがFCネアポリスだ!」

「「うげ〜」」



 露骨に顔をしかめたのはわたしとナランチャ。

 黄金期と称される八十年代こそ、有名選手が集い優勝ないし優勝争いに奮闘していたが、今はもう当時の栄光は見る影もなく目下低迷を続けている。わたしもみんなもサッカーは好きだけれど、負け続きのチームを応援するほど熱心ではない(ネアポリス出身ってわけでもないし!)。イタリア代表の試合とチャンピオンズリーグは観るよ、なんて言ったらミスタ、怒るかなぁ。



「オイッ! シツレーだなオメーらは!」

「だって、いくらなんでも弱すぎだよ。去年の順位なんて……18位だっけ?」

「ちげーよ17位だ」

「似たようなもんじゃん。わたしはパス」

「俺も〜」

「……いいのかオメーら。ブチャラティは来るっつってたぞ」

「「えっ」」



 みんな一斉にブチャラティのほうを見た。

 その勢いが、彼の手元を狂わせたのだろうか。ブチャラティの口に入るはずだったペンネは、皿の上に落ちてバウンドしたのち、フォークでふたたびすくい上げられた。ブチャラティ選手、ナイストラップです。



「なんだおまえら……たまにはいいじゃあないか、久しぶりにスタジアムに行くのも」


 そんなわけで、わたしたちブチャラティチームは揃ってサッカーを観に行くことになったのだった。



「ブチャラティ! アバッキオ! こっちこっち〜!」



 遅れてやって来たふたりに向かって手を振ると、ブチャラティは親しみのある笑みで応えてくれた。彼が持っているのは、たくさんのビールが並んだ紙トレイ。もちろん全員ぶんある。



「どうだ」

「「「2―0!!」」」

「なんだ、いい調子じゃあないか! まだ前半だろう?」

「おいおいブチャラティ正気か? ウチ≠ェこれまで何度2―0からひっくり返されたと思う? 2―0は危険なスコアだぜ」



 ナランチャの鼻息は荒い。まるで毎試合追っている熱心なサポーターのような口ぶりだった。もしかすると、なんだかんだ言いながらも試合結果だけは毎週確認していたのかもしれない。



「ナランチャ! 縁起悪りーこと言うんじゃあねえ!」

「まぁまァ。とにかく油断は禁物だぜ。おい、ビール飲むか〜?」

「「飲む!」」

「ブチャラティ、グラッツェ!」



 ミスタの心配は現実になった。

 前半終了間際にお手本のようなカウンターを決められ、さらに後半開始早々、フリーキックで二点目を奪われてしまった。これで2―2。マンマミーア。スタジアムは罵詈雑言の嵐だ。



「うっわ〜! 信じらんねーッ!」

「クソッタレ!」



 最悪だ。こんなのってあんまりだ。



「2―2……足すと4だろォ……不吉じゃあねえか……チクショウ……」



 ミスタなんて帽子を正面からかぶって覆面のようにしている。目隠しのつもりだろうか。たしかに見るに堪えない光景だった。



「は〜あ……」



 隣のナランチャの肩に頭を乗せたら振りはらわれてしまった。仕方がないのでミスタのほうにもっていくと、ミスタは力なく傾いていき、そのまた隣のアバッキオへと身をゆだねた。ブチャラティチームのドミノ倒しが完成した。



「帰るか」

「おいアバッキオ! ふざけんじゃあねーッ!」

「そうだぞ。ほら、残り時間も出てるみたいだ」



 ブチャラティの人差し指の行方を目で追うと巨大モニターには残り時間四分≠ニ表示されていた。ミスタの「四かよ……」という呟きが虚しく響く。

 そのようにして、誰もが意気消沈し、このまま試合が終わってしまうかと失望したときだった。



「ウォ〜! いっけぇえ〜!」

「そうだ! そこだ!」



 これがラストチャンスだとばかりに、やけっぱちのロングパスが通り(オフサイドはない!)それにあせった相手ディフェンダーが後ろからスライディングで阻止。レフェリーの胸ポケットから出たのは――。



「イエローだッ!」


 スタジアムに歓声が湧きあがった。ついさきほどまで帽子の隙間からのぞき見ていたミスタは、PKPK、と鼻息荒く叫んでいる。退屈そうにビールを飲んでいた観客もみんな総立ちだ。

 モニターに映しだされたキッカーの表情は真剣そのもの。ここがコロッセオで、一世紀のローマ帝国だと言われても納得してしまう精悍な横顔だった。



 ホイッスルが鳴ったのを合図に、辺りは水を打ったように静まり返る。スタジアムの時が止まった。それもつかの間、ボールは美しい軌道を描きゴールに吸いこまれていく。



「うぉおおお〜!」



 瞬間、スタジアムは熱狂の渦にとりつかれた。人々の絶叫が天をつんざき、抱きあい、隣人の背中を叩いて、喜びをわかちあう。

 ゴールが決まって間もなくして、試合終了のホイッスルが鳴り響いた。
 これで3―2、FCネアポリス、三試合ぶりの勝利だ。



「「ヒ〜ハ〜!」」

「ミスタ、スタンドしまえよ〜!」

「いやオメーも! 出てる出てる! ボラーレしてんぜェ〜!?」

「ギャハハハハ!」



 あまりの喜びからミスタがナランチャの頬にキスをした。

「うわ〜やめろォ〜!」と叫ぶナランチャも楽しげだ。

 その隣で歯を見せて笑うのはフーゴ。普段はむずかしそうな顔をしているアバッキオも口元をほころばせ、ブチャラティさえも拳を天に突きあげて少年のようなはしゃぎようだ。
 燦々とした日差しのなかに、ミスタが帽子を放り投げた。それを追うように、ナランチャのスタンドが青空を飛んでいく。ピストルズがわたしの鼻のてっぺんに熱烈なキスをした。

 ご近所さんも恋人たちも見知らぬ他人も、みんなで肩を組み、このチームとこの街を讃える歌をうたう。

 ――あぁ誇らしきネアポリス。おれたちの街、おれたちの家。いつかこの身が朽ち果て、散り散りになろうとも。おれたちは永遠に。美しきネアポリスよ。ここが愛のある場所――。

 この幸福すぎる光景を永遠にしてしまいたい。額縁に入れて、宗教画の隣に飾っておけたらいいのに。


 太陽に目を焼かれながらも、わたしは必死に両目を見ひらいていた。瞼が震え、涙がひとつこぼれおちる。

 あぁ美しきネアポリス。わたしもおまえを愛しているよ。






(2019.07.20発行 個人誌イタリアーノ書き下ろし再録)


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