「白膠木簓です」などという件名のあやしげなメールが届いたのは、夏の終わりのことだった。

 もちろん開封はしていない。迷惑メールとして削除だ。その手のメールで芸能人の名をかたる文面は、あまりに月並みすぎて、今どき誰も引っかからないだろう。気にも留めなかった。

 そうして暑さは過ぎてゆき、カーディガン、ジャケット、ついにはコートと、本格的に着こみ始めた頃、今度は電話がかかってきた。



『もしもぉ~し。簓ちゃんやよ~』

「………………はあ?」

『久しぶりやなぁ。今な、ロケできみの街まで来とってん。今日、何時に仕事終わるん?』


 なかば強引に約束をとりつけられ、電話を切られてしまった。あいかわらず騒がしい人だ。









 待ち合わせ場所にやってきた簓は、TVで見かける例の特徴的なスーツは着ていなかった。帽子を深めにかぶって、コートも落ち着いた色味だ。オオサカには及ばないがここもそれなりに人口の多い地方都市なので、彼も人目を気にしているのだろう。今は帰宅ラッシュで学生も多いから、芸人の白膠木簓が現れたとなれば、ちょっとした騒動になるのやもしれない。



「いやぁ~、急にすまんなぁ」

「ほんと、急すぎだよ。こっち来るなら前もって教えてくれたらいろいろ案内できたのに」

「せやかて、だいぶ前にメールしたやん? 返事こぉへんかったけど」

「あんなメール誰も開かないって! あやしすぎるもん!」

「なんでやぁ! ちゃんと名乗ったやろ! 添付ファイルもつけとらんかったし!」



 この賑やかさがなつかしい。

 簓と付き合っていたのは、彼が養成所に通っていた頃だった。
 当時は私もまだ学生で、アルバイトの少ない給料をやりくりしながら、狭いアパートで身を寄せあって暮らしていた。つつましくも楽しい日々だった。



 私たちは互いを親鳥とでも思っていたのだろう。どこへ行くにもくっついて歩いた。1LDKの狭いアパートで、手をつないでバスルームやベッドを行き来する生活は、今にして思えば子供のままごとの延長にすぎず、暮らしのそこかしこから嘘くささが漂っていた。


 それでも、間違いなく当時の私は幸せだったのだ。

 今も"幸福"の二文字を目にしたとき、思い浮かぶのは外の匂いをまとった簓が「ただいま」と言って帰宅する様子だった。いたずらっぽく笑う彼が、冷たい指先を私の首筋にあてて驚かせる。私は「やめて」と叫んだが、その声音から喜んでいるのが筒抜けだっただろう。

 あの頃は一秒でも長くふたりの時間を作ることが最優先で、友達には失礼な態度をとっていたかもしれない。大学入学当初は大勢いた友人が、気づけば片手で数えきれるほどに減っていた。
 とにかく簓が大切で、簓しか見えなくて、ほかにはなにもいらなくて、つねに体のどこかにふれていないと不安で不安で耐えられなかった。



「で、なに食う? なんでもえぇで。今夜は簓チャンのおごりや」

「さっすが、売れっ子は違うねぇ」



 鉄板焼き。いや、お寿司、やっぱりフレンチがいい。なかなか予約がとれないんだけど、白膠木簓のネームバリューでなんとかならないかな。

 そんなふうに他愛ない話をしながら、あてどもなく道を歩く。
 彼と会うのは別れて以来だったが、並んで歩いているうちに、私たちを隔てていた数年の空白が、あたたかいなにかで埋まっていくのを感じる。簓を好きだった記憶が、好きで好きでたまらなかった感情そのものが、しまっていた胸の奥から蘇って私の心を満たしていく。

 そういえば簓は昔から、人との距離を縮めるのがうまかった。
 初対面の人といともたやすく友達になってしまう。それでいて、もうこれ以上はという一線には踏み入らせないように、一定の距離をとるのも上手だった。磁石で引きよせたかと思えば、ふれる直前で極を反転させてしまうような、いやらしい匙加減で人の心を掴む。生来の人たらしだ。



