今でも毎朝、制服を着るたびに思い出す。

中学の入学式の朝だった。僕が「こんな制服着たくない」などと、ぼやいてしまったばかりに、野薔薇は入学早々に生活指導の教師に呼び出される羽目になった。「私もこの制服気に入らないのよね。地味だし」そう言って笑った野薔薇の瞳は、やけに輝いていた。

悪だくみをするときの、野薔薇の手際のよさはすごい。

その数時間後、野薔薇は急ごしらえした派手な改造制服を身にまとい、桜並木の間を闊歩していた。周囲は指定の制服をかっちりと着こむ生徒ばかりだったから僕らはとても浮いていた。とくに、野薔薇のあれは、制服というよりもドレスと呼ぶにふさわしい代物だったので、野薔薇が歩くと廊下がランウェイに――いや、仮装大会の会場に見えた。

僕は僕で校則違反をしていたけれど、とやかく言われずに済んだのは、野薔薇のインパクトにかき消されたおかげだろう。

今も昔も、野薔薇は破天荒な女の子だった。誰が決めたどんなルールも、自分で納得できなければ、真っ向から抗っていく。僕は昔からそんな野薔薇が大好きだった。大好きで、羨ましくて、彼女のすべてが誇らしかった。




インターホンが鳴ったのを合図に、僕はのろのろとベッドから這い出る。シャツを着て、スラックスを履き、ネクタイをしめる。
リビングでは、野薔薇が我が物顔で食卓につき、僕の母が作ったトマト入りのオムレツを美味しそうに頬張っていた。見慣れた朝の風景だ。


「遅いわよ」

野薔薇が僕の家で朝食をとるようになったのは、いつからだったろう。そのきっかけさえも忘れてしまった。
僕は昔から早起きが苦手なので、こうして彼女が迎えに来てくれるのは正直なところありがたかった。
早起きにかぎらず、僕にとっては朝という時間そのものが苦痛で満ちている。朝起きるのも、起きて、準備をするのも。食欲がないのに、無理に朝食をつめこんで朝日に目を眩ませながら、退屈な田舎道を歩くのも。
中学からは自転車通学になりいくらかマシになったけれど、野薔薇がいなければ不登校になっていただろうと本気で思う。
僕らは同学年で家が近いこともあって、物心ついた頃から親しくしている。
彼女との間柄を聞かれたとき、僕は迷わず「幼馴染」と答えるが、彼女なら「腐れ縁よ」と吐き捨てるに違いない。

狭い村なので、産まれた瞬間から、僕たちの家族ぐるみの付き合いは約束されていた。野薔薇はそういった田舎特有の、理不尽なまでの逃れられなさに辟易しているのだろう。

野薔薇は、この村のなにもかもが気に入らないのだ。

子供の頃から、ことあるごとに不満をもらしていた。いつか、いつか必ず、こんな村出て行ってやるわ。私の存在を誰も知らない都会で、好きな格好をして、好きに生きて好きに死んでやる。そんなような話を裏山の境内で、風船ガムを噛みながら宣言していた。
当時の僕はまだ幼すぎて、野薔薇の憤りのすべてを理解してやれなかったけれど、それでも、彼女の真っ直ぐな目を、ただならぬ意志の強さを、ひどく羨ましく感じたのを、僕は昨日のことのように覚えている。


「今日はずいぶん大荷物ね」

「バレンタインのお返しだよ。チョコとか、クッキーとか」

「あぁ、そういえばそうね」


こう見えて僕はけっこうモテる。バレンタインにはたくさんのチョコをもらったし、試合のたびに観に来てくれるファンだっているのだ。


「野薔薇のぶんもあるよ。僕は野薔薇からチョコなんてもらってないけど……きみにだけ渡さなかったら、きっと寂しがるだろうと思ってね」

「なによそれ、生意気ね」


野薔薇がふざけて僕の髪をぐしゃぐしゃに乱してしまった。


「せっかくセットしたのに……」

「あら、そっちのほうがいいわよ。ロキノン系バンドマンって感じ」

「それって褒めてるのかい?」


この村のおしゃれ番長、釘崎野薔薇が言うのなら、きっと間違いないだろうな。野薔薇が僕の髪にふれるときの、つま先立ちになるその仕草が、僕の胸をときめかせるのは内緒だ。

