「ロマンティック・コメディ」の後日談

※違法マイクの副作用で他者の思考が読めるようになってしまった白膠木簓という設定です。














     1


 まったくもって、最近の俺といえば、とんでもないあかんたれなのだ。

 今日も今日とて目覚めとともに飛び起きると、顔を洗うより先に彼女の姿を探すべく我が家を徘徊する。リビングを抜けキッチンをのぞき、バスルームへ向かう。

 洗面台の鏡の前に立っていた彼女は、すでにメイクを済ませており、ピアスをつけるのに手こずっているようだった。


「おはよ〜」


 背後から抱きつけば、鏡に映った彼女の顔が怪訝に歪んだ。


「あっ、もう、簓さん……」


 急いでるんですから、ふざけないでください。そう言いたげな様子で、にべもなくあしらわれる。こういった淡白な反応を心地いいと思うと同時に、ここのところは不安も覚えてしまう。――もし、本心からうっとうしく思っとったら? 最近の簓さんって退屈だし、前ほど好きでもないんだよねぇ。なんて友達に愚痴っとったら。ほんまに、どないしよかね。


「かしてみぃ。俺がやったるよ」


 彼女の首筋からは、つけたての香水の香りがした。この香りを、ほかの誰にも知られたくなかった。叶うなら独り占めしてしまいたい。ボトルシップのように彼女の存在をそっくりそのまま瓶の中に閉じこめて、すべてを俺だけのものにできたなら。そんなふうに歪な欲求にかられて、彼女の首に鼻をすりつける。この匂いはぜんぶ俺が吸いこんだるからな、というつもりで。

 彼女に依存しすぎていると、その度を越した執着心に気づいたのは、一人寝の夜に違和感を抱き始めてからだった。隣に彼女はいないのに、つい、ベッドの片側に不自然なスペースをあけてしまう。目が覚めて真っ先に彼女の姿を探してしまう。

 問題は、おそらく彼女にこのような習慣はなく、自分だけが起床とともに取り乱してしまうという点にあった。彼女も俺と同じ状況であれば、いくらか気持ちに余裕ができるし、解決策もそれなりにあるはずだ。


「……はい、ついたで」

「ありがとうございます」

「にしても、今日もほんっまかわええなぁ。えらいおしゃれしてどこ行くん?」

「どこって、仕事ですけど」

「まだ八時やで? 撮影、昼からとちゃうん?」


 白い目で見るとはまさにこのことだ。彼女の冷ややかな眼差しに気圧されながら俺も負けじと腕の力を強める。


「タクシー呼んだるよ。……な?」

「な、じゃないです。可愛い顔で甘えてもダメですよ」

「おん? 俺可愛かった? どれどれ……」


 鏡をのぞくと、眉間にしわを寄せた彼女が映っていた。

 彼女が本気で不機嫌なのかあるいは不機嫌なふりをしているだけなのか、俺にはわからない。こんなときは、彼女の心が読めたなら、などとくだらないことを考えてしまう。

 これでも芸能界という魑魅魍魎がはびこる世界を渡り歩いてきたのだ、人付き合いの手腕にはそれなりの自負があった。べしゃりの天才、無形の文化財候補、オオサカの生きる伝説――そこまで言われてへんかった? まぁええやろ――その白膠木簓が、ただ一人の女に振り回され一喜一憂しているなんて、誰かに打ち明けたところで信じてはもらえないかもしれない。


「簓さん、そろそろ放してください。怒りますよ」

「い、いやや! 放さん! せやけど、怒られんのもいやや!」

「もう……」


 痺れを切らした彼女が、俺の腕の中から抜け出していってしまう。


「あっ! 待ってぇ! 傘っ! 傘持ってきぃ! 今週は雨続きやでぇ〜ッ!」

「雨が降るのは明日からですよ」


 なりふり構わず彼女の足にすがりついて鼻を押しつけると、彼女は一変して慈悲深い笑みを浮かべ、俺の頭を撫でた。生まれたての子猫にしてやるように、やさしくやさしく、俺の寝癖頭を撫でつけていく。

 心地よさのあまり、手をゆるめてしまうと、彼女はその隙を狙ったかのように玄関に駆けこんでいった。


「行ってきま〜す」

「あ〜!」


 バタンとドアが閉められ、部屋には俺と静寂だけが取り残された。

 溜め息をついてソファに寝転ぶ。
 そうしてスマホに保存した写真を眺めていると寂しさは余計に募っていった。

 一月三十日、まだ付き合いたての時期に行った、海外のビーチリゾートの写真。二人揃って季節外れの日焼けをしたせいで、散々からかわれてしまったが、今ではそれも含めていい思い出だ。盧笙も交えて三人で花見をした四月十日。初対面の二人のぎこちないやり取りが新鮮だった。どれもこれも、たった数ヶ月前の出来事なのに、すべてが遠い記憶のように思われる。


 出会った頃は見習いだった彼女も、独り立ちをし、今では立派なヘアメイクアーティストとして活躍している。近頃は仕事にやりがいを見いだして、充実した日々を送っているようだ。それ自体は俺にとっても喜ばしいことだが、置いていかれたような寂しさを感じるのも、また事実だった。


 それに、最近はどうにも俺ばかりが彼女との時間を取りたがっている気がする。付き合い始めに感じた、あの抑えがたい感情の燃えあがりが、彼女の中から消えてしまい、俺だけが今も制御不能な情動を持て余しているような。そんな気がしてならなかった。

 なによりも、今日は特別だった。特別な日。記念日、ともいう。
 今日というたった一日の休日のために、ずいぶん前からマネージャーに頼みこみスケジュール調整していた。とあるバラエティ番組に出演することを引き換えに得た休日だ。その番組とは、社交ダンスの大会に出場し優勝を目指すというバラエティならではの無謀な企画で、練習時間も長く、わりにあわない仕事だが、俺にとってはそうするだけの価値があった。


 彼女は知る由もないだろうが、一年前の今日、俺たちは出会ったのだ。

 出会った、という表現は語弊があるかもしれない。俺が一方的に、彼女の存在に気づいた、というべきか。


 テレビ局のエレベーターだった。

 閉まりかけたドアの隙間に体を滑りこませると、そこに彼女がいた。両手に大荷物を抱え一人で立っている。その様子からしてADかスタイリストか。どちらにせよ裏方には違いないが、それにしては独特の落ち着きとオーラがあり目を惹いた。

