坂道でもないのに肩で息をする俺たちが見つめる先はただ一点だ。
本丸を出発して間もなく小石に躓いてぐずぐず泣いていた五虎退も鼻歌交じりに腕を振り、あの薬研ですらどこか上の空で、俺も足が地に着かない感じがする。誰もが疲弊しきっているはずなのに不思議と足は速まるばかりだ。
祭りでも戦でもない遠征は退屈としか言いようがないけれど、集めた資源を抱えて本丸へ帰還するその瞬間だけは胸が躍った。あと半刻もすれば見えるだろう、仰々しい門と、その傍らに立つものやさしい女の姿。
俺たちが遠征から戻るとき、なまえは決まって門の前で待っている。牡丹雪がしんしんと降り積もる師走にも、雨が降りしきる肌寒い水無月も、傘をさし、手を振って出迎えてくれる。とろけそうな優しさで満ちた声音で「おかえり」をくれる。ひとりひとりの名を呼び、掌で頬を包み込み、なにかを確かめるみたいな所作で頭を撫でる。離れたところで思い浮かべるなまえはいつだってそんな優しさで満ちている。
「主君〜〜!」
「おかえり、みんな。怪我はない?」
「あぁ大将。悪くなかったぜ」
「じゃーん! 見てくれよ、なまえ! これ、オレが見つけたんだぞ!」
「愛染、すごいじゃない。ありがとう」
名を呼ばれるだけで、心の底を鳥の羽で撫でられている心地になって堪らなくなる。俺たち刀にとってなまえの「ありがとう」は、特別なまじないとか祈祷のようなものに近い。重傷を負っていてもその一言でたちどころに回復してしまうのだ。
けれど近頃は、突き抜ける青空を思わせる朗らかな表情はめっきり減って、微笑の裏側には暗雲が垂れ込めている様子だった。「前線での戦況が芳しくないせいだ」と、道中で薬研が漏らしていたっけ。静かすぎる本丸がそれを物語っている。昨日出陣した太刀は未だ手入部屋に籠っているそうだ。
各自の戦利品を誇示しながら門をくぐったところで、どこから現れたのかすぐ背後ににっかりの姿があった。
「こんなところにいたんだね。えらく探したよ」
「何か用?」
先刻まで俺たちをぽかぽかと照らしていた温かな眼差しは一変し、侮蔑を孕んだ目が冷ややかににっかりを映し出す。棘のある声は己に向けられたものでないとわかっていても肝が冷えた。
どういうわけかなまえはにっかりにだけ妙に厳しくて、いや、理由は俺でもなんとなくわかる、なにかにつけてにっかりがなまえにいやらしい話題を振ったり(そういうのをせくはら、と呼ぶらしい)、過剰なふれ合いを求めるからだろう。その度にべもなくあしらわれているが、この男はなかなかどうして懲りないのだ。
「つれないなぁ。万屋に行こうと思ったんだけど、一緒に行かないかい? 団子でもご馳走するよ」
「「団子〜〜〜〜?!」」
「おやおや、お土産を買って来なくちゃなぁ。ひいふうみい、……というわけで皆、彼女をかりるよ」
「いいね?」と念を押すように言ったにっかりの口調には穏やかながらも有無を言わさぬ強引さがあった。
いつもなら暴言のひとつでも吐くところを、なまえはされるがままに手を引かれている。その表情は俯いているせいで伺えないが振り解くのも億劫なほど草臥れているに違いない。
俺含め、なまえに群がっていたやつらは一様に落胆の色を見せ、馴れ馴れしくなまえの肩を抱いて歩くにっかりの背中を恨みがましく見つめ続けた。
なんだかこれではあんまりに癪だ。密かに後をつけて団子のひとつでも奢って貰わねば溜飲が下がらない。遠征帰りでひどく腹が減っているし、それに、もう少しなまえの声を聞いていたかった。
しかしどうしたものか二人は万屋に一瞥をくれることもなく通り過ぎ、茶屋の前を通過し、徐々にひと気のない道へと進んでゆく。
やがて、湖の畔で立ち止まった二人はなにやら口論を始めた(というよりなまえが一方的に捲くし立てている)ようで、なまえはいつになく忙しい身振り手振りを交え、しきりに首を振って、取り乱しているが起因する感情が怒りなのか悲しみなのか俺にはわからない。あるいは両方かも。
ただ一度、十分に距離をとったところにある俺の耳でも聞き取れる声量で、なまえはほとんど悲鳴の如き叫びを上げた。「もう無理なの」
それから先、辺りには鳥の囀りと、時折思い出したように吹く風が森を揺り籠みたいにあやす音のみだった。
どうも団子にはあり付けないようだし、こんななまえを見るのは胸が痛む(それも覗き見だ!)。そっと踵を返そうとした瞬間、目の端で何か素早いものの動きを捉えた。
なにが起こったのか頭で理解するよりも先に身体が動揺を示した。心臓を鷲掴みにされ上下に振られ、燃えた血潮が全身を焼き尽くしてしまうかのように思われた。
俺の視覚が狂ってしまったのでなければ、この目が捉える景色は確かに、にっかりの胸に飛びこんだなまえと、彼女の肩を慈しむ手つきで撫でるにっかりだった。目を擦り、瞬きを繰り返すが変化はないので間違いなさそうだ。
こちらからは死角になっていて顔は確認できないが、なまえの肩は小刻みに震え、どうやら泣きじゃくっているようだった。にっかりのシャツには彼女の涙が染み込んでいるのだろうか。なんだか奇妙な感慨深さがある。
普段は死体を啄ばむカラスさながら邪険にあしらわれるにっかりが、まるで心の支えみたいになまえから寄り縋られるなんて。とてもじゃないが現実とは思えない。
突然晴れた霧のように今にっかりが消えてしまったら、なまえは地面に突っ伏したまま一晩中泣き通すんじゃないか。比喩や誇張なんかじゃなくて、俺には本気でそう思えるのだった。
兎にも角にもこのことは綺麗さっぱり忘れよう、忘れて、今後二人を見てもそ知らぬ顔で、なにも見てないなにも知らないふりをしよう。そう思い定めて踏み込んだ俺の右足は、不運にも小枝を踏んでしまったようで、パキリと確かな響きが周囲の空気を震わせた。重ね重ね運悪く、示し合わせたかのように森は凪ぎ小鳥たちも歌うのを止めてしまっている。
おずおず顔を上げると、険しい形相のにっかりと目が合った。叱られるかと一瞬怯んだが、しかしすぐに表情は和らいで、お決まりの胡散臭い微笑みを浮かべると口元に人差し指を持っていき、唇の形だけで「しー」と言った。いつものにっかりだった。
逢魔が刻、包みを抱えて帰ってきたなまえは、どこか晴れやかな顔をしていた。土産は口に含むとわずかに塩の風味が漂う草団子だった。
(2015.03/10)
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