帰宅したわたしを待ちうけていたのは、まさしくホラー映画の冒頭だった。
「ギャ〜〜ッ!」
郵便物に目をやりながら部屋の明かりをつけると、照らしだされたのは椅子に座る怪しげな男、リゾット・ネエロ。悲鳴をあげる女、わたし。彼が包丁を持って白い仮面でもつけていたなら、間違いなく卒倒していた。
「リゾット、もぅ、びっくりしたぁ……」
へなへなと床に座りこむが、リゾットは微動だにしない。なにやら深刻そうな面持ちでこちらを見おろしている。暗い部屋のなかで、ずっとそうしていたのだろうか。
「どうやって家に入っ――」
「今はそんなこと問題じゃあない」
問題だ。おおいに問題だ。リゾットは合鍵を持っていないし、戸締まりもしっかり済ませて出たのだから。しかし彼の眼差しの厳しさが、わたしに無駄口を叩かせてはくれない。
「どっかでくたばっちまったかと思ったが……このざまだ」
「あ……そうそう、携帯忘れちゃって」
リゾットは重い表情を崩さずに、テーブルの上の携帯電話を指先でトントン、と叩く。恐怖のあまり「ひぇ……」と声が出てしまった。
「リゾット……怒ってる?」
「そうだな」
「やっぱり怒ってるんだ」
「いや。どちらかと言えばあきれてる」
そうは見えない。
リゾットの眼差しといえば、爪を剥ごうか水責めにしようか、決めかねているときの拷問官のそれだ。
「どこに行っていたんだ、こんな時間まで」
「こんな時間ってまだ七時だし……友達と買い物だよ」
「友達? それは男か」
「オ、ン、ナ、友達」
当てつけに区切って発声するが、リゾットはひるむことなく、それどころかぐんと距離をつめわたしの瞳を覗きこむ。まったく疑り深い人だ。女友達といっしょにいたのは本当なのに。
そうまでしても満足できなかったようで、わたしの腰に手をまわし、抱きよせ、首に鼻を押しつけた。くんくん。匂いを嗅ぐ鼻の音がかすかに聞こえた。煙草や男ものの香水の香りがついていないか確認しているのだろう。南の男は嫉妬深い、なんて迷信めいた噂があるがどうやら事実だったらしい。初めて見る彼の過激な一面に驚く一方で、どこか納得している自分もいた。
なにしろ、彼が連絡をくれる頻度といったら。数時間おきにメッセージを交わし愛してると言うまで電話を切らせてくれない。こういった愛情表現も、裏を返せばわたしの行動を把握しておきたいという支配欲のあらわれだったのではなかろうか。付き合い始めてまだ数ヶ月で、互いへの思いがもっとも熱い時期だということを加味しても、その頻度は平均を上まわっている。
今日はさっぱり連絡が取れず、さぞ心配したのだろう。どうやったのかは知らないが、無断で家に侵入し、暗闇で怒りを募らせるほどに。
「どうやら嘘は言っていないようだな」
「もう、犬じゃあないんだから……」
目が合って、どちらからともなくキスをした。キスをして、目を開けると、いつもの穏やかで優しい彼の表情に戻っていて、わたしは心底ほっとする。朴訥としていておおらかな、わたしの好きなリゾットだ。
ときどき、ほんの一瞬だけれど、リゾットはまるで別人のように冷酷な顔をするときがあった。一切の感情が消え、瞳には暗く鋭い光を宿している。それは、彼が仕事用のノートパソコンを操作する瞬間だったり、つけっぱなしのテレビからふいに銃声が聞こえてきたときであったり、わたしが携帯電話を家に置き忘れた日だったり、規則性はあるようでない。ただわかるのは、彼にはわたしの知らない別の顔があるという現実だけだ。
二面性は誰しも少なからずはあるだろう。ただ彼の場合、異なる二種のカードをテープで無理やり貼りつけたような、そうして時折、それらは二枚にわかれて彼の手を離れていくような、言いしれぬ恐ろしさがあった。
いつかそのカードをわたしにも見せてはくれないだろうか。たとえそれがジョーカーでも、ひるんだりしないと約束するから。
「心配しちゃった?」
「……あぁ」
「ごめんね。気づいたときにはもうタクシーのなかだったの」
「いや、いい……俺が勘ぐりすぎたんだ」
「でも、うれしいな。今日は会えないと思ってたから。なんか得した気分」
「俺もうれしいよ。……それで、なにを買ったんだ。買い物に行ったのに手ぶらじゃあないか」
「あ〜……今日は下見だけっていうか……あんまりぴんとくるものがなくて」
「……」
「……」
まずい。すごく怪しんでいる。
なにがなんでも隠しておくことではないが、できれば今はまだ、話さずに切りぬけたかった。
「なにを隠している」
「え……と」
「答える前、一瞬だが間があった……しかも、瞬きの数が少し、わずかだが多い」
「そんなことな――」
「ある」
「……」
「言ってみろ。なに、キレたりしないさ。誓うよ。ほんの、心のはずみだったんだろう?」
「はあ?」
「それとも、本命はそいつで俺のほうが――」
「いやいや! なに言ってんの?」
わりと寡黙なタイプのはずだが、今日のリゾットは怖いほどに饒舌だ。口を挟む余地もない。
さらにはどんどん顔を寄せてくるので、わたしはもう彼の勢いにのまれて、銃を向けられた人間みたいに両手を上げて首をふることしかできなかった。
「俺に不満があるなら――」
「ちがうの! 聞いて! リゾットの誕生日プレゼントを選びに行ってたの!」
ついに口を割ってしまった。
リゾットに取調べを任せたら、どんな凶悪犯でも自白することだろう。
「まだ買ってないんだけどね……。この際だから聞いちゃうけど、なにか欲しいものある?」
リゾットはぽかんと口を開けたのち深いため息をついた。額に手をやり、自制を促すように沈黙している。さきほどの怒涛の詰問などまるでなかったかのようだ。
「欲しいものはない。しいて言えば……」
「うんうん」
「……いや、そんなことより、お前は家の防犯対策をもっと真剣に考えたほうがいいぞ」
「リゾットって心配性だよね。うちのパパみたいにうるさいんだから」
「お前の父親になるつもりはないが……なによりも大切に思っているさ」
頬をなぞるリゾットの手をつかまえて、両手で握りしめる。その愛情を逃さないように。どうか、いつまでも尽きることがありませんようにと祈りをこめて。
浮気を疑うリゾットは怖かったけれど、それも思いの強さの裏返しならば、満更でもないなぁ、なんて考えるわたしは舞いあがりすぎだろうか。
リゾットの膝に乗り、首に手をまわして思わせぶりに囁く。
「ねーえ。もしほんとにわたしが浮気しちゃってたら? どうする? 泣いちゃう?」
「あぁ。そのときはひと思いに殺してやるさ」
「それって、相手の男を? それとも……」
リゾットはなにも答えなかった。とても機嫌よさそうにほほ笑んでいる。
(2019.07.20発行 個人誌イタリアーノ書き下ろし再録)
< BACK >