「いいですかナランチャ」
鋭いペンを握ったフーゴが、真剣な表情で問いかける。
「ここに六等分にしたピザがあるとして。きみとぼくが一枚ずつ食べたら、残りは何枚になる?」
「エート……四枚、だケド、そうすっとミスタがキレるから俺が二枚食って三にするかな!」
「ミスタはいないものと考えてください。それじゃ、ブチャラティとアバッキオとぼくときみの四人が三枚ずつピザを食べるには、六等分のピザは何枚必要か……」
「エート…………二枚、かな」
「正解! その調子ですよ」
このように具体的な例え話として出題されれば、指を折りつつどうにか答えられるものの、日課の算数ドリルのほうは相変わらず捗らなかった。単純な数字の羅列だと複雑に考えてしまうのだろうか、とフーゴは首を傾げている。
(あ〜あ、俺もジェラートが食いてぇなァ〜。ピスタチオとチョコが入ったとびきりのヤツをよォ〜)
つい意識が散漫になり、窓の外に目がいく。
だいたいこんな晴れの日に閉じこもって勉強なんかしていたら、なにかしらの病気になってしまうはずだ。物知りのフーゴならばそういう病名も知ってはいないだろうか。
「またボンヤリ窓の外見てましたね?」
「へっ!? いや、ぜ〜んぜん? ピスタチオジェラートが食いてえとか、考えてねーよ」
「……まったく、きみって人は」
「でもよォ〜、あんだけ昼メシ食っちまったあとじゃあ、誰だって眠くなるもんだぜ? せめて気分転換に散歩行くとか、そんくれー許されねぇのォ?」
「そうですね……いや、だったらいっそ、図書館にでも行けばいいんだ。きみの言うとおり散歩がてらさ。もちろん、窓が見えない席を選ぶんですよ」
「…………トショ、カン……?」
「おいおいまさか図書館も知らねぇってわけじゃあないよな? 聞いたこともありませんか? 綴りはb、i、b、l――」
「だァ〜ッ馬鹿にすんじゃあねェ〜ッ! 図書館ぐらい知ってるっつの! ただ場所がわからねえ〜、ってだけさ!」
「なんだ。であれば、ぼくが案内しますよ」
「やったッ! おいジェラート食おうぜ!」
立ちあがった瞬間から、これまでの気だるさが嘘のように身軽になった。そのまま隣のジェラート屋に飛びこんでいく。
たまにはこういうのもいいだろ、と目配せすれば、フーゴはやれやれと首を振りながらも、口元にチョコレートのジェラートをつけていた。
「ここが図書館かァ〜!」
「しぃ。もう少し声を抑えて」
「げっ。そーいうトコぉ?」
「そうですよ。なるだけ物音も控えめに……きみは動作が騒がしいからなぁ」
当初は堅苦しい雰囲気に居心地の悪さを感じたが、いざ勉強を始めてみると視界に余計なものが入らないためか集中できそうだった。なにより冷房が心地いい。あのリストランテは少し暑いのだ。
「フーゴよぉ〜、オメーはいっつもこんなとこ来て本とか読んでんのかぁ?」
「いや、そういうわけじゃ……学生の頃は入り浸ってましたけど」
まぁ、ギャングが図書館に通いつめてるなんて、ちょっとオモシレーもんな。俺はひとり納得した。
「それじゃあ、ぼくは先に戻ります」
「えぇ! 居てくれねーのかよ」
「……ナランチャ、ぼくはきみ専属の家庭教師じゃあないんだ。それにこれからブチャラティに頼まれた仕事がある」
「ちぇえ〜」
「このページまで終わらせてくださいね。あとでちゃんと採点しますから」
「はぁあ!? なに決めてくれちゃってんだァ〜?」
「だから声が大きいんですって」
そんなわけで俺は図書館においてきぼりにされてしまったのだった。
「ちくしょー……フーゴのやつ、勝手に決めやがって……」
なんとか三分の一までこぎつけたが、そこから先はどうにも進まない。問題集とは往々にして、後半になるにつれ意地の悪い問題が増えるのだ。
外に出てサッカーでもしたいところだがぐっと堪え、代わりに消しゴムを転がしながら周囲の人々を眺めた。
指に唾をつけて新聞を読むじいさん。その横に眼鏡のおばさん。絵本を読む子供と母親。それから、女の子。……女の子! それもとびきり可愛いじゃあねえか! どうして今の今まで気づかなかったんだろう。
ペンを置いて彼女の横顔に見入っていたが、我に返り参考書に目を戻す。これでは変態ヤローだ。もっとさりげなく、待ち合わせの相手が遅れていてやむを得ず暇をつぶしている、というふうに。あわよくば彼女がほほ笑みかけてくれることを願って。
そんな期待もむなしく、彼女は俺に気づくどころか一度も顔をあげなかった。本にとり憑かれたようにひたすら文字を追っている。よほど興味深い本なのか、集中力があるのか。その両方かも。
彼女を見習って、俺も算数ドリルに戻ることにした。しかし物事とはそう簡単にうまくいかない。ラブストーリーで愛しあうふたりに様々な困難が立ちはだかるように、俺もまた数字という運命に翻弄され――つまり、居眠りこいてしまっていた。周辺の顔ぶれからして、チョットうとうとしたという度合いを超えている。
――ゲェ、一時間も経ってるじゃあねえか!
