アイメイクが終わり、最後の仕上げにフェイスパウダーを塗っていたときだった。

 派手なエンジン音が窓を閉めていても聞こえる。きっとボンネットの下で獰猛な怪獣でも飼っているのだろう。ドゥルンドゥルン、キキーッ。どうやら猿もいるらしい。このようにして、ギアッチョのお迎えは見るまでもなくわかってしまうのだった。

 すこしでも待たせればたちまち機嫌を損ねてしまうので、わたしは走って階段を降りていく。
 ギアッチョは路肩に停めた車に乗ったまま、親しみのある視線をくれたのち、しかし例によって眉をひそめ、


「んだよその格好は」

 と、開口一番に難癖をつけた。



 パン屋のガラスドアに映る自分の姿を確認してみるが、おかしなところはない。先月のデートでも同じスカートを履いていたしそのとき彼はなにも言わなかった。



「今日はオメカシして来いっつったろーがよォ」

「したよぉ。変かな?」

「……ったく」



 車から降りてきたギアッチョは、カジュアルながらもシャツとジャケットを身にまとい、なんというかスマートだった。



「着替えろ」

「え、ちょっと」



 腕を掴まれ、家に引きもどされてしまった。

 夏場、露出度が高くなるとほかの男の目を気にして口出しすることはあれ、これほどわたしの服装にうるさいのは初めてだ。



 ギアッチョは無遠慮に家に入ると「きたねーな」とぼやきつつクローゼットを全開にしてしまう。


「や〜ッあんまり見ないでさわらないでッ!」

「あー……これじゃあねーし、こっちでもねえな」

「もぉなに〜? これ? こっち?」

「ちげーちげー、それじゃあなくてよ、ほら、結婚パーティーんとき着てたやつ」

「……もしかして、いいお店に連れてってくれるの?」

「Esatto!」


 Esatto!(そのとおり!)



 手のひらから鳩でも出しかねないキメ顔でそんなことを言う。

 わたしはもうたまらなくうれしくて、持っていた服も鞄も放りなげて飛びついた。身長に比べるとがっしりしたギアッチョの首にしがみつき、鼻を押しつける。



「きゃーッギアッチョかっこいい!」

「だァ〜ッ! くすぐってェっつーの! 犬かオメーは!」

「わんわん!」

「おすわりしやがれェ〜ッ!」



 そうして、心ゆくまで犬のキスを浴びせかけてから、


「すぐに着替えるね! 車で待ってて、ご主人様っ」


 と、可愛くお願いしてみる。一分でも五分でも辛抱できないせっかちな人なのに今日のギアッチョときたら。



「あぁ。キレイだぜ、cucciola」


 だなんて、ウインクをくれるではないか。

 cucciola (子犬ちゃん)?!
 キレイだぜ?!

 これはえらいことだ。大事件だ。すでにわたしの前頭葉ではパーティーが始まっている。ドラッグありセックスありの危ないパーティーだ。



「ギアッチョ〜お待たせ〜!」


 着替えを済ませて行くと、わざわざ車から降りてドアを開けてくれた。ほんとうに、どうしちゃったのギアッチョ。なにかいいことでもあった?


「イイことだァ?」

「だって、すごくゴキゲンだから。なにかあったのかなって」

「……イイことならあるぜ。久々にオメーのアホ面が見られたからな」

「キャ〜ッ! 神様〜ッ!」

「っるせ〜」


 神様、神様。聞いておられますか。
 日の沈みかけたネアポリスの空に十字を切る。

 たとえ神様でなくても、誰が見たって今のギアッチョは上機嫌だ。熱でもあるのかと疑って、さりげなく顔をさわってしまったくらいに。信号待ちでは鼻歌まじりにキスをくれたし(いつもならイライラしてダッシュボードを蹴りあげている)、ちょっとした言いまわしや些細な出来事をきっかけに因縁をつけることもない。眼鏡の汚れに向かって本気で罵倒するという奇行も、今のところはなしだ。



