永遠に続く洞窟を彷徨っている。

 なぜか僕はそれが永遠に続くと理解していて、そのくせ躍起になって出口を探っているんだ。意識が薄れるほど長い間歩き続けても、一筋の光すら見つけられず、湿っぽい筒のような闇の中を溝鼠さながら這い回っているんだよ。おかしいだろう。

 晦冥に手探りすれば壁は岩のざらついた感触がするし泥濘に足をとられるので、海が近いのかもしれない。と僕は推測する。時折仄暗い風の音が耳を掠めるんだ。それが、死を運ぶかの如き不気味な風でね。

 とうとう僕は心身ともに疲れ果て、その場に座り込んでしまうんだ。するとどこからともなく、ぺちり、ぺちりと濡れた足音が近づいてきて、いかにも怪しいのに僕はどうしてかほっと胸を撫で下ろし、目を瞑るんだ。いつもそこで終わってしまう。それ以上先には一度だって進めた試しがないのだけれど。


「――という悪夢を見るんだよねえ。ことさら月がうつくしい夜には」


 絹さやの筋取りをしている彼女は小生意気にため息をついたのち、「なるほどね」と相槌を打った。まるで医者が僕の夢から精神状態を分析したかのような発言だが、その実彼女の意識といえば夕餉の献立に茄子の煮浸しを加えるか否かでいっぱいだろう。先刻畑仕事から帰った御手杵が、立派な茄子を収穫してきたばかりなのだが、彼女の目は手元の絹さやと茄子を世話しなく行き来している。


「あんたたちも夢を見るんだ」

「まぁ、肉体を得ているわけだからさ」

「そりゃそうか。体と心があれば青虫だって夢を見るもんね」


 そうして彼女は、絹さやについていた青虫を器用に割り箸でつまみ上げ、中庭に向かった。「ばいばい、はらぺこ青虫ちゃん」と手を振る。台所で入念に手を洗うところを見ると、どうやら虫は苦手らしい。


「わたしの夢はこう」


 紫式部の長編小説さながら、彼女のおしゃべりはいつも唐突に始まり、始まったら最後僕らのなかにそれを止める術を持つものはいない。

「世界中の絶景の中に"閉じ込められる"の。たとえば灯籠を空にあげるタイのお祭りだったり、ボリビアのウユニ塩湖。どれもぞっとするほど美しくて、クロード・モネの絵画とかシンカイ・マコト作品に入り込んだ気分なんだけど」

 僕はクロードモネの絵画がどんな色彩で彩られているのかシンカイマコトがどの時代の誰なのか聞きたい気持ちをぐっと抑えて普段通りの相槌を打つ。うんうん、それで。

「もしそれが網膜に焼き付いたら虹色に光るんじゃないかと思うほどなの。だけど、いつだってその場にはわたし一人きりでね、どこを探しても人どころか猫一匹いやしない。その感動を分かち合いたくてもひとりぼっちで、宝石みたいな景色に取り残されている。しばらくはぼんやり絵の中に溶け込んでみるんだけど、だんだん寂しくなってきちゃって。わたしの不安が影響したのか、次第に辺りは砂漠に変わって、喉が乾き、肌が干からびて、もうだめだと悟った頃に目が覚める」


 ふう。ため息というより深呼吸に近い息遣いが聞こえ、それは彼女のおしゃべりが終焉を迎えた銅鑼がわりだ。


「大抵、戦で負けが続いたり、あんたたちが手ひどい怪我を負って帰ってきた夜の夢。どう? 恐ろしいでしょう」


 すべて言い終えると彼女は手元の野菜を抱えて台所へ戻り、湯を沸かす準備に取り掛かった。名残惜しくて僕がその背中を見つめていることがわかると、「見てるくらいなら手伝いなさいよ」とぶっきらぼうに言い捨てるので、どうやらこの話はもう終わり、ということらしい。彼女は存外に気まぐれで、かつ頑固なところがあるのだ。

 この日の夕餉に茄子の煮浸しは出なかった。彼女が丹念に筋取りした絹さやが小鉢の中で微笑みかけている。







 皮肉にも、今宵は上等な陶磁器を浮かべたような、それは見事な十五夜であった。

 先ほどまで酒を酌み交わしていた次郎太刀ですら、明日を慮り閨へ戻ったというのに、僕はいまだ縁側で忌々しい月を眺めている。
 寝静まった本丸は昼との対比も相まって静けさが不気味だ。こんな夜は石灯籠を切ったあの夜を思い出す。僕が神剣になることを手放したあの夜。


「綺麗な月ね」


 軽い足音と共に暗がりから現れた寝巻き姿のなまえは、口元を袖で覆い、眼差しに妖しい笑みを湛えていた。ほのかに香のかおりがする。湯浴みしてそう時間が経っていないのだろうか。懐かしくも愛おしい目眩を覚える香りだった。


「またそんな格好で出歩いて。神隠しされてもしらないよ」

「出歩くって……城内でしょう」

「夜半ってのはなにが起こるかわからないものさ。油断してたら、僕だって――」

「あんたはしないよ。絶対にしない」


 言葉尻の重さと言い切りの強さ、そして真剣すぎる眼差しからは、僕への信頼が痛いほどに伝わってきて、思わず目を逸らしてしまった。
 たしかに、彼女のすべてを奪ってでも己が手中に収めんとする身勝手な真似、僕には出来やしないけれど、彼女が欲しいかと聞かれれば頷く他に返答のしようがない。僕はいつまでも人ならざる者になりきれない臆病者だ。


