怪我人は怪我人らしく柔らかなベッドで眠るべきだというわたしの主張は、彼の相棒の力添えもあり半ば強制的に押し通すことができた。
 骨が数本折れているのに平然とした顔で歩き回ったり、適当な数の錠剤をがりがり噛んで酒と一緒に飲み込むような男だ、目の届くところでしっかり見張っていなくては、なにを仕出かすかわからない。
 職場には今しがた休みの連絡を入れた。同期のコーディが今日はチャドさんの機嫌が悪いのだとぼやいていたけれど構うもんか。

 快復するまでとの期限付きのうえ、しかも名目上は看病なのだが、わずかでも彼との共同生活に心が弾まないと言えば嘘になる。胸の内では春一番が吹き荒れていて、窓を閉めているのに騒々しいほどだ。
 鏡を見なくてもわかる、今わたしの口元は相当に緩んでいて、傍から見れば恐ろしく気持ちの悪い女に違いない。気休めに先ほどスーパーで買ったガルバンゾだとかいう奇怪な豆の缶詰の味を想像してみる。あまり効果はなさそうなので駆け足で街を走り抜けることにした。


「ただいま〜」

 帰宅すると誰かが待っていることが嬉しくて、ついただいまを言ってしまったが、彼ならドアを開けたとき入り込む風の動きだけで気づいたはずだ。
 抱えていた紙袋をキッチンテーブルに置き、乱雑な冷蔵庫を整理する。勢いで買い込んだ沢山の食材は、その半分だって誰の胃袋にも入らず、冷蔵庫の奥でひっそりと往生を遂げるのだろう。警官の仕事は思っていた以上に不規則で、部屋でゆっくり調理し食事をとることなど月に一度あるかないかだ。

 半月ぶりに使うフライパンを洗っていると、背後から徐々に足音が近づいてきてわたしの真後ろで止まった。


「ニック? どうしたの、具合悪い? 痛み止め飲む?」

「いや」


 "お前、料理なんてできんのかよ" 彼は手と表情を駆使してそう告げた。


「もぉ〜〜〜早くベッドに戻って! ふらふら出歩く怪我人は逮捕しちゃいますよ〜二時三十四分ニコラス・ブラウン逮捕〜」

「罪状はなんだよ」


 彼の手首に手錠をかけるふりをする。見上げるとそこには叱られた理由を理解できない子犬のような顔があったので、こみ上げる愛おしさに蓋をするつもりで触れるだけのキスをした。


「わたしの言うこと聞かなかった罪だよ。ほら、ベッド行こう」


 手を繋いだまま寝室に向かう。彼がなかなか動こうとしないので、わたしはさながら大きな砂袋を引きずり歩く奴隷の心地だった。


「眠る気分じゃねぇんだ」

「はいはい」

なまえ


 彼はわたしの名を呼ぶとき、必ず声帯を震わせ、目を合わせて名前を呼ぶ。その行為に何か特別なこだわりがあるのかないのかわたしには分からない。理由が何であれ、とにかくとびきり嬉しくて、名前を呼ばれるたび涙ぐみ、しばし時が止まるのだった。

 しかしそれが彼の狙いだったようで、静止した一瞬を狙ってベッドに引き込まれた。頬にふれるのは柔らなシーツではなく、白い布で覆われ一層厚みを増した胸板である。

 いつも通り手のひらを乗せてみるが、肌の温かみは遠く、がっちりと巻かれた包帯がその下にある傷の大きさを示唆していた。
 暗闇で指先が感じる痛々しい凹凸がまたいくつか増えたのだろう。そう思い至った途端、幸福だった胸の内に突如として暗然な雨雲が垂れ込め、心の土壌に驟雨を降らせた。
 彼が傷つくたび、わたしにもまったく同じ箇所に傷がつくようになれば、彼も少しは怪我をすることへの危機感を覚えてくれるだろうか。

 わたしがあんまりに長い間黙り込むのを不審に思ったのか、彼は油の切れたロボットのようにぎこちなく上体を起こした。結果的にわたしたちは向かい合わせで抱き合う形になった。


「どうした?」


 返事はせず、代わりに彼の鎖骨の窪みにそっと唇を置いた。
 そこはわたしの特等席で、いちばん落ち着く場所で、なぜかぴたりと嵌まる愛しの窪みなのだ。


「ここ、痛い?」


 包帯が巻かれた左腕に、人差し指をツツ、と這わせる。ニックはひとつ首を振った。

「ここは?」


 今度は否定と呆れを内包した笑みを浮かべ、それを答えとしたようだ。

 泣き言を漏らすぐらいなら死を選びそうな男だと知ってはいるが、それどころか両手を広げて「どこでも好きに打ち込んで来いよ」なぁんてジェスチャーまでしてしまう。人を心配させるだけさせてこのミイラ男は。

 包帯まみれの彼の腹に触れるのみのパンチをお見舞いして、薬品の香りが漂う肩に鼻を押し付ける。
 ベッド脇の小窓から差し込む真昼の日差しが、白いシーツに反射して目がちかちかした。カーテンを閉めて、薄闇の中規則正しく胸を叩き子守唄でも歌ってやれば、彼にも睡魔が訪れるだろうか。
 さっきから人のピアスの飾りを舌で転がす彼と、彼を寝付かせようと知恵を絞るわたしは、正反対の策を練り上げているに違いない。

 逞しい首にぶら下がっている二つのタグを指でいじりながら、"安静"に該当する手話はどんなだったかと、ぼんやり頭の辞書を捲った。


(2015.04/04)


< BACK >