今夏のつくつく法師は歌が得意ではないらしい。
合唱と呼ぶのもお粗末な啼音を鼓膜で受け止めながら、夏という季節が疎ましい存在に成り下がってしまったのはいつからだったろうと、手の甲で額の汗を拭いながら思い返す。
本日中に目を通し然るべきところへ送らねばならぬ封書が、机の上で豪然たる楼閣として鎮座していた。
溜まった仕事に加え、暑さ、騒がしさが気を滅入らせる。本来は風通しのよい屋敷のはずだが、こうして障子を閉め密室を作り上げているせいで蒸し風呂状態だ。しかしこうでもしない限り闖入者の妨害を防ぐことは出来ない。
現に今も、障子の向こう側の人影が「主、主よ」と呼びかける。どうか暑さが見せた幻覚、幻聴であってくれとしばし目を瞑ってみるが、影は微動だにせずそこに佇んでいる。悪あがきに息を殺してみる。先ほどより体温が数度上がったような気がした。
障子の境目に貼った結界の札にちらりと目をやり、それが未だ効力を持ち続けていることを確認してから手元の資料に目を戻す。曲がりなりのも付喪神を束ねる力が、そう簡単に破られてなるものか。
「主。そこに居るのはわかっているぞ」
「……」
「そちらから招かれぬと開かんのだが。この障子をたたっ斬ってよい、という命令と見なすが、よいな?」
「〜〜っもう!」
この一角にかけた結界を解き、屋敷中に音が響き渡る勢いで障子を開く。と同時に、「仕事中だって言ったでしょ!」というわたしの悲痛な叫びも、夏の喧騒に負けず轟いた。
「はっはっは。よいよい、人も刀も威勢がよいのはいいことだ」
障子の向こう側には確かに予想通りの人物が待ち受けていたのが、その姿はあまりに驚嘆を禁じ得ない風貌で、わたしを絶句させた。
「いやはや、肌付まで濡れてしまってな」
「どうしたの!?」
「先ほど、短刀たちがびにーるぷーるとやらで水浴びをしている横を通りがかった時にな。水鉄砲で、こう、ばぴゅんと、やられてしまった」
いったいどれほど強力な水鉄砲を食らえば頭の先から爪先まで、しっかり水が滴るほどに濡れてしまうんだろう。彼らに水遊びの道具を買い与えたのは他ならぬわたしだけれど、上等な狩衣を着た太刀を濡れ鼠にさせる目的では決してなかったはずだが。
「早く着替えなよ」
「そうなのだが、布が体に張り付いてな。一人ではどうにも」
「……これを書き終えたら行くから。先にそっちで待っていて」
「すまんな、助かる」
彼との出会いは、まだわたしが新米審神者だった、言ってしまえば知恵も資金も戦力もなにもかもが不足していた頃。
まさか右も左もわからぬ状態で、天下五剣のひとつがやってくるとは予想だにしなかったわたしは、彼の価値も、その性質もわからず、兎にも角にも当時は驚きの連続だった。
駆け出しの頃から本丸を支えてくれたことはありがたいことだし、彼なしではここまで来られなかったと言っても過言ないのだが、身の回りの、たとえば着替えだとか髪を整えるだとか、生活する上で出来て当然という行為を不得手とするのは、どうにかならないものかと思う。
思うだけで特に手を打つわけでもないわたしは、内心では彼の女房のように世話を焼くことも満更ではないと、かえって心地よいくらいに感じているのだろうか。
前に、彼らの一人が言っていた。人の心とは、間際なく雨を叩きつけ、幾重もの風が混ざり合い、その行方を読めず、複雑な動きでもって周囲を翻弄する厄介な台風に似ていると。だとすれば最期には、自分自身を御することも出来ずにあらゆるものをなぎ倒し、消えてしまう定めということになるが。
筆を置き、判を押し終えると、ようやくわたしは重い腰を上げ仕事場を後にする。渡り廊下を歩くときすれ違った次郎太刀からはほのかに酒の香りがした。この暑いのに、昼間から酒盛りとは如何なものか。
「入るよ。いつまでもそんな格好でいたら風邪……は、引かないか」
「病にはならんが、居心地が悪くてなぁ」
「でしょうね」
部屋で待っていた彼は、雨合羽を着た幼子のように両手を広げ、目が合うと柔らかく笑ってみせた。
狩衣とは実に難解な装束で、彼が渋るのも頷けるほどに、脱ぐのも着るのも大仕事なのだ。これほど上等な布を重ねて纏えば重さも相当だろうに、涼しい顔で戦に出向き誉までもぎ取ってくるのだから大したものだ。
「女中を雇おうかな」
「なに、主が手ずからしてもらう。だからこそよいのではないか」
「勝手なことばかり言って」
促されずとも脱がせやすいようさり気なく腕を上げたり裾を掴んでくれるあたり、世話をされることに慣れている、というより論を俟たない当然の行為なのだろう。刀も人と同じように、見目ではなくこうした日常の立ち居振る舞いにこそ身性が出るのだ。
胸元の装飾品を外し、一枚一枚、水を吸い一層重みを増した布を脱がせていく。剥ぎとっても剥ぎとっても水気を含んだ感触が続くので、なんだか可笑しくなって、二人で肩をすくめて笑ってしまった。
最後に残った黒の肌着も、やはりというかなんと言うか、ぴたりと肌に張り付いて小さな凹凸も見逃さないほど身体の形状を露呈させていた。普段は着込んでいて目立ちにくいが、この男は存外に逞しい体躯をしているのだ。
胸に手を当て、我にも無く隆起した胸板を見つめていると、わたしの視線が向かう場所に気づいた彼が、満更でもなさそうに目尻を下げた。彼の身体は真夏の暑さに晒されようとひねもす冷えている。