 しばらくの間、いや、実際の時間にすると数秒だったろう。俺は彼女を見つめていた。


「……何階ですか?」


 その声に、はたと我に返った。
 しかし次の瞬間には、あぁ声もええな、とふたたび惚けていた。


「五階頼んますぅ。――いや、自分で押すわ」

「すみません」

「にしても、えらい大荷物やなぁ。半分持つで?」

「あ、結構です」


 あ、結構です。その声の、冷たさといったら。

 当時、飛ぶ鳥を落とす勢いでメディアに出ずっぱりだった俺は、少々うぬぼれていたのかもしれない。彼女の反応に面食らってしまって、すごすご引き下がると、なにも言わずに五階で降りた。


 だから、別の現場の打ち上げで彼女を見かけたとき、内心では胸が躍っていた。今度こそ、このチャンスを逃すものかと奮いたっていた。

 そうして俺は、さりげなく彼女のいるテーブルに座り、折を見て二人で抜け出して、どうにか連絡先を交換するまでこぎつけたのだ。
 まずは彼女の人となりが知りたかった。知ってからもなお、強く惹かれた。


 そんなわけで、俺にとっては特別な日でも、彼女にとって今日という日は、一年のうちの、まぁなんてことのないただの水曜日なわけで。彼女が「どうしても休めない撮影がある」と言い仕事を優先してしまうのも、当然なわけで。拝啓、盧笙。今日も空が綺麗です。



「……せや! 盧笙誘ったろ!」


 そう思い立ち、電話をかけてみる。
 盧笙とは近々会おうと話していたところだし、ちょうどいいだろう。


『もしもし……』

「ろしょ〜、今日暇ぁ?」

『暇なわけないやろ! ……もう学校や』

「そのわりにすぐ出たやん」

『あ〜なんやねんお前。今日は記念日やから彼女と過ごす言うて、楽しみにしとったやろ』

「それが、かくかくしかじかやねん」


 盧笙の仕事が終わり次第、俺たちは会うことになった。
 少し二度寝するつもりが、気づけば夜になり、すでに約束の時間が迫っていた。





「……そら彼女にも都合ってもんがあるからなぁ。しゃーないやろ」

「〜そんっっなんわかってんねん! わかってるから、こうしてお前にめそめそ愚痴っとるんやろ!」


 繁華街を歩きながら今朝のやり取りについて話すも、盧笙の反応は冷たかった。

 せめて今日が記念日だと伝えていれば、彼女も休みをとったかもしれないという盧笙の意見はもっともであるし(サプライズしたかったんや!)逆の立場であれば俺も同じ助言をしていただろう。彼女のこととなると、俺はどうにも冷静な判断ができないらしい。


「しっかし、お前がそこまでのめりこむとはなぁ。昔は逆やったやろ。女の方がおかしなって、よう困っとったやん」

「……そりゃずいぶん昔のことやろ。もう忘れてしもたわ」


 盧笙に指摘されるまで気づかなかった。たしかに俺は、追われることはあっても追う側になるのは初めてだった。


「つーか、今どこに向かっとるんや? なんやここ……えらい治安悪そうやな」

「まずはラップバトルの練習や。そんあと、どっかで飯食うて……ってかお前、マイク持ってきとるよな?」

「あぁ。……いや、持ってきとらんよ」

「なんっ? やてぇ!」

「せやかて、今日は学校やったし……授業にマイクは必要ないやろ」

「わからんやろ! どこでどんな輩にバトルしかけられるか!」

「んなポケモンみたいなことあるかぁ?」

「アホぉ! 俺たちが今向かっとるんはな、野良バトルのメッカやで! 今お前はモンスターボール一個も持たんと草むら入っとる状態や!」

「はぁ? …………そ、そらあかんな? どないしよ、簓〜」


 この辺りは違法マイクを所持した輩がうろついている地域であり、もちろん安全は保証されないが、実践にはもってこいの状況である、などと早口で説明していたところ、いかにもな連中が近寄ってきて、早速マイクを振りかざした。


「――白膠木ぇ! どついたれ本舗の白膠木やろ!」

「ほら見ぃ! こういうことやで!」

「そない都合よくバトル始まるか? おかしやん、絶対!」

「とにかく勝負や! 盧笙、お前はそこで見とったらええわ!」

「お、おう……やったれ簓ァ!」


 威勢よくわめいていた男たちが、路上に倒れ、うめき声をあげている。俺は息を整えながらスーツの襟を正した。

 ひとりひとりは取るに足らない雑魚だったが、途中、彼女のことが頭をよぎったせいで集中が乱れ、思いのほか手こずってしまった。


「どや」

「おう…………いや、ドヤ顔しとるけど、結構攻撃くらっとるやん」

「これはあえてや。バトルっちゅ〜んは、なにも攻めるばっかりやない。攻撃を受けることも、重要なスキルのひとつやねん」


(なるほどな……せやけどやっぱ、簓はすごいわ。多人数相手にも一切ひるまん。ひるまんどころか、けちらしてしもたからな。きっと俺にはでけへん……)


「いやいや! 弱気になるなや!」

「あ? なにがや」

「今なんか言うたやろ。俺にはでけへん……って!」

「いや、言うてへんけど」

「言ったぁ! 絶対絶対言ったでぇ!」

「簓、お前……」


(ついにおかしなってしもたか……だぁから仕事しすぎやぁって言っとったのに、こんボケが……)


「誰がボケや!」

「あ?」


 さきほどから、なにかがおかしい。

 盧笙の唇は動いていないにも関わらず、声だけが聞こえてくる。というよりも、盧笙の思考が直接頭の中に流れこんでくる。

 異変に気づいた俺たちは、ひとまず場所を移すことにした。


「腹減ったし、とりあえずそこのファミレス行かん?」



       *


「つまり、今お前には俺の思考が筒抜けっちゅ〜ことか」

「せや!」


 さすがは元相方、話が早い。
 そう安心するも、ふたたび盧笙の思考が流れこんできた。


(……いや。これはあれや、ドッキリ、っちゅ〜やつかもしれんな。一応、今の俺は一般人やけど、元芸人の、それも簓の元相方なわけやし……)


「いやドッキリとちゃうで」

「そ、そうか。ほんなら俺の心読んでみぃ」

「おん」


(先週の木曜に、簓の彼女と会うたんや。駅のホームで――)


「木曜なら、こんくらいの長さのワンピース着とったやろ。肩出ししとって」


(……ま、まだわからへん。ほなクイズ出すで。俺の勤めとる高校の名前は――)


「オオサカ私立暁進高校や!」

「簓、お前……」

「せやから、ほんまや〜って言っとるやん!」

「おまたせしました、クリームソーダとコーヒーです」

「おおきに!」


(うわ、ぬるさらや! あとでこっそり写真撮ったろ!)