「さっき言っとった店とれたで~。タクシー乗ろうや」













 レストランはビルの最上階にあった。

 案内されたのは窓際の夜景が楽しめるテーブルだ。芸能人である簓を気遣ってくれたのか、人目につきにくい場所だった。



「ワインはいかがいたしますか」

「ん~、なにありますん? ……って、説明されてもたぶんようわからへんなぁ」

「あはは」



 店は堅苦しい雰囲気だが、簓が隣にいるおかげで気を張らずにいられる。この安心感がなつかしかった。どこへ行くにも簓といっしょなら怖くない。



「おいし~い」



 なにもかも、とびきり美味しかった。このコースだけで一ヶ月の食費を上回りそうだ。

 そんな美食を堪能しているというのに、私が思い起こすのは、あの頃の、到底ごちそうとはいい難い味だった。
 冷蔵庫の残り野菜で作った焼きそばが好きだった。卵のみのチャーハンは週二で食べていた気がする。ボクサーパンツ姿の簓が深夜に作ってくれた、インスタントラーメンの特別なおいしさといったら。

 どれほど芸術的な皿を前にしても、かつて簓が作ってくれたあの味がなつかしく思えて仕方がなかった。



「これもおいし~」

「ははっ」

「もう、笑わないでよぉ。セレブの簓と違って庶民の私にはめったに食べられないんだから」

「いや、ちゃうねん。なんか思い出してしもたんよ……昔、俺が作るもんなんでもうまいうまいって食ってくれたやん」



 彼も同じ考えに浸っていたことがうれしかった。うれしくて、それと同じだけ、虚しかった。



「食べた食べた。あの頃はお金はなかったけど楽しかったなぁ」

「せやなぁ。ほんま、昔はどえらい貧乏で、なまえにも苦労かけたやん? せやからな、今こ~してお世話になった人らにお礼してまわってん」

「なるほど。それで、私のもとにも恩返しに、織った布を渡しにきたってわけね」

「ん~せやせや。糸をこうしてこ~っと……って誰が鶴や!」



 あいかわらずだ。つまらない振りにも、しっかり応えてくれる。彼のやさしさが滲むツッコミが好きだった。



「なぁ、今の話ネタに使こうてもえぇ?」

「いいけど。使いどころあるかな」

「……え~、元カノにメシおごったらそれ鶴の恩返しや~て言われましてん。鶴と言えばぁ~」

「すべって怪我しても責任とらないからね」

「鶴と亀がすべったってか」

「もうええよぉ」



 今でも夜な夜なネタを作っているのだろうか。同棲中は私を気遣ってか、いつもベランダに出て月明かりを頼りにネタ帳を埋めていたっけ。

 夜中に目を覚ますと、カーテンの向こう側で人影が動いていて、かすかに簓の声が聞こえる。せわしなく左右に揺れる様子から、相方の動きも想定しつつネタを練っていたのだろう。

 世間では天才だともてはやされているけれど、人知れず血のにじむような努力をする人だった。



「簓、変わらないね」

「……せやろか」

「せやよぉ」

「変わったこともあんねんで。禁煙しとるし」

「うっそ!」

「ほんまぁ~」



 いくら金欠でも煙草だけは常備していた彼が、禁煙なんて。どういう経緯でそこに至ったのだろうか。なんとなく怖くて理由を問えずにいると、話題はほかに移ってしまった。



「最近どうなん? 仕事のほうは」

「うん、まぁいい感じかな。簓こそすごいじゃん。毎日TVで見るよ」

「へへ。おかげさんでなぁ」



 昔の簓はほんとうに暇さえあれば煙草を吸っていた。

 アルバイトが終わり店の外に出ると、簓はいつもガードレールに寄りかかり、煙草を咥えながら私を待っていてくれた。私に気づくと目尻を下げて笑いかける。そうして煙草を挟んだ手を軽くあげ、「おつかれ」とねぎらいの言葉をくれる。夜の空気に煙草が混ざったあの匂いを、今も鮮明に覚えている。危うくて、すこし切ない香りだった。