急ぎ彼女を探すも、さきほどの席にはすでに別人が腰掛けていた。肩を落とし、深いため息をつく。なんつー間抜けだ! くそ!
「――わたしを探しているならここよ」
「うわぁあ!」
向かいの席、厚みのある本の横から顔をだしたのは、例の女の子だった。驚きのあまり飛びあがってしまい、椅子が倒れる。彼女は俺の騒ぎようを咎める眼差しで「しぃ」と人差し指を唇にあてた。
「わ、わりぃ……」
いつの間に移動したのだろう。それも、俺の目の前の席に。寝顔を見られたか? そんなことより、最初から俺の変態くせぇ視線に気づいていたのか。ひょっとして彼女も俺に興味があったり――にしては不機嫌そうな顔つきだ。いや、不機嫌なふりをしているだけかもしれない。さきほどから同じページのまま、視線もどこかぎこちなくさまよっている。やはりここは男の俺からなにか行動を――。
「そこ、間違ってるわ。四則演算の順序を忘れちゃったの?」
「は?」
「だから、まず先に掛け算のほうを――」
どうやら関心は俺より俺の手元の算数ドリルにあったようだ。
そうして彼女は読書のかたわら勉強を教えてくれた。フーゴに劣らぬ厳しさとわかりやすさで。
聡明な佇まいと同様に、実際彼女はとても頭が良かった。なにを質問してもすらすらと答えてくれる。よく見ると彼女の持っている本のタイトルも外国語だ。俺にはその言語がどの国で使われるものなのかも予想がつかない。
「あなたみたいな人って初めて」
「へへっ、そうかぁ〜?」
「つまり……わたしと同世代の子が、小学生用の算数ドリルに苦戦することについて、なのだけれど」
褒められてはいないらしいが、まぁいいか。フーゴなしで算数がここまで捗ったのは初めてだ。
「よっしゃ〜終わったぜぇッ!」
「おつかれさま」
「グラッツェ! きみのおかげだよ!」
このお礼にジェラートをおごるよ、近くにうまい店があるんだ――いや、ジェラートならさっき食べたし、それに女子は体型に配慮して、味よりも無糖とか低脂肪をうたったもののほうがよろこぶかもしれない。あるいは華やかな見た目のドルチェだとか――となればいっしょに写真を撮る口実になるかな。
そんなふうに、俺があれこれ考えているうちに、彼女は荷物をまとめ始めた。
「帰っちまうのかァ……?」
「そうよ」
なんてこった。ここでさよならなんて、俺はいやだ。また会いたい。できれば明日、すぐにでも。ねぇ、きみの名前は? 連絡先を教えてよ。家はどこ。学校に通っているの。何年生かな。
こんな静かな場所でなければ質問攻めにしていただろう。
「なにか言いたいことがあるなら早くして。門限があるの」
そうして彼女は腕時計を指先で叩く。
――あぁ、クソっ! なるようになれだ!
「きみをデートに誘いたいんだッ! もし、よければ、だけど…………門限っていつだい?」
腹を括って吐きだした言葉はあまりに幼稚で、いかにも「今日初めて女の子に声をかけました」という感じだった(街で声をかけたことくらいあるのに!)。
ブチャラティであれば、もっとスマートに女の子を誘うんだろう。フーゴだってその手の会話が得意そうだ。そんなことを考えるうちに惨めさが募っていく。
「……ほんとうは門限なんてないの」
おそるおそる顔をあげると、彼女がいたずらっぽいほほ笑みを浮かべていた。笑うとさらに可愛い。まるできみは天使だ!
「算数といっしょにデートの誘いかたも教わったらどう? あと少しで帰るところだったわよ」
「なあっ……ッ!」
「しっ。静かに」
人差し指を立てる、その仕草も愛らしい。
「早く行きましょう。日が暮れちゃうわ」
あぁ、あともう少し、頼むから一秒でも長く、今日という日が続けばいいのにと俺はらしくなく神様に祈るのだった。
(2019.07.20発行 個人誌イタリアーノ書き下ろし再録)
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