「写真、インスタにのせるんやったら俺ら帰ってからにしてなぁ」

「……は?」

「おい簓、やめえ」


 零ならなにか知っているかもしれない。そう思い電話で相談するも、相手は大したやつではなさそうだしまぁそのうち違法マイクによる副作用も消えるだろう、と適当なことを言って笑いやがった。

 そればかりか「そんな便利な能力であれば俺に移してくれ」と、冗談とも本気ともつかない詐欺師らしい放言をするので、俺も芸人らしく「もうええわ」と早々に話を切り上げて終話させた。

 ――にしても、どないしたもんかなぁ。こりゃまた難儀なことになってしもたわ。






     2


 結局、一夜明けても違法マイクの副作用は消えなかった。

 盧笙との検証の結果「相手と目を合わせる」という条件下で作動することがわかった。目を合わせなければ至近距離でも思考は流れこまないし、たとえ見つめあっていても、一定以上離れると機能しない。極端な話、目をつむってしまえば、相手の思考は流れこまないということだ。聞くに堪えないゲス野郎の心の声は、文字通り目をそらしてシャットアウトしてしまえばいい。

 それに、この副作用はなにもデメリットばかりではない。むしろ、零の言ったとおり上手く使いこなせさえすれば強力な武器になるだろう。さきほどは収録中にMCの意図が筒抜けで、いつにもまして盛りあがったくらいだ。


 ――この能力、あのおっさんの手に渡っとったら、世界の均衡が崩れてしまうとこやったな。


 そのように思考を巡らせていると、楽屋の扉がノックされ、見知った顔が入ってきた。同じ所属事務所の芸人だった。


「白膠木さん! おつかれさまです!」

「お〜おつかれ〜」

「やぁ〜、さっきの収録もほんまよかったですぅ。勉強になりました」


(白膠木ぇ〜お前とは一年しか年変わらんのやからなァ。あんま先輩ヅラすなよ)


 ――してへんわ! お前が勝手にぺこぺこしよるだけやろ!


 周囲からの羨望と嫉妬は、かねがね痛いほどに感じていたが、こうして具体的な声として聞かされるとやはりいい気分はしない。生意気な思考は伝わってくるのに言われっぱなしで言い返せないのがもどかしかった。


(売れたくせにオオサカ居座りおって……目障りやわ。そういやあのMCがやっとる番組にも出るんやってなぁ。芸人が社交ダンスて、なんやねんほんま。ムカつくほど器用なやっちゃ)


 ――ま〜たしかに器用やけども。


(いつか、こいつの鼻を明かしてやりたいわ。白膠木の彼女、俺のタイプやし、今度スキ見て口説いたろ)


 前々から信用できない男だとは思っていたが、ここまで腹黒いやつだったとは。


(白膠木の彼女ってヘアメイクやったよな。せやったら楽屋で二人きりになることも多いし、どうにかしてやりたいなぁ)


「……なんやてっ?」

「は?」

「いやぁ、なんでもない。…………あ、そいや噂聞いたんやけど。きみぃ、先月も飲み会で泥酔したんやってなぁ」

「そうなんですよ、もう記憶もないくらいで」

「俺ん彼女、どえらいタイプや〜って言っとったらしいやん。それ、ほんまなん?口説いたろ〜って」

「え……言うたかなぁ。ど、どうやろ……」

「あんまちょっかい出さんといてなぁ? 俺も結構嫉妬深い男やから、彼女に近づく野郎は、穴掘ってポーン落としてまいたくなるんよ」

「あ、ははは……」


 ――ここまで言うてわからんアホとちゃうよな?


 広げた扇子で口元を覆う。


(穴掘ってポーン……? そういや白膠木、朝までポーン≠フ審査員やったな。あの、一発芸やって、不合格なると真下に落とされるセットの……つまり、こいつ俺をおどしとるんか!)


 思考の流れとともに、表情が険しくなっていくのが滑稽だった。


 ――こいつ、どない言い訳すんやろ。楽しみやな。せっかくやし待ったるわ。


 そう思いかけたところで、楽屋のドアがノックされた。


「白膠木さん、リハ始まります」

「……おう。すぐ行くわ」


(白膠木簓や! ついに話してもた! コンビ組んどった頃から好きやったんよ。高校受験のとき、どついたれ本舗の深夜ラジオに助けられたんよなぁ。しーんとした部屋で孤独にペン走らせとると、ごっつ気ぃめいるんやけど、白膠木と躑躅森のアホな掛けあい聞いとるうちに、なんや笑ろてしもてな)


 新人のADだろうか。その表情は微動だにせず、無愛想なほど真顔を装っているが、彼の思考からは熱い思いがひしひしと伝わってくる。


(ほんまうれしいなぁ。この仕事、大変やけど続けてきてよかったわ!)


 ――そいや俺も、昔しんどかったときは、よう漫才に元気もろたなぁ。


 副作用に振り回されて、大切なことを忘れかけていた。

 たしかにこの業界には、他人を蹴落としてでものし上がっていくような野心の強いやつが多い。表向きは俺を慕う後輩たちも、陰ではどうにかして俺を利用できないかと画策したり、あるいは雌伏して失脚のときを待っていたりする。芸能界とは得てしてそういうものだ。

 けれど、そればかりではない。彼のように俺の活躍を見守り、応援してくれる人だって身近にいる。その事実を知れただけで、救われた思いだった。

 かつて自分が憧れたあの漫才師に、一歩近づけたような気さえする。


「……ありがとうな」

「えっ? あ、はい……?」


 ADの肩をぽんと叩き、楽屋を出た。





 俺の中には迷いが生じ始めていた。

 この力を保持したまま、彼女と会ってしまっていいだろうか。そのためらいが足取りを重くさせる。

 彼女と一切目を合わせずに会話することは難しいだろうし、こうなるに至った経緯を説明したところで、ただでさえ騙されやすい盧笙のように、すんなりと理解が得られるとは思えない。


 ただし、これだけははっきりしていた。どんな理由があるにせよ、副作用の件を隠して彼女と見つめあうのは不誠実だ。間違いなく、裏切り行為だ。

 とはいえ、さきほどのように心の声が聞こえたからこそ未然に防げたトラブルもあるし、なにも悪いことばかりではないはず――いや、そりゃ言い訳やな。簓、お前の正直な思いはこれや。「彼女の気持ちが知りたい」っちゅー欲望が先にたっとんねん! あかんでほんま!