 別れてからも簓と同じ銘柄の煙と出くわすたび過去がフラッシュバックした。それが道端であろうと、つい立ちどまり思い出に浸ってしまう。ときには振りかえって顔をたしかめたりもする。もちろん簓ではない。誰もかれも、簓ではない、見知らぬ男性だった。


 冷静に思いかえしてみると、当時の燃えあがるような気持ちの高ぶりは、若さゆえのいっときの感情だったのかもしれない。

 若気の至り。
 たとえそうだったとしても、あの頃の私たちはとてもとても真剣だった。溺れるように恋をしていた。

 私は簓を、簓は私を、オレンジの片割れだと信じて疑わなかった。がむしゃらだった。切り口をすりあわせるような、傷みを伴う愛し方しか知らないみたいに。
 彼は魂の伴侶で、カミサマが決めた運命の相手だった。そのはずだった。



なまえはちょ~っと変わったなぁ。……うん。大人ぽくなったわ。もとから可愛かったけど……さらに美人さんになったやん」

「芸能界の荒波にもまれて、口説き方も覚えたんだね」

「なんやぁ! 素直に喜んどきぃ!」

「あはは」



 私たちは笑って話をしているけれど、過去に思いを馳せているのは明白だった。
 ビルの最上階、この街のすべてが見おろせるレストランでナイフとフォークを持ちながら、心はあの日の狭いアパートにいる。ひとつの鍋からインスタントラーメンをすすりあうふたりが見えた。



「なんか……お腹いっぱいだねぇ」

「せやなぁ」



 気持ちがいっぱいになると、体のほうも満たされてしまうらしい。

 私は食事の手を止めて、なんとはなしに窓からの夜景を眺めた。そうしてときどき印のようにワイングラスにくちづける。窓ガラスに映る簓の横顔を見ながら、そういえば元号が変わったんだった、などと今さらのように思い出す。



「なんや、センチメンタルになってまうなぁ」

「そうだねぇ」

なまえに振られたときはほんまこたえたで」

「私が振ったんじゃないでしょ」

「なんやぁ~あんなん振ったようなもんやろぉ。あの後しばらくなぁ~んも手につかんかったわ」

「ふ~ん。合コンざんまいだったって聞いたけど?」

「あ、バレとった?」

「女子の情報網舐めてると痛い目見るよ」

「はは。……せやけど、ほんまに好きやったんよ」



 私の就職を機に簓との関係は終わった。地方の支店に配属されることが決定し、私たちに遠距離恋愛はむずかしいだろうとの結論に至ったのだ。世にあふれる殺伐とした別れ話に比べれば、いくらか円満な別れだったように思う。

 当時の私は、溺れるような恋に疲れていた。

 人気者の彼に悪い虫がつきはしないかと気が気ではなかった。つねに心配で、不安定だった。悪夢にうなされて目覚めた深夜に、彼のスマホを盗み見るなんてこともしょっちゅうで、飲み会に行くという彼を泣いて引きとめたりもした。痛い女だったと思う。


 できることなら、嫌われる前に終わらせたい。

 彼に嫌われてしまったら、私はこの先、生きてはいけない。本気でそう思っていたし、事実そうだった。なにかに取り憑かれたかのように、簓への執着をとめられなかった。

 だから、遠距離になるのはいい口実だったのだ。


 彼を手放したくないと胸をかきむしる一方で、いっそすべてを終わりにして楽になれたらと願っていた。実際に、彼と別れたあとは肩の荷が下りたような、清々しさすら感じたのだからひどい話だ。あんなにも好きだ好きだと泣きわめいて、感情のままに彼を振りまわしたのに。
 行き着くところまで行き着いてしまった恋の終わりは、意外なほどにあっけなかった。