昔は野薔薇のほうが高かったのに、小学高学年のあたりから、僕の体はぐんぐんと成長した。小六の頃なんて、一年で二十センチも伸びた。そのせいで、同級生にはひどくからかわれたけれど、バスケ部に入った今では、僕の身体的特徴は強みとなり、存分に発揮されている。去年は全国大会にも出場したのだ。


「野薔薇は誰かにチョコあげたの?」

「クラスの友達と交換したわ」

「僕のぶんは?」

「アンタに東京のチョコの味はわからないでしょ」

「そんなぁ」


僕にとっては昔から、野薔薇は特別な女の子だった。幼馴染であり、親友であり悪友だった。

彼女への思いが、具体的にどの種類に分類されるかなんて、僕にはわからない。第一、僕は自分がどんな人間なのかさえ、いまだにぴんときていないのだから当然だろう。それでも、野薔薇が僕にとってかけがえのない女の子であることだけは、たしかな事実だった。






「私、東京の高校に行くわ」


彼女がそんなことを言いだしたときは、またいつもの田舎嫌いの発作が始まったんだと思っていた。
彼女の両親がそれを許すわけがないし、だいたい、娘一人を上京させるだけの資金だってないだろうと、愚かな僕は高を括っていた。
野薔薇がこの村を出るはずはない。僕はそう思いこんでいた。そう信じたかっただけかもしれない。


「ふぅん。そりゃあいいね」

「……アンタ、信じてないわね。私は本気よ」

「それで、どんな学校なの。わざわざ上京するからには特別なところなんだろ?」


なんでも彼女の特殊能力に関する専門の教育機関だとかで、あまり詳しいことは教えてもらえなかった。とにかく多額の奨学金がでるらしく、寮での生活費から学費から、なにからなにまでまかなえるのだという。
野薔薇の夢が、現実になろうとしている。そう気づいたときにはもう遅かった。僕は野薔薇を止める術を知らない。


「東京にはこんなでっかいゴキブリやネズミが出るらしいよ」

「そんなの、ここにだって出るじゃない」

「それに……犯罪も多い。危険な街だよ」

「あのね、寮暮らしなのよ。警備も厳重だろうし、このクソみたいな村よりよっぽど安全だわ」


――僕と会えなくなっても、野薔薇は構わないのかい。
思わずそんなことを口走りそうになった。


「……野薔薇のお母さんが寂しがるよ」

「あんたがいるでしょ。たまに顔見せてあげて」

「僕は娘じゃないもの。きみの代わりになんてなれないよ」

「それもそうね」


――彼女なら。沙織ちゃんが、野薔薇に助言をしてくれたなら、もしかすると。

そんなふうに思いかけて、首を振る。
沙織ちゃんなら、野薔薇を引きとめるようなことはしないだろう。だからこそ、彼女は野薔薇の親友になれたんだ。


「じゃあね。また明日」

「……また明日」


また明日。いつまでそう言い続けられるだろう。

野薔薇の背中を呆然と見つめるも、彼女が振り返ることはなかった。
雪の壁に囲まれて、一人きり家路をたどっていると、心細さはいっそう募った。


足跡ひとつない雪道を進むのは、けっこう疲れる。雪に足を取られて歩みが遅くなるし、ただでさえ同じ景色が延々と続く田舎道は、雪に覆われることで退屈さに拍車がかかる。
冬は嫌いだ。冬ばかりはこの村に嫌気が差す野薔薇の気持ちがわかってしまう。野薔薇ほどではないにしろ、もともと僕だって郷土愛など皆無だし、これから先のことを考えると、余計にそう思えてならなかった。

