水樹寿人という生物について個々の所見を伺ったとき、その回答には大きなばらつきが見られることだろう。同じ女子の間でも彼の評判は様々だ。たとえば、

『可愛い』その通り。
『かっこいい』間違いない。
『天然』言えてる。
『真面目』彼はいつだって真剣だ。
『ほっとけない』うんうん。

 などなど。面白いのは、真逆の形容詞だとしても心から頷けてしまうところにある。見る人によって違う、あるいは一瞬一瞬で違う顔をしているのかもしれない。転がすたび様相を変えてゆくカレイドスコープみたいに。きらめいて人の目を惹きつけるのもそれと一緒だ。
 水樹寿人の生態はいまだ未知の霧に包まれている。その謎をあきらかにすべく、わたしの視線はグラウンドへ向かった。


「買い出し行くけど、なまえはどうする?」

「わたしはいいや。ここで荷物番してる」

「そっか。じゃあまかせた」


 みょうじなまえという荷物番はきわめて無能である。なにしろ、窓際の席を陣取り、終始グラウンドを見つめ続けているのだ。
 けれど、いくら目を凝らしても彼の姿は見つからなかった。部室にでも行ってしまったんだろうか。

 今週は学祭の準備期間で、多くの部活が休みもしくは縮小を余儀なくされている。そんななか、見事選手権出場を決めたサッカー部だけが、いつも通りの練習をこなしていた。もちろん彼もいると思い、自ら出店の看板作りなんてものに立候補したのに。徒労だったかと半ば諦めかけたときだった。


「なにを見ているんだ?」


 声はすぐ真後ろから聞こえたが、まず先に幻聴を疑った。彼を血眼で探すあまり、ついに聴覚がいかれてしまったに違いない。そんな絶望に浸りながらおずおずと振り返る。途中、「ウマそうな形の雲か?」という屈託ない問いかけに、ほんの少し肩の力が抜けた。


「みっ……水樹くんっ、部活は?」

「抜けてきた。みょうじ、ひとりか」

「そう。みんな買い出し行っちゃってるから。残りは体育館でダンスの練習」

「そうか」


 水樹くんはジャージ姿に首からタオルを下げていて、身体もわずかに汗ばんでいる。なんというか、全体的にほかほかで、ほんとうに今さっきまで走りまわっていました、という風情だった。いやいや、それより、いったいぜんたい、どうしてここに。


「なにか……忘れ物とか?」

「いや。なんとなく」

「なんとなく……」

「監督探しに職員室来たんだけど、いないから教室寄ってみた」


 ぼんやりした相槌を打ちつつ、サッカー部の監督を思い浮かべてみる。そうまじまじと注視したことがなかったから、その姿は煙草の煙のごとき不明瞭さで要領を得ない。思えばわたしはいつだって水樹くんばかり見つめてきたのだ。


「やきとりの出店なのに、看板に描く動物は鳥じゃなくていいんだな」


 すっかり平静さを失ったわたしなど気にもとめず、水樹くんは普段通りのじつにのんびりした調子で語りかけてくる。教室の真ん中、青いビニールシートの上に置かれたベニヤ板をしげしげと見つめながら。


「適当だよ。ほら、ライオンと豹の間に子鹿もいるし」


 薄っぺらいベニヤ板には食物連鎖のルールに反した、よくいえば種を超えた愛と友情で満ちた世界が広がっている。
 みんな何も考えちゃいないし、わたしだって正直なところこんなものはどうでもいい。言ってしまえば看板なんて「やきとり」の文字さえ書けばことたりるのだ。


「俺も描いていいか」

「どうぞ」


 水樹くんは名のある画伯のような所作で筆を握ると、ベニヤ板の隅にちいさなウサギを描いくれた。かわいくて素朴なうさちゃん。とぼけたようでいて真っ直ぐこちらを見つめるつぶらな瞳は、どこか水樹くんに似ていた。
 誰もが好意を抱くけれど、誰も、指先だって届かない、月に住むやんごとなきウサギ。


「可愛いね」

「うん」


 顔を上げた水樹くんは、ほくほくした表情でそれを見つめていた。あぁ、これは巷で「可愛い」と言われる水樹寿人だな。つられて、緊張していたはずのわたしの顔まで緩んでしまう。


「ちょっと水樹くんに似てるよ」

「? みょうじに似せたつもりだった」

「え」

「ほら、ここ。目元が。睫毛ピョン。それから、口。ひょんってなってるとこ」


 ひとつひとつ、わたしに似せてくれたらしい部分について、指をさしながら説明してくれた。相変わらず擬音だらけの語り口。結局なんだかよくわからなかったが、嬉しいということに変わりはなかった。


「火星で鞠つきしてそうだ」

「月で餅つきかな」

「それだ」


 こっちは「天然」の水樹くん。おとぼけ発言にふさわしく、鼻の頭には赤いペンキがついている。よくみたら彼の手は一作品仕上げた後のパレットみたいに色とりどり。子供が描く虹はこんなだろうか。
 小さなうさちゃんひとつ描くのになぜそうまで汚れるのか不思議だけれど、まぁ水樹くんだから、なにが起こっても不思議はない。