 別れ際、簓は「かならず売れて迎えに行くからな」なんて言っていたっけ。私も子供だったけれど、あの頃は彼もまた、いとしいほどに青かったのだ。








「……それえぇやん」



 話が途切れた瞬間を見計らったように、簓は私の指輪にふれた。ほかにもいくつかつけているのに、左手の薬指を狙いすました動きだった。

 指輪をくるくると回すような手つきで表面をなでられる。昔からくすぐったくなるほどに、やさしいふれかたをする人だった。



「いいでしょ」

「えぇな。お高いブランドのやつぅ?」

「さぁ」

「どっかの誰かさんからもろたプレゼントやったり?」

「どうかな」

「ほな自分で買うたん?」

「うーん」

「いや……俺らそーいう駆け引きするタイプとちゃうやろ」

「先に持ちかけてきたのはそっちじゃん」



 そうだ、最初から聞いてくれればよかったんだ。もっと直接的に。イエスかノーで答えられるくらい簡単な質問で。



「今彼氏とかおりますん~って聞いてん。これで満足か~このどアホぉ」



 あきれとやけっぱちがないまぜになったような、不思議な表情だった。それはいったい、どういう心境なんだろう。

 簓の本心を知りたいあまり、つい、意地の悪い考えが脳裏をよぎる。



「いないよ」



 私の願望がそのように見せているのだろうか。簓はほんの一瞬、虚を突かれたように口を開けたあと、胸をなでおろした。ように、見えた。



「へ……そぉなん」



 ――あぁ、早く言わないと。



「せやったら俺とまた――」

「結婚式、来年の2月の予定なんだ。バレンタインデーの週末」

「は」

「彼氏はいないけど婚約者はいるの」

「…………」

「これ、婚約指輪」

「なん……」



 私が左手を広げてみせると、彼は目を見開き、次いで寂しそうに笑った。あのときと同じ笑顔だ。引っ越しのトラックを見送って、駅に向かい、さよならのキスをした、あのとき。



「――なんっやぁ~! あやうく口説くとこやったやんけぇ! そーいう大事なコトは先言うてぇ?!」

「だって、聞かれなかったし」

「もぉ~なんならワイが余興で行きまっせぇ!」

「やだよ、元カレを呼ぶなんて」

「なんでやぁ!」

「縁起悪いじゃん」

「そ~いうもんやろかぁ? っにしてもほんまめでたいなぁ! おめでとう!」



 そして簓は、ばしばしと私の肩を叩きながら祝福の言葉を繰りかえす。妙に明るい、明るすぎるその声は、TV越しに見る芸人の顔と重なった。

 今まさに簓が背を向けて遠のいていく。他人に引いた、見えない一線の向こう側に。












 化粧室から戻ると、簓はすでに支払いを済ませてくれていた。

 ごちそうさま、と礼を言えば、かまへんかまへん、なんていかにもオオサカの芸人といった調子で陽気に手を振る。簓が明るい声をだすほどに私の心は沈んでいく。


 駅まですこし距離があったけれど、私たちは歩くことにした。

 簓は明日も朝からTVの収録があるので、今日のうちにオオサカに帰るのだという。
 かつては新幹線に乗る私を簓が見送ってくれたけれど、今夜は立場が逆だ。去っていく新幹線の風はどんな心地だろう。ホームにひとり取り残される心細さは。



「どんなやつ?」

「え?」

「コンヤクシャ。俺の知っとる男とはちゃうねんなぁ? ……ほら、同じゼミの男でいっしょにこっち来たやつおったやろ」



 "同じゼミの男"。数秒考えてしまうほど、私にとっては過去の人物だった。
 それだけの時間、私たちふたりの時計は止まっていたのかと、ふとした拍子に思い知らされる。



「あー、いたねぇそんな人。全然親しくないし、今はもう連絡先も知らないよ」

「そやったんかぁ」

「彼とはこっちに来てから知りあったの。アプリでね……」

「出た! アプリ! 俺も芸人やっとらんかったら使いたかったわ~」

「あんたはそんなの使わなくても出会いあるでしょ。っていうか、モテるじゃん。昔からさ……」

「そうでもないで。俺はいつも……いや、あの頃は、なまえのことしか見えてへんかったしなぁ」



 私たちはまた、魂だけあの部屋に迷いこんでしまった。あのなつかしい部屋、古びた1LDK。玄関にはスニーカーとヒールが仲良く並んでいる。ただいまとおかえりの声に、色違いの歯ブラシが揺れる。

