あやしい。スゴクあやしい。
「だ〜から言ってんだろーが。仕事だよ、仕事」
甘い夜だった。喧嘩とセックスのルーティーンに明け暮れていた近頃のわたしたちにしては、めずらしくまともなデートをして、抱きあって眠りについたというのに。その夜、夢と現実の狭間で、気だるげにシャツを着る彼の背中を見た。間違いない。ガチャリと鍵が閉まる音まで聞こえたのだから。
しかしどうだろう、朝になり目覚めると彼はまるで一晩中わたしを抱きしめていたというふうな様子で、額におはようのキスまでして――。
「カッフェの準備、してあるぜ。飲むだろ?」
などと囁くではないか。テーブルには確かに湯気の立つカッフェとビスケット。
「夜中にどこへ行ってたの」
「あ?」
「わたしが寝てる間に抜け出したでしょ」
「起きてたのか」
腕組みをして睨みつけると、プロシュートは盛大なため息をついた。
「…………仕事だ」
「仕事ォ? 夜中にどんな仕事があるってのよ」
「夜中だろうと真っ昼間だろうと呼ばれたら行かなくちゃあならねえ。それがビジネスってもんだ」
「あんた、ベンチャー系IT企業って言ってたわよね? 具体的になにしてるか教えなさいよ、そのビジネス≠ニやら」
「……クライアントの意に反する仕様を削除してきたんだよ」
「真夜中に?」
「そうだ」
「……」
つかの間の沈黙のあと、わたしはついに核心に迫る質問を投げかける。これが野球なら球速170キロのストレートだ。
「浮気してるでしょ」
「はァ!?」
してる、してねえ、してる、し! て! ね! え! しばし続いた攻防は、プロシュートが「勝手にしろ」と吐き捨ててゲームセットだ。この場合、勝ったのはどちらだろう。
バスルームからシャワーの音が聞こえてきたが、それさえも浮気の痕跡を消すための隠蔽工作かと疑ってしまう。
テーブルの上で冷めたカッフェが気まずそうな顔をしていた。
その真横には、雑に置かれたプロシュートの携帯電話。
「……」
普段はこんなことしないのだけれど――胸の内で言い訳を並べてから、電源ボタンを押してみる。が、パスワードに阻まれてしまった。当然か。
プロシュートの誕生日=c…は、違った。安直すぎる。
わたしの誕生日=c…も、違う。まぁ仕方がない。
0000=c…あの用心深い男がそんな迂闊なまねはしないだろう。
思いつくかぎりの数字を入力してみるも[パスワードが違います]と突きかえされるばかりだった。あきらめて携帯電話を置き、ソファに身を沈める。一応ため息なんかついてみたりしたけれど、こうなることは薄々わかっていた。わたしは彼をなにひとつ知らない。
なんの仕事をしているのか、どこに住んでいるのか、休みの日はどのようにすごしているのか。ただの顔見知りからデートを重ね恋人となった今なお、プロシュートという男は謎に包まれている。
そればかりか、出会った当初はそんなミステリアスな雰囲気に惹かれていたのだから、まったくとんでもなく愚かな女だ。自分の間抜けさにあきれ返る。
いっそ二度寝でもしようかと立ちあがった瞬間、正面の壁にかけられたカレンダーが目にとまった。
書きこみのないそこには、唯一ペンで印がつけられている数字がある。ふたりの記念日だ。彼がらしくなく切羽詰まった様子で愛の言葉をくれたあの日。
「……」
どうせ違う、期待するだけ無駄だと、みずからに言い聞かせながら携帯電話を操作する。興奮で指先が震えていた。
もう何十回と見た[パスワードが違います]の文字はあらわれなかった。
切り替わった画面は[不在着信1件]の通知と現在の時刻を表示している。
それ以上は見なかった。見る必要なかった。
携帯電話を置いて走りだす。足がもつれ、バスマットで危うく転びかけたけれど止まらなかった。
「ごめんね、プロシュート」
蹴破る勢いでバスルームの扉を開けて、服も脱がずに飛びこむ。
飛びこんだ先はもちろん、プロシュートの腕のなかだ。
「うおッ! ――てめっ、なにしてんだよ」
「プロシュート、大好き」
裸のプロシュートは前髪が降りていて、いつにもましてかっこいい。パリの街角でこんな男が雨宿りしていたら、たちまちラブストーリーが始まってしまうだろう。
「あー……、わかったわかった」
顔にシャワーが当たるのも気にせず見つめていると、額にやさしいキスがふってきた。まるですべてを見透かしたかのような、許しを湛えた両目がくすぐったい。前髪をかきあげて呆れ顔を作るプロシュートの口元は、よく見ると若干口角が上がっている。
「浮気しても許すから。……一回だけならね」
「だ〜からしてねーっての!」
「もうどっちだっていいよ」
「……女ってわかんねーな」
「プロシュートがそれ言う?」
泡のついたプロシュートの首に腕を回してキスをする。服が水を吸って体が重かったけれど、なにもかも気にならなかった。
あともう少しだけ、馬鹿な女のふりを続けてみるのもいいかもしれない。せめてこの秘密主義者の鍵がわたしであるうちは。
(2019.07.20発行 個人誌イタリアーノ書き下ろし再録)
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