 一方で、俺の中の悪魔がささやく――せやけどまぁ、使えるもんは使わんとな。この際、手段は選んでられへんのや。彼女がなに考えとるか、気になるやろ。


 そのようにして、白黒の羽を舞わせながら廊下を歩いていると、正面から彼女の姿が見えた。この距離でも俺には一目で彼女だとわかる。

 話しかけようか、このまま気づかなかったふりをしようか。逡巡しているうちに彼女の方が俺に気づき、こちらに駆けよってきた。


「白膠木さん、おつかれさまです」


(うわぁ、うれしいな。今日は簓さんに会えない日かと思ってた)


 ――俺に会えてうれしいって、それ、ほんまぁ?


 俺と同様に、彼女もまた自分を必要としてくれている。その事実を再確認できただけで、もう、天にも昇る心地だった。

 あまりの喜びに頭の中で祭りが始まった。オオサカの街々を巡る神輿。法被を着た子供たちが橋の上を駆けていく。クライマックスの打ち上げ花火では、彼女の名前が夜空に浮かび、どこからともなく「好きやー」という掛け声があがった。


「――さん、白膠木さん? どうしました?」


 彼女の声に引き戻された。たちまち、祭り囃子が遠ざかっていく。


(髪、誰にセットしてもらったんだろう。すごく上手)


 ――ふっふっふっ。さすがの審美眼やな。今日のヘアメイクはきみの先輩やで。


「なぁ、今夜俺んち来ぉへん?」

「今夜は予定があるんです。先輩と、スタイリストさんたちと」

「へぇ〜。で、何時から?」

「九時、ですけど……」


(残念だけど、簓さんは誘えないんだよなぁ……)


「なっ! なんでなん? 女子会やから?」

「え? ……まぁ、女子会といえば女子会ですけど……?」


 思わず彼女の思考に反応してしまった。――あかん。あかんで簓!


「な、なんで九時なん? 今日は早めにあがれる日やろ」

「全員が揃う時間に合わせただけですけど……どうかしたんですか?」

「あ〜いや……それ、俺も行ってええかなぁて」

「ダメですよ。ほら、女子会ですから」

「ガぁ――――ン」


(ほんとは別の理由があるんだけど、簓さんには内緒にしないと……)


「……せ、せやったら、二時間……いや一時間でえぇから! 付き合って〜やぁ。少し時間あくんやろ? なぁ〜」


 彼女の正面に回って、行く手を塞ぐ。どことなく懐かしいやり取りだ。


「ちょっと……ぬ、る、で、さん?」


(どうしたんだろう。今日の簓さん、なんだか強引……)


「なぁ……女子会の前に白膠木会せん? ふたりっきりで……」

「ヌルデカイ? なんですかそれ」

「おたく、白膠木会知らんの? はぁ〜、今どきめずらしぃなぁ」


(うわ、簓さんのうざ絡み始まっちゃった)


「白膠木会っちゅ〜んはな、ええとこのホテルで、ええとこのシャンパンあけて、一緒に泡風呂入んねん」

「うわ。それって……」


 彼女の眉根がぐっと寄った。誘い方が露骨すぎたろうか。


(今日の下着、着心地はいいけどちょっと地味なんだよなぁ)


「えや〜ん! 俺そういうのもめっちゃ好っきゃで!」


 また心の声に反応してしまった。
 彼女が怪訝そうな面持ちで俺の顔をのぞきこんでくる。


「そういうのって、どういうのですか」

「いやほら、アレやアレ。……あの〜」


 下手な言い訳を口走りかけたところで、先輩芸人が近づいてくるのが見えた。

 彼女との間に邪魔が入るのは癪だが、今この瞬間に限っては特別に許してやりたくなるタイミングのよさだ。


「――おい白膠木ぇ、な〜に廊下でいちゃついとんねん。リハ始まんで」

「兄さん兄さん! これ、社交ダンスの練習でっせ!」

「はぁ?」

「ほらぁ、来月兄さんとこの番組の企画で、社交ダンスの大会に出場しますやん」

「あぁ〜そんなんあったなぁ」


 ――そんなんあったなぁ、て。えらい他人事やな。あんたの番組やろ。

 彼女の手を握り、もう片方の手は肩甲骨のあたりに添わせた。
 このまますぐにでも踊りだせる構えをし、ふざけた調子で笑っていると、ほんとうに踊りたくなってきた。


「ほないくでぇ。……わん、つ、すりー、わん、つ、すりーっ」

「うわっ! ちょっと、簓さん!」


 試しにステップを踏んでみると、彼女は戸惑いながらもしっかりと俺の動きについてきた。かなり筋がいい。


「兄さん! どうです? これなら予選通過間違いなしとちゃいます?」

「はぁ〜あほらし。付き合ってられんわ」


 そう言うと、彼は盛大な溜め息を残して立ち去っていった。

 番組企画内でのパートナーはダンス講師なので、技術的な面においては到底敵わないが、この高揚感は彼女と一緒でないと得られないという確信があった。テレビ局の薄く埃がかった廊下ですら、この瞬間だけは輝かしいボールルームに見える。今にもワルツの旋律が鳴りだしそうだ。


「なぁ、俺らコンビ組まへん?」

「もう、なに言って――あっ」


 ときどき、彼女が俺の足につまずく。前のめりになった体を支え、状態を立て直すと、ふたたび踊り始める。困惑しつつも俺の動きに合わせようとする彼女の健気さに頬がゆるむ。楽しい。とにかく愉快だった。


「あはは! えーやんこれ! きみと一緒やったら、なんでもおもろいわぁ!」


 目が合うと、彼女の思考が流れこんできた。
 今日会った人の中で一番に、やさしく純粋な思考だった。

 俺も、きみと同じ気持ちやで。いっそのことそう伝えてしまおうかな。






     3


 夜のオオサカが見渡せる大窓の前で、俺は逸る気持ちを抑えきれずに、立ちあがったり座ったり、さきほど開けたシャンパンを飲んでみたりと、ホテルの部屋をせわしなく動きまわっていた。

 普段であれば強引に誘うことはしないけれど、今夜は彼女の心の声に後押しされ、ここに来るまでに至った。
 彼女いわく、着心地重視で見た目は地味だというその下着を一目拝みたかったが「簓さんはあとから入って来てください」と締めだされ、もう十分が経つ。十分。まだ十分だ。腕時計に視線を落とすも、秒針の動きは鈍く、いじらしい進みで俺をおちょくっている。いち、に、さん、し――あかん、もう限界や!