 簓が見ているのは夜の街並みではないし、もちろん隣りにいる私でもない。きっと、あの頃の私たちだ。四六時中見つめあい、互いの瞳から世界を見ようともがいていたあの頃。


 今思うと、それが原因だったのかもしれない。
 見つめあってばかりではいけなかったんだ。手をつなぎ、しっかりと前を向いて歩くべきだった。そうでないと躓いてしまう。あのままではふたり揃って遭難していただろう。


 おしゃべりなはずの簓が、ずいぶん長いあいだ口を閉じていた。私も黙っていた。足音が聞こえるほどに、静かな散歩だった。一歩ずつ、惜しむように進んでいく。



「……もう、ここでええよ。なまえの家逆方向なんやろ」


 まだ駅のなかにも入っていないのに、簓は立ちどまってしまった。混雑した改札で見送られるのは迷惑だろうか。



「でも……」

「駅で見送るん、ほんま寂しい気分なるでぇ。きっと泣いてまうわぁ」



 簓はコミカルに泣き真似をしてみせたが、私はどうしても笑うことができなかった。



「ほなな」

「うん。元気でね」

「幸せに……いや、わざわざ言わんでもすでに幸せやね」



 おめでとう。
 たしかに彼はそう言ったはずだ。「さよなら」と聞こえたのはどうしてだろう。

 簓はこれ以上はないほどの晴れやかな笑顔をくれると、片手を上げて去っていく。その背中が雑踏の向こう側に消えてしまうまで、私はまばたきも忘れて見つめていた。





















 ほとんど葉が落ちきった裸の木からは、得も言われぬ物悲しさが漂っている。

 さきほど通ったばかりの並木道が、ひとりきりになった途端にうらぶれて見えた。鮮やかな落ち葉の絨毯で彩られ、美しかったはずなのに。一歩、また一歩と踏みしめるたびに、ブーツの下で赤い落ち葉の悲鳴が響く。枯れ落ちた葉も踏まれれば痛むのだろう。


 あぁ、やっぱり冬は嫌いだ。

 太陽のような明るい声が恋しい。そう思った瞬間、もう、抑えきれなかった。



「簓ぁ…………」



 簓の声が、顔が、匂いが、体温が、押しよせてくる。

 頭のなかではショートフィルムの断片が上映されているかのように、過去の映像が蘇ってきてとまらなかった。



(好きや。俺と付き合うてください)

(ちょっと提案があるんやけどぉ~、……いや回りくどい言い方やめるわ! 俺といっしょに住まへん?!)

(ただいま~、なんやえぇ匂いする! カレー!? 簓チャン腹ペコやでぇ~!)

(うわっ、きみばりかわえぇやん! それ着て誰とどこ行くん? 彼氏とデート?! えぇなぁうらやましいわぁ~ほな行こか~)

なまえとおったらなにしとってもほんま楽しいねん)




「そんなの、本気だなんて」




(かならず売れて迎えに行くから、待っとってなぁ)



 体をたたみこんでいっしょに入ったちいさなバスタブ。休みの日はいつまでもベッドの上で絡まりあっていた。酔った勢いで噴水に飛びこみ、風邪で寝こんだゴールデンウィーク。スウェットのままコンビニに行って、手をつないで帰った、あの夏の夜。


 もし彼に捨てられるのを覚悟の上で、無理にでも遠距離恋愛を続けていたら。今頃グミの指輪は、簓が選んでくれたプラチナのリングに変わっていただろうか。





『M1で優勝したら俺と結婚してくれへん?』

『いいけどぉ』

『ほなこれ婚約指輪な。さっきセブンで買うてきてん。先に渡しとくわ』

『ありがと~。ん、おいし~』

『こら、婚約指輪やぞ。食うな食うな』

『オレンジの味の指輪だったわぁ』






「本気だったなんて、わかるわけないじゃん……」





 私はもうそれ以上、進むことも戻ることもできなかった。寒さで感覚を失っていく指先を、ただ静かに憐れんでいた。







(2019.11.10)


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