「ここで降りるの?」

「あぁ」



 とにかく、こういう日のギアッチョはいい。
 並んで歩くだけで世界一の果報者になった心地がする。


「危ねえぞ」


 人とぶつかりそうになったわたしの肩を、やさしく抱きよせてくれる。


「ったく、ぼけっとすんなよ」


 こんなふうに、隣で睨みをきかせながらエスコートしてくれる人がいるから、わたしは思いきり安心できるんだよ。なんて甘ったれた本音を言えば、またへそを曲げてしまうだろうか。

 ギアッチョが予約したというお店はいかにもハイグレードなリストランテで、わたしは思わず口の動きと表情で「大丈夫?」と聞いてしまった。こんなお店は初デートでもそのまた次のデートでも来た覚えがない。わたしの心配もよそに、ギアッチョは小声で「気にすんな」と囁くだけだ。

 カメリエーレは恭しくわたしたちを出迎えて、眺めのいい席に案内した。手渡されたワインリストには呪文のごときフランス語が並んでいる。

 勧められるがまま注文した食前酒を飲みながら、わたしは聞かずにいられなかった。



「ねぇギアッチョ。今日って……なにか特別な日だった?」


 誕生日はわたしもギアッチョも全然違うし。記念日、はまだ先だ。600日記念日とか? いやそれもきっと違う。
 幸いにも今日のギアッチョはすこぶる機嫌がいいから、なにか忘れていたとしても激怒することはないだろう。



「アァ? 前祝いだよ」

「前祝いって、なんの?」

「それは……お前が知らなくていいことだ」



 いきなり突きはなしたかと思えば、ギアッチョはすぐに気を取り直したようで、


「そうだ。お前に渡すもんがあんだ」


 と、懐から小さな箱を取りだした。

 テーブルの中央に滑らせて、「開けてみろ」と顎で指す。



「うわぁっ、これどうしたのっ」


 ギアッチョがくれたのはブレスレットだった。
 それも有名ブランドの、おそらくは本物だ。
 シンプルなので今日みたいなドレスにも、普段着にも合わせやすそうなデザインだった。



「プレゼントだよ。いらねえか?」

「プレゼントぉ?!」

「バカ、声がでけえ」

「ごめん」

「指輪にするつもりだったんだけどよォ、指のサイズなんて知らねえからな」

「…………もしかして、先週の宝石強盗って」



 つい頭をよぎってしまった。
 ローマの宝石店に二人組の男が押しいり、店員に怪我を負わせて十億相当の金品を――。



「盗んでねえッ! ちゃんと買ったぞッッ! レシート見っかァ?!」



 本日一の大声だった。
 ギアッチョが財布からレシートを出しかけたところで前菜が運ばれてきた。そのすぐあとのスープも、魚料理も美味しかった。メインの肉料理に到達する頃には、宝石強盗呼ばわりされたことなどすっかり忘れた様子でギアッチョも食事を楽しんでいた。



「それ、似合ってるぜ」

「ありがとう。……ギアッチョ、あのね、わたしすごくうれしいよ。でも――」


 気がかりのすべてを集めて丸めて、視線といっしょに投げかける。言葉ではうまく説明できそうになかった。それでもギアッチョはわたしの無言のボールを受けとめてくれたようで、頷き、鷹揚な笑みを浮かべた。



「これからデケェ仕事の予定なんだよ。それがうまくいきゃあ、まとまった金が入る。しばらくは遊んで暮らせるくらいのな」

「なんかすごーく怪しいんですけどぉ〜……」

「アー……ほら、ボーナスみてえなもんだ」



 ギアッチョが会社勤めでないことくらい知っている。だいたい、しばらくは遊んで暮らせるほどのボーナスってなに?
 お肉を切る手を止めて、おそるおそる聞く。



「その、お仕事が……もし、うまくいかなかったら?」

「ハッ」


 ギアッチョは乱暴にワインをあおり、


「そんときゃ俺のことは忘れろ」


 と、半笑いで吐きすててしまう。きつい冗談を飛ばすときと同じように。
 それがいつもの冗談か、あるいは本気か、わたしにはわからない。眼鏡越しの三白眼を見つめるも無駄だった。どうか冗談でありますようにと祈ってみるけれど、神様はわたしの顔なんて忘れてしまったかもしれない。