野薔薇のいないこの村に居続ける意味なんてない。野薔薇がいないなら、世界中どこへ行ったって一緒だ。
――野薔薇、ほんとうに行っちゃうの。僕を置いて。


また雪が降り始めた。空を見あげると、雪の一片が僕の頬に貼りついて、徐々に実体を失っていく。
急に寒気を感じてポケットを手探りするも、手袋は片方しかみつからなかった。もう片方は、どこかで落としてしまったのかと後ろを振り返るも、残酷なほど純白の景色が続くだけだった。
この手袋の片割れは、どこかで誰かの靴底に踏みつけられ、誰にも存在を知られることなく、やがて、すべてを雪に覆い隠されてしまうのだろう。そうして雪解けとともに、変わり果てた姿であらわれるのだろう。
この寒々しい田舎道に置き捨てられた、手袋の片割れのことを思うと、ひどく気の毒でならなかった。





進学先について、野薔薇にはたしかなことを聞けないまま、冬休みに入った。

僕はスポーツ推薦で県内の高校への進学が決まっていたので、受験勉強の必要もないのだけれど、かといって僕だけ遊びほうけているわけにもいかないので(そもそもこの辺りには遊び場なんてない)目的もなく、ただ毎日窓の外を眺めては思い出したように参考書を開く日々が続いていた。
そんな様子を見かねたのか、母いわく「おすそ分けのおすそ分け」だという林檎を持たされて、野薔薇の家に送り出された。

野薔薇に会うのは久々だった。といっても、一週間ぶりくらいか。週に五日会うのが当然だったから、二日以上顔を見ないだけで何ヶ月ぶりのような錯覚さえおぼえる。


「野薔薇なら二階にいるわよ」

野薔薇のお母さんに促されて、二階に上がる。一応、礼儀としてノックをしたが、返事はなかった。


「……野薔薇、いるんだろう? 入るよ」

ドアを開けると、ベッドに横たわる野薔薇がいた。


「野薔薇」

もう一度声をかけるが返事はない。
東京観光という見出しがついた雑誌が胸に置かれている。呼吸のたび、わずかにそこが上下していた。


「野薔薇……」

僕と話すのが億劫で、寝たふりをしているだけかもしれない。
たしかめようと思った。野薔薇の寝息が本物かどうか。

一歩ずつ彼女に近よっていく。心臓がやかましく早鐘を打った。


不意に、夏の記憶が脳裏をよぎった。全国大会。あれが中学最後の試合だった。
試合開始から四十五分、オーバータイムに差し掛かったあの瞬間。いい位置でパスをもらった。スリーポイントライン内ギリギリ。僕は横目で時計を見る。残り十秒、ここから決めればいける。決めさえすれば――。


野薔薇の顔の横に手をつき、彼女の上に跨る。ベッドがぎしりと軋んだ。
ゆっくりと、瞼があがってゆく。
野薔薇の、意志の強い目が、僕を捉えた。


「……アンタ、どういうつもりよ」

「やっぱり起きていたんだね」

「今起きたのよ」

「野薔薇」

「どきなさい」

「野薔薇。行かないで欲しい。どこにも」

「嫌よ」


すがるように野薔薇の瞳を見つめていると、そこには幼い子供の泣き顔が映っていた。僕によく似ている女の子だった。


「あぁもう……そこらの女子みたいにメソメソしないでよ、辛気臭いわね。まったく……」

涙が頬を伝い、野薔薇の額にぽつりと落ちた。


「だって、女子だもん」

そうだ、女子だ。

でも僕はスカートを履かないし、リボンの代わりにネクタイをしめる。

それに、野薔薇みたいに女言葉を使わない。僕、と呼ぶ。いつしか、そう振る舞うのが僕にとっての普通になっていた。スカートが嫌いなんじゃない。ただ、スラックスのほうがしっくりくる。心が落ち着く。なんだか、強くなれた気さえする。ヒーローがここぞという場面で着るヒーロースーツみたいに。

