ため息が白くなって空に消える夜は、いつもより体が重くなる。早く家に帰って眠ってしまいたいのに、エネルギーを使い果たしたとでも言いたげな両足が、石畳を撫でるようにしか進みたがらない。冬は嫌いだ。憂鬱に拍車がかかる。
どうにか家の前までたどり着き、鍵を開け室内に入ると、暗い静寂のなかに奇妙な違和感があった。わたしはこの違和感の正体を知っている。
「イルーゾォ」
返ってくるのは沈黙ばかりだが、はっきりとした確信があった。
続けて、鏡に向かって問いかける。
「そこにいるんでしょ」
リビングの壁にかけられた大型ミラーは、彼がこの部屋に持ちこんだ唯一の家具だ。鏡をノックすると、ソファの裏から決まり悪そうなイルーゾォが顔をだした。花束なんか抱えちゃって。あいにくわたしは花束とキスで舞いあがるほど乙女じゃないし優しくもない。なにより今日はとても疲れているし。
「出てきて」
追いだすつもりが、逆に鏡のなかに引きこまれてしまった。
鏡の世界は初めてではないけれど、何度経験しても慣れるどころか鏡酔い≠ヘひどくなる一方だ。引きこまれる瞬間の、目眩と吐き気と頭痛がいっぺんに襲ってくるようなその感覚は、車酔いしたみたいでどうにもつらい。
「もう、なによ」
この世界は文字通り彼のものだ。
彼が出て行けと命じれば一瞬で弾き出されてしまうし、逆もまたしかりで、彼が許可するまでわたしはここから出られない。そのせいか、こちらでのイルーゾォはなんというかちょっと傲慢で、いつにもまして嫌なヤツだ。
「勝手に家のなかに入らないでって言ってるじゃない。それに来る前に連絡して」
「アー……悪かったよ」
このように、鏡の世界では謝罪もどこかふてぶてしい。せめて腕組みをやめたらいいのに。
ここでの彼が腹立たしいことは間違いなく、ときどきその横面を張ってやりたくもなるが、わたしは鏡の国のイルーゾォ王が嫌いではなかった。内向的な性格の彼が唯一心落ち着けて、飾らないままいられる空間だと思えるからだ。
いつだったか、彼も言っていた。
『俺がコッチ側に招待すんのは、特別な女かターゲットだけだぜ』
癪に障るほど気取った口調だった。とはいえ、鏡のなかの世界がイルーゾォの心そのものだとすれば、そこに招くのは彼の言うとおり信頼の証しなのかもしれない。
「悪かった? それだけぇ?」
「お前がいつまでたっても帰らねえから――」
「わたしのせい?」
「いや、お前の上司かな。次に残業なんてさせやがったら殺してやるって伝えとけ」
「ステキっ! あの野郎がくたばるところを想像するだけでワクワクしちゃうわ」
だいすき、イルーゾォ。ふざけた調子で頬にキスをする。
殺してくれだなんて本気ではないけれど、きっとわたしが頼めば電話一本で実行してしまうんだろう。恋人がギャングなら殺人依頼も特別料金だ。
「上司でも部下でも殺してやるから、いい加減合鍵をくれよ」
「それはまだだめ」
「まだだァ?」
子供のようにふてくされた顔がいとしかった。鏡のなかでは表情も豊かだ。
鍵がなくても今夜みたいに勝手に入ってこられるのに、彼もわたしの信頼の証しとやらがほしいのだろうか。
そうであれば、合鍵ひとつくらい、もったいぶらずに作ってあげたらいいかもしれない。
背伸びをしてイルーゾォに抱きつく。胸元で花束が潰れる音がした。
「お花買ってくれたの?」
「あぁ。留守みてえだったから暇潰しにそのへん出歩いてたんだ」
「……わたし、花なんて欲しがる女に見える?」
「欲しがらない女なんているのか」
「ここにね。今度はアネモネじゃなくてワインにして」
「カワイクねー女!」
「これからあなたの好物のパスタを作るつもりだけど、それでもカワイクない?」
「そりゃあいい! カワイーぜ!」
「二人分作るとは言ってないわよ」
「なんだ、お前はダイエット中か?」
「馬鹿ね」
言いあっているうちに心も体も軽くなり、清々しいほどだった。
ほほ笑みかけると、イルーゾォもまた機嫌よさそうに笑顔で返事した。
パスタ用に鍋でお湯を沸かす。もちろん二人分だ。花瓶なんてないのでアネモネは空き瓶に飾った。すこし窮屈そうだが窓辺に置きすてたまま干からびるよりはマシだろう。
今夜はここで夜を明かそう。貰い物のシャンパンも開けてしまって、そうしていくら騒ごうとも、鏡のなかなら誰にも聞こえやしないのだから。
(2019.07.20発行 個人誌イタリアーノ書き下ろし再録)
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