「おい、まじで心配すんなって。なんならこの仕事をやめたっていい。どっか遠くに引っ越したって」


 恐れが顔にでていたようだ。ギアッチョはわたしの手をとって、親指でさすった。手首ではもらったばかりのブレスレットが誇らしげに光っている。



「遠くって、たとえば?」

「北部……トリノはどうだ」

「え〜寒いのやだあ」

「アァ? じゃあなんだよ、アフリカとかがいいっつーのか?」

「あは、いきなり飛ぶねえ」



 食事のあと、支払いはギアッチョがしてくれた。正確な金額はわからないが、札の数からして普段のデートの二倍、いや三倍はありそうだ。しかしとうのギアッチョは平然とカメリエーレにチップまで残していく。

 わたしの知るギアッチョは、お世辞にもリッチとは言えないごく普通の若者なのだけれど、ほんとうに銀行強盗でもするつもりだろうか。



「トリノってなにかあるの? ギアッチョの……故郷とか?」

「いや、特にはねえ」

「ふぅん」

「……今日話したことは忘れろ。ありゃ冗談だ」

「そんなの無理だよ」

「忘れろ忘れろ! ほら123だ! ウーノ! ドゥーエ! トレ!」

「もぉ〜わたしをバカだと思ってるでしょ〜」

「なんだ違げぇのか」

「ひどい!」

「ハハハ」



 ギアッチョは今の暮らしに不満があるのだろうか。

 わたしはギアッチョといっしょなら、映画のあとデリバリーの中華をつつくような気取らないデートでもいいし、狭い部屋でくっついていられるだけで幸せだ。たとえジュエリーをくれなくても、夕食がフルコースでなくても。

 しかしそう思っていたのはわたしだけで、彼はいかがわしい仕事に手を出すほどこの生活から脱却すべく画策していたらしい。そしてもしほんとうに大金を得たとして、はたしてわたしみたいな恋人で満足できるかどうか。



「寄り道してくか」


 わたしの不安を見破ったように、ギアッチョはやさしく問いかける。
 そうして車は見覚えのある道順をたどり海岸沿いを走っていく。どこに連れて行かれるかと思えば、まだ付き合い始めの頃に来た海辺だ。オフシーズンのビーチは人影もなくひっそりとしている。



「ここなつかしい〜!」


 車から降り、両手を広げ潮風を浴びてみるが肌寒かった。やはり三月の海だ。
 あの頃のわたしたちは、まだ互いをよく知らず、暗闇を手探りしその感覚のみで相手の輪郭を確かめるような、危うい駆け引きをしていた。ギアッチョは相当に歯がゆかったのだろう。当時はふれかたも乱暴だった。せっかちなキスで唇が切れたときの血の味を、今も鮮明に覚えている。



「あの日はバイクで来たんだよねぇ。わたしが海に入りたいって駄々こねて……」

「そうだ、オメーは昔からほん〜っとアホなんだよッ!」

「そんなこと言っちゃって、わたしがヒールを海に投げたら取ってきてくれたじゃない。犬みたいに」

「犬だァ?! 裸足で帰らせんぞッ!」

「楽しかったなぁ。その夜は初めてお泊りしたんだよね。ギアッチョってば、いっしょにシャワー浴びてるだけなのにもう――」

「だァ〜! わーってるわーってる! 忘れちゃあいねーよッ!」

「あはは」



 思い出話に花を咲かせながら、ヒールを脱いで砂浜を歩く。足の裏にまとわりつく砂が冷たい。飛びこんで、たとえ運良くヒールを見つけたとしても、この寒さでは凍えてしまうだろう。


「あまり波打ち際に近よるなよ、濡れちまうぞ」


 波音に負けじとギアッチョが叫ぶ。またわたしがヒールを海に投げるのではと案じているのかもしれない。
 あの日は子供じみた真似をしたけれど、今はもう彼を試す必要はなかった。
荒れる真冬の海だろうと、煮えたぎるマグマのなかだろうと、わたしのため、必ず飛びこんでくれると信じているから。



「夏になったらまた来ようね」



 今はただ、照りつける夏の日差しが恋しい。人肌のぬくもりを求め、わたしは駆けだしていく。






(2019.07.20発行 個人誌イタリアーノ書き下ろし再録)


< BACK >