 そろそろいいだろうと服を脱ぎ、バスルームに入っていく。薄暗いが彼女の表情を見てとれる程度の明るさはある。


「ハイどうもぉ〜白膠木簓ですぅ〜。とりあえず今日のところはキスだけでもして帰ったってくださいね〜」


 漫才の冒頭のような調子で風呂に入っていくと、彼女は気まずそうに目を伏せ、顎の先まですっぽりと泡に隠れてしまった。

 そこへ無遠慮に近づくのが俺という男だ。勢いよく動いたせいで、ざぶんと泡が流れ落ちていった。


(あっ……泡がないと体が見えちゃう)


「まぁまぁ、えやんえやん! 俺たちの仲やんけぇ!」


 そう言って笑いながら肩を抱くと、

(またおじさんみたいなこと言ってる……)

 という思考が流れこんできた。
 またというからには、過去に別の発言を「おじさんみたい」と思ったのだろう。


 ――まぁええか。今はそんなこと、どうだって。


 正面から近づいて、引き下がる彼女をじりじりと端まで追いつめる。そうして風呂のふちに両手をつき、腕の中に閉じこめた。


(簓さん、キスして)


「かっ……かわええ!」


 思わず叫んでしまった。

 ぽかんと開いた口に舌を入れ、口内をめちゃくちゃに荒らした。こんな乱暴で余裕のないキスは俺のポリシーに反するが、抑えがきかなかった。


「ぅんっ……っ、ふ……っ」


 彼女の腰に手を滑らせ、胸をやさしく包みこむ。いつもとは違う興奮にかられて手加減するのが難しかった。


(どうしたのかな。今日の簓さん、いつもと違う……)


「すまん、痛かった?」

「いたく、ない、です……」


(痛くないけど。なんだか、別の男の人みたいで。すごくどきどきする……)

 ――別の男、やって? 誰やそれ。


「っ……ふ、うぁ……簓、さん」

「ん〜? 簓さんやで〜?」


 今日の簓さんはいつもとちゃうけど、別の男やなくて簓さんやで。そんな思いをこめて口づける。


(あっ……。そこ、きもちい)


 思考をのぞき見るまでもなく、彼女の弱いところはわかっている。わかっているものの、ありのままの本心がダイレクトに伝わってくるのはまた違う感覚だった。声にして伝えられるのとも違う。頭を揺さぶるような痺れ。


(もっと、さわって……)


 無断で頭の中をのぞくなんて、彼女の尊厳を踏みにじる行為だし、どんな事情にしろ褒められたものではないけれど、正直、ぐっときてしまう。あまり感情を表に出さない彼女だからこそ、なおさらに新鮮だった。

 頬、耳、首筋、鎖骨にかけて、順繰りに口づけていく。太ももに指を這わせると肩がわかりやすく反応した。
 ゆっくりと、人差し指を差し入れる。中で曲げ伸ばしさせながら中指も沈める。指の腹でなぞるように押し上げてやれば、彼女の息遣いが徐々に荒くなった。
 熱い吐息が肩に感じられ、気が遠のきそうだった。


 ――まだや、落ち着くんや簓。


 興奮を悟られぬよう、あえて一呼吸置く。


「っ……はぁ……」


 唇を離して見つめあうと、彼女の思考が流れこんできた。


(簓さん早く。早く入れて。お願い、じらさないで。廊下で会ったときからずっと簓さんとすることしか頭になかったの)


「っ〜、俺もやで!」

「え?」


 とめられなかった。もう、やさしく前戯を続けられるほどの余裕はない。格好悪いが一刻も早く繋がりたかった。繋がって、揺さぶって、とけあって。そうして最後には、俺たちは大丈夫だと安心したかった。


「あっ、ぅっ……はっ、あぁっ!」


 思いきり突き立てて、体を揺さぶった。先端で腹の奥を押し上げる。彼女の鼓動を感じるほど奥深くまで。
 抜けてしまう寸前まで腰を引き、ふたたび叩きつける。入り口がひくついていた。痙攣するそこを親指で撫でるとお湯とは違うねっとりした温もりが溢れ出す。

 彼女を立たせて、壁に手をつかせると、今度は背後から突きあげていく。お湯が波打ち、水音と肌がぶつかりあう音が響いていた。

 覆いかぶさるようにして抱きしめて、彼女の首の後ろに吸いつく。胸を揉み、耳たぶを甘噛みする。


「ひゃっ、あっ、うっ……ぁんっ」

「うっ……わ、まじであかんわ、これ、……出てまう」


 彼女のすべてを手中に収めるつもりで抱いているのに、いざ始まってしまうと、支配されているのは俺の方だと気づかされる。とにかく気持ちがよかった。朝までこの状態でいたいと思うほど、気持ちがいい。なにも考えられない。

 気づくと、がむしゃらに腰を振っていた。


「っ〜、くっ、……うっ…………」


 まだ続けたいのに、堪えられなかった。

 尻を持ち上げて押さえつける。そうして込みあげてきた疼きを、一滴残らず吐き出した。

 さっきまで俺の一部だったものが、今は彼女の腹の中で泳いでいる。不思議な感慨があった。そのまま体内の、奥深くまで浸透していき、彼女の心の底まで届けばいい。

 そんな祈りをこめて、しばらくの間繋がっていた。








     4



「あ〜! もうこんな時間!」


 バスルームからベッドに移動して、二人でまどろんでいると、スマホで時刻を見たらしい彼女が突然叫びだした。飛び起きて、慌ただしく身支度をし始める。


「……なぁ、ほんまに俺も行ったらあかんの?」

「そうですねぇ。まぁ、絶対にダメってわけじゃないですけど……」


(簓さんが来てくれたら、みんな喜びそうだけど。でも、あの相談は、簓さんの前だとできないからなぁ)


 あの相談、とはなんだろう。

 俺が盧笙に泣き言をもらすように、彼女も女同士で話したいことのひとつやふたつあるに違いないが、しかしどうにも気になってしまう。


「……で、その女子会とやら、どこでやりますん?」

「簓さんには教えませ〜ん」

「なんでや! 送ったるよ!」

「タクシー呼びますから結構です」

「つれないなぁ〜」


(そういえば、前に簓さんと一緒に行った、心斎橋のお店なんだよね……)


 ――あの、どえらい大げさなアクアリウムのある店か!