「水樹くん、お鼻にペンキ」

「ん? ……ああ」


 ペンキのついた手のひらでぐしぐしと拭うので、水樹くんのお顔にはあっという間に虹色の竜巻が立ち上ってしまった。


「あ〜〜手で拭いちゃダメ〜!」

「うわ、なんだこれ、どんどん広がってくぞ」


 ティッシュを差し出すが後の祭りだ。ところどころ乾いてしまっていて、石鹸を使ってごしごし洗わないと落ちそうにない。「洗ってきたら」と言いかけて、口をつぐんだ。
 いま教室を出ていったら、"なんとなく"ふらふらと別の教室に誘われて、もう戻ってこないかもしれない。他の子が教室に帰ってきて、二人きりの世界が打ち砕かれてしまうかも。そんないくつもの不安が、わたしをひどく意地悪にする。


みょうじもついてるぞ」

「え? うそ!」

「黒いの、目の下のとこ。それからほっぺ。きれいな色だからそのままでいい」

「……あぁ、これは」


 どうやらメイクのことを言っているようだ。きれい、と言われ(チークの色のことだ!)(思い上がるな!)動揺をぬぐい去ろうとしたが、なかなか二の句が継げなかった。だいたい、彼はメイクを図らずも付いてしまった顔の汚れだとでも思っていたのだろうか。いや、"きれいな色"と表現したんだから悪い印象はあるまい。だけど……。
 冗長な煩悶をこれ以上続けるのは止そう。話を変えたいが、とりたてて話題も見つからず、苦し紛れに鞄のなかを探ってみる。


「そうだ! メイク落とし使う? これならペンキも落ちるかも」


 メイク落としのシートを一枚手渡すと、水樹くんは素直に受け取っておしぼりの要領で両手を拭き始めた。水性のペンキはメイク落としで落ちるらしい。
 ほっとしたのもつかの間、なにを思ったのか彼はずずい、とこちらへ近づいてくるではないか。


みょうじ、顔やって」

「え?!」

「ん、」


 まるで小さい子が靴紐を結んでほしいとせがむような佇まいだった。仰け反ってしまったわたしを追い詰めるように、また一段と前のめりになり接近してくる。このまま後退し続けたらわたしは教室の床に寝転がってしまうんじゃないかと思われた。
 真正面から捉えた水樹くんの瞳は、まだ露がついた朝一番の採れたて葡萄のような瑞々しさに満ちていて、見つめていると喉が渇いてきそうだ。


「うわぁっ」

 案の定、後ろに倒れ込みかけたわたしの半身は、やさしく、力強い手によって支えられた。彼の体勢はタキシードを着込んで踊るダンスの構えに似ていた。

 放課後、二人きりの教室。それだけでもう、なんだか不純な香りがするというのに、この状況をもし誰かに見られでもしたら。噂はいとも容易く広まるだろう。水樹くんは校内のゴシップに興味はないし、元来そういうのに疎いタイプだ。きっと彼は否定も肯定もしない。なにを問いただされようとただ首を傾げている。わたしは――


「おい水樹っ!!!」

「…………あ。速瀬だ」

「あ、じゃねえよ! なにしてんだ!」


 速瀬くんは教室の出入り口で棒立ちのまま声を張り上げていた。教室に踏み込むのを少し躊躇してから、恐る恐る、といった具合で近づいてくる。


「大丈夫か、みょうじ

 と、手を差し伸べてくれる速瀬くんは、ひどく真面目くさった顔をしていた。起き上がる瞬間、水樹くんの前髪がわたしの頬をかすめてゆく。夏のはじめに吹く気持ちのいい風みたいに。

 二人がなにか親しげに、かつ内密に話す様子を眺めるわたしは、もしかしたら怨めしい顔をしていたかもしれない。落胆を隠すため、ほっとするふりをして誤魔化した。


「あせりすぎだ馬鹿。そういうことはもっと距離を縮めてからにしろ」

「そうなのか?」

「そうなんだよ!」

「もっと?」

「もっとだ!」

「……このくらいか?」

「おいやめろ馬鹿そうじゃねえ! ……ゲエ! ペンキまみれじゃねえか!」


 今度は速瀬くんに鼻がくっつきそうな勢いで迫っている。彼があまりに慌てるので、いけないシーンを見せつけられている気分になってきた。


「あのな、物理的な意味じゃねえんだよ! いや、だからまずは……」


 ごにょごにょ、とわたしには聞こえないよう声をひそめて身振り手振り言い聞かせる速瀬くんはなにか勘違いをしているようだった。

 うん、うん、そうなのか、わかった、と素直に頷く水樹くんの横で、わたしは静かに筆を取る。
 彼が描いてくれたうさちゃんの隣に、葡萄のような瑞々しい瞳を持つ、月で鞠つきするウサギを描こうと思う。


 これから先の人生、わたしはウサギを見かけるたび、焼き鳥を食べるたび、満月の夜を迎えるたびに、彼との一言一句を思い起こすだろう。きっとその頃の水樹くんはプロのサッカー選手になっていて、わたしの顔も名前も忘れてしまっているはずだ。それでもいい。それでもいいから。

 学祭当日に看板を見た水樹くんが、ちらりとでも今日この瞬間のことを思い出してくれたらと、過分な祈りをこめて描いたウサギは泣きそうな顔をしていた。痛々しい赤い目はどんどんどんどん滲んでいって、最後には春の朧月がふたつ並んだ。



(TOM Girl 企画提出)


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