しかし実際の僕といえば、スーパーヒーローには程遠い、意気地なしの臆病者だった。

たとえ身長が二十センチ伸びたって、バスケの全国大会に出場したって、僕はあの頃と同じ泣き虫の女の子のまま、なんの進歩も成長もしていない。きっと、野薔薇がいなければ、僕は一人で学校に行くことすらできない。きびしい同調圧力がはびこる閉鎖的な田舎で、後ろ指をさされながら、一人だけ違う制服を着続ける勇気はなかった。入学式の日、着慣れないスカートを握りしめて泣く僕に、「大丈夫よ」と野薔薇が手を引いてくれなければ、僕は一日だって登校できなかっただろう。全国大会どころかバスケに挑戦することもなかった。きっと部活には入らなかった。となればスポーツ推薦ももらえなかった。野薔薇がいなければ。野薔薇が隣にいて僕を指さして笑うやつらを全員、殴りかかる勢いで罵倒してくれないと。僕はどこへも行けない。


「どっちだっていいからどきなさい、よ、……っと」

胸元をぐいと押され、よろめきながらベッドの隅に移動する。
野薔薇は、いつか見たやさしいほほ笑みを浮かべ、

「大丈夫よ」
と繰り返す。アンタはもう、私がいなくても大丈夫。頬に手を添え、涙を拭ってくれる。

こんなふうにして彼女に慰められるのは、これが最後だろうと思って、僕はとことん泣いてやった。泣いて泣いて、体の水分が抜けきるほど泣いてしまうと、すっかり心は凪いで穏やかになった。憑き物が落ちたように、すがすがしい。

また、野薔薇が不思議な力を使ったんだろうか。彼女の言葉が、ただの慰めではなく、実現しうる未来のように感じられた。
僕にもなにか、できるだろうか。野薔薇なしでも。







卒業の日、野薔薇の表情は晴れやかだった。たしか入学式の日にも、同じ顔をしていた気がする。こういうとき、ほかの子のように泣いたり感傷に浸ったりしないのが、いかにも野薔薇らしい。少しさみしいけれど、それでこそ釘崎野薔薇だ。

僕たちは三年前と同じように、桜並木をゆっくり歩く。まだ蕾は開いていないが青空に浮かぶ薄桃色はそれなりに綺麗だった。


「なんだか実感がないなぁ。こうやって歩いていると、これからもずっと野薔薇と一緒に登下校するような気がしてくるよ」

「アンタねぇ……」


野薔薇は僕の隣で、あきれた笑みを浮かべていた。
その笑みが、伏せられた目が、わずかながら寂しそうに見えるのは、きっと僕の願望が見せたまぼろしだろう。


「そんなに私が好きならアンタが東京に来なさいよ」


――僕が東京に? そんなふうに考えたことはなかったな。どうしてだろう。


「待ってるわよ」








朝が来ても、もうインターホンは鳴らない。

目覚まし時計のアラームを止めて、僕はのろのろとベッドから這い出る。シャツを着て、スラックスを履き、ネクタイをしめる。もう朝の食卓に、トマト入りのオムレツは並ばない。僕は一人黙々と咀嚼をする。ようやく起きてきた父と入れ違いに、玄関へ向かう。

ドアを開ける瞬間は、まだやっぱり勇気がいる。こんなときは、野薔薇の顔を思い浮かべずにいられない。
僕にとって野薔薇は特別で、自慢の女の子だったけれど、はたして、野薔薇にとっての僕はどうだろう。東京の友達に、胸を張って紹介できる存在だろうか。

――そうであればいい。そうなりたい。僕を、誇らしいと思ってくれたら。
まずは、そのための第一歩だ。


朝にしては強すぎる日差しに目が眩んだが、僕はもう立ち止まりはしない。肌寒いほどの向かい風のなかに飛びこんでいく。


「行ってきます!」





(2022/02/13)2020.8/23発行の合同誌『却来する僕ら』に収録したお話です


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