 妙に薄暗い店内で、女子会向けというよりは、スケベな男が選ぶような店だった気がする。まぁ、そのスケベな男とは俺なのだが。
 あの店内の様子であれば、よほどのことがない限り紛れこんでも気づかれないだろう。――いやあかん! あかんで簓! 
 よこしまな考えがつきまとい、何度振りはらっても離れなかった。





       *



「「かんぱ〜い」」


 彼女の言ったとおり、それはたしかに女子会だった。

 四人中四人が女性でもれなく全員見知った顔だ。彼女の先輩に、スタイリスト、もう一人は最近話題のインフルエンサーとやらだったか。

 四人がいるのは店の中央のテーブル席で、俺が座っているカウンター席とは大きな水槽で隔てられている。彼女の表情まで見えないが、盛りあがっている様子は伝わってきた。


「ほんでな、そいつおもろいねん。しどろもどろなって、シャツも裏返しでな」

「あははは」


 俺と二人で過ごしているときも、決して退屈そうなわけではないが、さきほどの彼女とはまるで別人に見える。なんというか、肩の力が抜けて自然体だった。彼女が楽しんでいるならそれに越したことはないが、いやに心がざわついてしまう。


「ん……? あんた、なんや頭からえぇ匂いするな」

「そうですか?」

「……ははぁ〜ん。白膠木くんやな。ホテル行ったやろ?」

「先輩、声が大きいです」

「この子ら、付き合ってもう半年なるっちゅーのに、いつまで経ってもべたべたしとるんよ」

「えぇなぁ。白膠木くん、一緒におったらおもろいやろ」

「それが……テレビ越しとはだいぶ雰囲気違いますよ」

「そうなん?」


 しばらくの間、俺は固唾を呑んで会話に聞き入っていたが、「簓さんのオヤジギャグがさむい」という話題くらいで、とくに不審な点はなかった。彼女にとって俺に聞かれたくない相談とは、その程度だったのだろうか。
 てっきり俺に言えないような、なにか深刻な悩みでもあるのかと心配していたが考えすぎだったらしい。


 ――まぁ、それならそれでえぇんやけど。せやけど、はなっから彼女を信じるべきやったなぁ。


 今さらながら後悔にさいなまれた。一刻も早く店を出ようと、グラスを空にした瞬間。喉の奥が熱く焼かれたのと同時に、乱暴に肩を叩かれた。


「あっれぇ? 白膠木やん」


 ――あかん。

 同じ所属事務所の芸人だった。すでに出来上がっているようで、青白い照明でもわかるほどに顔が赤い。まだ日も越えないうちから、正体をなくしかけている。

 厄介な人に厄介な状況で見つかってしまった。この人は空気が読めないうえに、声のボリュームつまみが故障したまま放置されていることで有名だ。


「やっぱそやーん! 白膠木白膠木白膠木ぇ! 白膠木やろぉ! お前なにしとるん? まさか一人とちゃうよなぁ?」

「に、兄ぃさん……どないしたん。ちょっと声張りすぎやでぇ。奥の席で飲み直しましょや……」


 ――やめろ、やめてくれ。頼む、振り向かんでくれ。ガールズトークの続きに戻っとってくれ。後生やから。
 俺の願いもむなしく、彼女はゆっくりと振り返った。


 真っ直ぐにこちらを見つめている。
 鋭い眼差しに射抜かれて、息ができない。


「簓さん……?」


 その声音には、彼女の困惑と憤りが滲んでいた。目を合わせてみるが、彼女の思考は一切流れこんでこなかった。これだけ感情が滾っているのであれば、なにかしら聞こえてくるはずだが、どうしてだろう。なにかがおかしい。試しに正面にいる男の目を見つめてみるも、思考はなにひとつ読みとれなかった。


 どうやら、このタイミングで副作用が消えてしまったらしい。


「簓さん、なんでここにいるんですか」


 あの力を使わずとも視線から伝わってくる。彼女の怒りが、失望が、俺を串刺しにしていく。


「き、奇遇やな。俺もこのへんで飲もかな〜おもて。先輩と、来たんよ」


 そんな見え透いた言い訳は、今さら通じるはずもなく、俺の空笑いだけがむなしく響く。


「いや、白膠木とは今ばったり会うたんやで」


 こいつの存在を忘れていた。


「……」


 ――考えろ。考えろ。考えるんや。集中しろ。お前ならできるやろ。

 いかにしてこの事態を収拾すべきか、脳がハイスピードで回転していた。回転し回転し、やがて音もなく停止する。

 導き出された答えは、シンプルなただ一言。


「……すまん」

「私のこと、そんなに信用できないですか」

「ちゃ、ちゃうんよ! ただ……今日はどうしても、気になってしもて。ほ、ほんまに……すまん…………」

「……今日、簓さんを誘わなかったのは、簓さんに渡す誕生日プレゼントの相談がしたかったからです」


 誕生日。もうそんな時期か。

 言われてみれば、たしかにプレゼント選びには最適な面々だ。スタイリスト、インフルエンサー、ヘアメイク。みんなセンスがいい。

 ――あぁ。俺は、ほんまにしょうもない。救いようのないアホやな。






       *



 オオサカの夜の繁華街は、本来であればやかましいほどに賑やかなはずだが、今の俺の耳にはなにも届かなかった。

 きっと嫌われてしまった。それどころか、もう二度と口を利いてくれないかもしれない。顔も見たくないです、なんて言って拒絶されるかもしれない。だとしても当然の報いだ。
 やはり副作用が消えるまでは、彼女に会うべきではなかった。少なくとも今日一日くらいは、彼女を避けて過ごすことは容易だったはず。
 これほどまでに、自分が愚かで惨めで、無力だと感じたのは久しぶりだった。