「……おやおや。意外だなあ。僕って、ずいぶん信頼されているようだねえ」

「これでも一応近侍だからね」

「嬉しい限りだよ」

「冗談じゃなく、本気であんたを信頼してるんだから」

「はいはい。それじゃあ頼もしい君の近侍が閨まで送り届けてあげるよ」

「平気、一人で戻るから。おやすみ」

「気をつけるんだよ。おやすみ」

「………………待って」


 唐突になにかを思い出したように振り返り、僕を呼び寄せると、手のひらを垂直に振り下ろし屈むよう手振りのみで指示をした。彼女の言う通りなにしろ僕は忠実な近侍なので、理由も聞かず言われるがまま膝を曲げる。

 やさしいくちづけだった。いっとき額にふれた唇は小さな足音を残して遠ざかる。


「おまじないをかけたから。今夜はきっといい夢が見られる」


 その瞬間の、僕の顔の間抜けさったら。鳩に豆鉄砲、にっかり青江に突然のキス。
 すぐに表情を取り繕い、彼女に見劣りしない面妖さで微笑んでみせる。閨に戻って蒲団を旋毛までかぶった。月明かりが届かなければ悪夢も追っては来られまい。
 睡魔はなかなか訪れなかった。どこかで、眠りにつくのを拒んでいたのかもしれない。気を失うように意識を手放した僕がたどり着いた先は、やはりあの洞窟であった。

 しかし夢を見ている最中に「これは夢だ」と認識できたのは今夜が初めてだ。早く目がさめればいい、僕は早々に泥濘の上に腰を下ろす。尻に冷ややかな泥が染みてきて、夢とはいえ不快であることに変わりなかった。

 やがて、例によってひたひたと足音が響き始める。なぜか今日の足音は急いているように聞こえた。それどころか、ときどき道に迷っている素振りすら窺える。なんだか僕はおかしくって、暗闇の中で笑ってしまった。

 忍び寄る何かは、僕の笑い声を頼りに近づいているようだ。足音は真後ろで停止した。
 僕は観念して瞼を閉じる。肩を叩かれる。おや。この展開は新しい。どうした、僕はここだよ。頭から齧り付き丸呑みにするか、はたまた四肢を引き千切るか。なんでもいい、だってこれは夢なんだから。


「にっかり」


 その声は、洞窟の生ぬるい風と共に僕の鼓膜をくすぐった。

 漆黒に慣れた僕の夜目が捉えたのは、土砂降りの中を走ってきたかのような佇まいで、頭のてっぺんから爪先まで水浸しで震える、僕の主だった。そっと頬に手を添えてみる。感触はあるが真冬の井戸に手を差し入れたように凍えている。


「……おやおや。どうしてきみがここにいるんだい。それに、あぁ、ひどく冷えているじゃないか。ほら、おいでよ」

「海底を、歩いてきた」

「海底を」


 今ひとつぴんとこない表現だったので、僕は彼女の言葉を口の中で何度か復唱してみせる。海底を、海底を歩いて。
 もごつく僕を置いてけぼりに、彼女は滔々と語りだす。


 "あの"夢よ。わたしは一人で美しい景色を眺めていた。すると、日が暮れ始めたころ、夜の帳の上を一筋の流れ星が降ってきたの。光が尾を引いて墜ちた方角へ、ひたすら東を目指して歩いていると、やがて青緑の水面に月が写る幻想的な海にたどり着いた。水底で仄かな輝きが見えたから、ここに違いないと思って。星の欠片を拾いに滑り降りた。お土産にしたかったの。
 海底を歩いていると岩場に巨大な穴を見つけてね。なにかに誘われるように近づくと、瞬く間に吸い込まれちゃって。その拍子に握っていた星の欠片も失くしたみたい。すごく残念、だってにっかりの瞳の色にそっくりだったから。
 えぇとそれで、洗濯機で回される洋服みたいに揉まれた後、漂着したのがこの洞窟の入口だったってわけ。
 不安はなかったよ。泥濘を踏んでいる最中、あんたが教えてくれた夢の話を思ったの。会えるって確信してた。だって今夜はとびきり月が美しかったじゃない。


「……そうして、洞窟を彷徨っているうちに、思った通り、あんたを見つけたってわけ」


 相槌を打つ隙間すら与えずに彼女はしゃべり続けた。


「ねぇ、どうする。朝が来るまでここで待つ? わたしの夢へ来る気はない?」

「夢へ来るって。なんだいそれ」

「わたしの足跡を辿ればきっと元の世界へ通じているでしょう? 驚かないでね、今夜はシンカイマコトなの」

「そのシンカイマコトってなんなんだい。ずっと気になっていたんだけど」

「映画監督よ。聞いてくれたらよかったのに」

「きみが息継ぎもせずに喋り倒すもんだから。僕はうんうん獅子おどしのように頷くしかなくってね」


 バツが悪そうに彼女が笑った。つられて僕も笑う。二人の笑い声が洞窟の不気味な風に混ざり合い、死霊の歌声のように轟いた。



 目覚めは悪くなかったが、僕としたことがめずらしく寝坊してしまったようで、廊下ではバタバタと騒がしい往来の物音が聞こえた。緩慢に着替えを済ませ、髪に櫛を通していると、背後で襖が開かれる気配がした。振り返るとそこにはやはり、仁王立ちしたなまえが待ち構えていた。

 僕らはおはようも言わず、しばし見つめ合い、ほとんど同時に口を開く。


「おかしな夢を見たよ」「おかしな夢を見たの」


 重なり合ったふたつの声は、庭の朝顔についた露をひと雫、土に落とした。


(2015.09/16)


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