 だいたい俺は、最初から決断を誤っていたのだ。数ある選択肢から最悪のカードを選び続けた結果が今、このざまだ。M1グランプリならぬ、あかんたれ頂上決戦優勝。今からでもトロフィーを返上できるだろうか。
 背中を丸め、一人とぼとぼと歩いていると、追い打ちをかけるように雨が降り始めた。日に日に秋めいてきた空から降る雨は、愚かな男を罰するにはお誂え向きの冷たさだった。

 傘を買うとかタクシーに乗るとか、そんな行動を起こすほどの気力はない。なにもかもがどうでもいい。胸の内にかかった暗澹とした雲からも、同じように雨が降りだして、あらゆる感情を押し流していった。







     5



「ぶぇ、ッくしゅん!」


 昨日、雨に打たれたのがいけなかった。

 今朝から喉の調子が悪かったが、急激に悪化していき、昼の情報番組の生放送に顔を出し終えた頃には、高熱のせいで意識が朦朧としていた。マネージャーに一報を入れ、夜の収録は後輩に代打を務めてもらうことになった。


 夕日に照らされ、真っ赤に染まったマンションのエントランスをくぐる。
 エレベーターの隅にセミの死骸が転がっていた。どうやら夏は終わったらしい。


「ただいまぁ……」


 かすれた声で部屋に呼びかけるも、当然ながら沈黙が返ってくるのみだった。


「あ〜……しんど」


 思い返してみると、昨日からまともに食事をとっていない。食欲がなかった。なにか少量でも食べなくてはと思うが、かといってこれから買い物に行くほどの余力もない。

 こんな日はさっさと寝てしまうに限る。そう思い立ち、身を沈めていたソファから起きあがった。シャワーを浴び、ベッドに倒れこむ。







       *



 熱のせいか眠りは浅く、しばらくの間夢と現実を交互に行き来していた。こんなふうに熱に浮かされた心細いときは、いつも決まって同じ夢を見る。もう二十年程前の、子供の頃の悪夢だ。


「おかん、どこ行くん」


 何度呼びかけても俺の声は届かない。届かないとわかっているのに、なぜ呼びかけるのだろう。
 夢とは往々にして理屈が通らないものだが、実際、記憶の中の母も、あの日は背中を向けたまま黙々と荷物をまとめていた。


「外、雨降っとるで。傘ささんと濡れてまうやろ」


 玄関で靴を履く母に傘を差しだす。

 けれども母は、無言でドアを開け、俺の顔も見ずに出ていってしまう。雨脚は強いらしく、ザアザアと地を叩く激しい音が轟いていた。


「おかん」


 行かんでくれ。子供の短い腕を必死に伸ばすも届かない。

 あの日俺は、外に出て母を追うことはしなかった。追ったところで無駄だろうと内心では諦めていたのかもしれない。子供の自分には手に負えない、どうにもならない大人の問題なのだと。





「……か……、ん…………」


 夢うつつで薄目を開けると、カーテンの隙間から差しこんでくる光はまだ赤みがかっていた。それほど長い眠りではなかったらしい。

 キッチンの方から物音がする。まだ夢の中にいるのだろうかと、ふたたび瞼を下ろしかけたところでドアが開いた。
 人影はやさしく、どこか懐かしい匂いがした。


「おかん……?」

「はい。おかんですよ」


 その声にはっとして、咄嗟に上体を起こすと、


「まだ起きちゃダメです」と制された。


「きみかぁ……」

「お母さんじゃなくてがっかりしました?」

「まさかぁ」


 がっかりしたどころか、彼女のやさしい眼差しに、ほっとしたほどだ。


「熱……少しは下がりましたか?」


 額に当てられた彼女の手は冷たくて、心地よかった。
 だるさは残るが、あの途方もない倦怠感は消えた気がする。


「だいぶようなったわ。きみの顔見たおかげやな」

「それならよかったです。……あ、前にもらった合い鍵、使わせてもらいました」

「おー、お前ぇ、やっと使こうてもろたやん。よかったなぁ」


 彼女の指に挟まれた幸福な合い鍵に声をかければ、そいつは機嫌よく反射して、喜びにきらめいていた。


「簓さんが風邪ひいたって聞いて、飛んできちゃいました。インターホン鳴らしたんですけど、出てこないから余計心配になって……」


 女子会に乱入したあの夜以降、彼女とは連絡をとっていなかったが、この様子からして別れ話をしに来たわけではないらしい。

 すべてを水に流してもらえたとは思わないが、振られる心配はなさそうなので、ひとまずのところ安心だ。


「そやったん? 堪忍な。まぁ、全然たいしたことないんやけどね〜……けほっ」

「大丈夫ですか」

「なはは、ダイジョ〜ブ、ダイジョブ」


 強がった発言の直後に咳きこんでしまって、まるで説得力がない。


「お粥作ったんですけど……食欲ありませんか? スポーツドリンク飲みます? それとも、お茶がいいかな……」

「おおきに、ほんっまありがとうな。せやけど、きみに風邪うつしたら困るし、もう帰ってええで」

「いやです」

「おん?」

「いやです。帰りたくありません」


 いつになく頑なな態度だった。その眼差しは鋭く、真っ直ぐにどこまでも突き抜けていきそうだ。頑としてここを動いてやるものかという強い意志。めったに自己主張をしない彼女が、めずらしく意地を張っている。


「えぇ……どないしたん」

「簓さんこそ、どうしたんですか。最近……というか昨日、なんだか様子が変だった気がします」

「そ、そやったろか?」

「やたら目を合わせようとするし、すごく強引だし……そのくせ、なにも話してくれないし」


 打ち明けずとも、彼女には伝わっていたようだ。下手に隠し立てしたせいで、かえって不安にさせてしまった。


 ――まぁ、言葉足らずはお互い様やけどな。


 彼女も以前、なにを探すつもりだったのか、家中ひっくり返して取り乱したことがあった。おそらくはあのときの彼女も、ささやかだった心のしこりが徐々に膨れあがり、最後には破裂してしまったのだろう。今の俺にはクローゼットの引き出しを漁っていた彼女の気持ちがよくわかる。すべてを知りたい。知らなくてはという焦り、不安、葛藤。


「……悪かった。これからはもっとちゃんと、きみに話す。なんでも打ち明ける。それに、黙って女子会ついて行ったんも、ほんまにすまん。もう、二度とコソコソせん。約束や」

「約束、ですよ」

「おう」

「それじゃあ、指切りしましょう」

「ほい」


 俺たちは子供のように真面目くさった顔で小指を絡ませた。ゆっびきりげんまん嘘ついたら針せんぼんのーます。ゆびきった。


「……じつはな。昨日の俺には、人の思考が読めるっちゅー特殊能力があってん」

「へぇ。……それじゃ、お粥温め直してきますね」

「なぁ〜! ほんまなんやって! 信じてへんやろぉ〜?」

「信じてますよ。お粥に卵入れますか?」

「ほな、落とし卵にして!」








     6



 積み重なった段ボール箱を眺めながら、俺たちは二人並んでソファに身を預けていた。部屋中に新しい家具の匂いが漂っている。


「さすがに疲れたなぁ」

「そうですねぇ……」


 昼下がりの日差しが窓辺から差しこんで、フローリングに窓枠を描きだしていた。ときどき吹きこむ風が、真新しいカーテンを揺らす。暑くもなく寒くもなく、気持ちのいい秋晴れだった。


 引っ越し業者が荷物をすべて運び入れてしまうと、彼女が「広すぎる」と言った部屋は、かえって窮屈に感じるほどだった。見慣れない家具が増えたこともあってここが自分の家だという実感はまだわかない。
 彼女も俺も明日からは仕事なので、荷解きは今週中に終わらないだろう。
 下手をすると、数週間、あるいは数ヶ月。封のされた段ボール箱が残っているかもしれないが、それでもよかった。好きな子と帰る家が同じだというだけで、目に映るなにもかもが輝いて見える。


「夜、なに食ぅ?」

「あまり遠出はしたくないですねぇ」

「やんなぁ。せやけど、この状況で自炊は無理やし」

「無理ですねぇ」

「ほんなら、出前か……」


 もうこれから先、夕食のあとに別れを惜しむ必要はないのだ。そう思うと、途端に幼稚な万能感がわいてきた。魔法の箒があれば空を飛べると、本気で信じこんでいた簓少年が蘇ってくる。まだ両親が不仲になる前。俺は無敵やと、そう信じていた頃は、まだ作り笑いの仕方も知らなかった。大雨の中、げらげらと笑いながら、傘もささずに自転車を乗りまわしていた。

 どこからか聞こえてくる子供たちのはしゃぎ声が、俺の中にあった無垢な記憶を探りあてたようで、らしくなく繊細な気持ちにさせられてしまった。


「……あ、そうだ。簓さんに渡すものがあるんです」


 そう言うと、彼女はのろのろと立ちあがり、段ボール箱の山をかきわけてなにかを探し始めた。
 そうしてようやく戻ってきた彼女の手には、やけに細長い紙袋が握られていた。


「ちょっと早いけど、誕生日プレゼントです」

「なんやなんや」

「あけてください」


 彼女に促されるまま、包装を解く。


「……うっわ! えぇとこの傘ですや〜ん!」


 手元のカーブ具合がちょうどよく、持ちやすそうだった。ずいぶんしっかりとした作りだが、ハンドメイドだろうか。


「簓さん、人にはしょっちゅう傘持ったか〜って訊くくせに、自分は梅雨でも持ち歩かないから。これで雨に打たれて風邪ひくこともないかな〜って」

「おぉ〜ほんまありがとうなぁ! えぇなぁ、スリムやから嵩張らんし。傘だけにってな。……ぷふぅ、くっくく!」

「…………」

「なんやぁその目は? これは俺の傘≠竄ゥら、きみには貸さ≠ヨんでぇ〜」


 もらったばかりの傘を閉じたり開いたりして、その場でくるりと回ってみせる。左右にステップを踏む。機嫌よく「雨に唄えば」を口ずさみながら。


「ふぅ〜ん、ふふふんふ〜ん」


 観客のつもりになっている彼女の手を引いて、今度は一緒に踊った。テレビ局の廊下でみせたような、スタンダードの構えさえもしない。ただ、彼女と向かいあい抱きあって揺れるだけで、途方もなく幸福だった。









     7



 おはようございます。今週は全国的に穏やかな秋晴れが続く模様です。例年より気温は低いですが、傘を持ち歩く必要はありません。オオサカでは、ところにより曇りの時間もあり――。
 つけっぱなしのテレビから天気予報が流れている。

 腹をかきながら、無人のリビングの中央に立ち、うんと伸びをすると、目が覚めるどころかかえってあくびが出た。
 冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出して一気に飲む。
 そうして、いまだ眠気眼でテレビを眺めていると、バスルームから彼女が飛びだしてきた。交差点を横切る猫のような素早さだった。


「あ、そこにおったん。おはよ〜」


 歯ブラシをくわえた彼女が、視線のみでこたえる。
 テーブルの上の腕時計を引っ掴むと、慌ただしい様子で洗面台に走っていった。


「お、さそり座は二位やって。ほんほん。……気になる相手と進展あり、ラッキーアイテムはタワシ……タワシて。今どきそんなもんご家庭にないやろぉ」


 俺がテレビと会話している間に、彼女は歯磨きを終え、今度は鏡に向かって神妙な顔をしていた。
 さきほどからピアスのキャッチと格闘しているようだ。手先は器用だが、見えない部分の細かい作業は苦手なのだという。


「かしてみぃ、俺がやったるわ」


 ピアスをつけて、ついでにネックレスもつける。


「ほい、っと……」


 そうして俺たちは、しばし鏡越しに見つめあった。

 目を見ても、もう彼女の思考は流れこんでこない。

 ただ、その眼差しには互いを慈しむやさしい気持ちが滲んでいて、今もほのかに胸があたたかい。体温のようにぬくもりが伝播していく。

 俺たちには、その力さえあれば十分だ。


「ほら、そろそろ行かな遅刻すんで!」

「鞄が――」

「ほれほれ! これやろ!」


 彼女の肩を掴んで、玄関まで押していく。

 ふれるだけのキスは、つかの間の別れの挨拶だ。


「それじゃあ、行ってきますね」

「おう、行ってらっしゃい! あとでまた楽屋で会おうな!」


 手を振り、笑顔で見送れば、彼女の顔もほころんだ。


 リビングに戻ると、朝の情報番組は終わりにさしかかっていた。

 アナウンサーが明るい声で呼びかける。――それではみなさん、よい一日をお過ごしください。


 なんてことのない、けれども、かけがえのない一日が、今日も始まろうとしている。









(2020年 10月4日(日)  本の書き下ろしとして収録していた話です)



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