「気になるか? いいぞいいぞ、触ってよし」
「もう、ふざけてないで。後ろを向いて」
「うむ。……なぁ、主よ。俺ばかり裸にされてはあんふぇあではないか?」
背中を向けたまま首を回して問いかける彼の目は至極楽しそうだ。"アンフェア"なんて、そんな外国語どこで覚えてきたんだろう。ときどき彼らは覚えたての言葉や道具を駆使してわたしを驚かせる。
「どうしてわたしまでびしょ濡れにならなきゃいけないの」
「なに、水をかぶる必要はない。脱げばいいだけだろう?」
カミサマ特有の傍若無人な主張には無言を持って制するのが一番だ。上半身の衣類をすべて取り払ったら、柔らかく清潔な布で水滴をぬぐってやる。
雲のない夜のドライブで、走っても走っても月が追いかけてくるように、わたしの一挙手一投足を三日月の瞳がついてまわるので、なんだか無性に緊張した。
襖一枚隔てた向こう側では、短刀たちが性懲りもなく水遊びをしてはしゃぐ声が蝉の合唱に混ざって聞こえ、わたしたちの居るこの一角だけが夏の只中から追い出され、季節も時も概念すら消失した蠱惑的な異空間に放り込まれたような奇妙な心地がした。
おかしなことに、時折彼の傍にいるとこのように意識が遠退いて、どこか別の世界へ飛ばされてしまうのではないかと畏怖するのだった。
「暑くて気が遠くなってきた」
「俺の知っている夏は暑さなどないぞ」
「天下五剣の休暇はアラスカで過ごすの?」
「あらすかとな?」
「外国の、すごく寒いところ。バナナが凍って釘が打てるくらい」
「はっはっは、それは難儀だ。俺なら、蝉の鳴き声も、陽射しの眩しさも、木漏れ日の心地よさも、主も、すべて連れて涼しい夏とやらを作ってやれるのだがな」
思わず「わたしも?」という言葉が口から溢れる。すぐに「主も」と当たり前のようにこだまが返ってきた。
「なまえが、望むなら」
決して知られてはいけないと上から強く命じられていた真名が、あろうことか彼の唇によって紡がれるのを、まるで他人事のように眺めていた。誰一人として打ち明けたことはないのに。こともあろうに、どうして、彼が。
瞳の底に宿る妖しい三日月が、いっとう強い閃光を放った。眩しさにきつく目を閉じ、恐る恐る瞼を上げれば、そこには穏やかに微笑む三日月が数秒前と変わらず佇んでいるはずなのに、何か決定的に違っていると思わせる違和感が漂っていた。
違和感の正体はすぐに看取できた。周囲を見渡すと確かにここは本丸で、天井のシミの場所まで同じなのに、先ほどまでの騒がしさは消えさり人の気配すら感じられない。
恐ろしいことに庭では季節外れの桜が舞っている。
「なに、これ……みんな、どこにいるの」
季節がどうという以前に、そもそもこれが現実なのかどうかも疑わしい。先ほどまでの全身にまとわりついていた汗はすっと引き、しかしそれでいて、耳を澄ませば遠くで控えめな蝉の音が聞こえるし、大気の香りからは夏独特の緑が茂る青さが感じられた。
「どこでもないし、どこにだってなり得る。なまえがそれを望むなら」
三日月の唇がわずかに窄められ、まじないの一過程かのように「ほう」とひと呼吸ぶんだけ息が吐き出されると、あきらかに自我を持っていると思われる風がわたしの羽織を吹き飛ばした。
呆気にとられる暇すら与えられず、生ぬるい風によって、あるいは実態を持たぬ何かの力で、するりはらりと百合の花びらを剥く要領で身にまとうあらゆる衣類が脱がされてゆく。
そうして全てが済むと、三日月は満足した唸り声を上げて鷹揚に微笑んだ。
その悠長な表情とは裏腹に、ついと小気味よく右手が伸びてきて、わたしの頬にふれた。
まず包み込むようにひと撫で。次いで水面を撫でるように中指のみが頬を下ってゆく。顎にたどり着くと、猫でも愛でる要領で顎の下をくすぐる。
三日月が「よいよい」と繰り返すのを遠のいた意識の中で聞いていると、ここがどこで、自分がどのような状況におかれていて、いったい何をされているのか、なにもかもが案ずるに及ばない事柄のように思えた。
心地よさに身を任せ、乱れる呼吸を隠すこともせずに瞼を下ろす。どういうわけか、ここでは「そうすべき」な気がしたのだ。
顎の下をくすぐっていた指が、喉を滑り、鎖骨の山を越え、胸の上で停止した。
揉みしだいたり、突起を摘んだり、よがる反応を楽しむような手つきとは裏腹に、彼の表情は露ほども変わらず緩やかな笑みを湛えている。
「…っひゃッ、あぅ、……みか、づき…っ」
「うん?」
彼の舌が鎖骨と胸の境目をなぞった瞬間、甘い痺れを伴う快感が背骨を伝い上がってきて、どこからか嬌声が聞こえてきた。それが自分の口から放たれたものだと気付くまで、軽く喉がかすれるほどの時間を要した。
背に手を添えられ、ゆるやかに床へ寝かせられる。長い髪が畳にふれるときの音だけが妙に鮮明に聞こえた。
乳輪の境目を舌先でなぞられ、一方で掌は徐々に下方へと降りてゆく。脇腹を指の背で撫ぜられた時、鷹の声を耳にした兎のようにピクリと腰が浮いてしまった。それを見て彼が笑う、その気配のみを感じ取る。
彼の手は女性的とすら感じさせる美しい線により完成されているが、実際にふれられるとその骨ばった雄々しさに驚かされた。紛れも無く男の手だ。
その存外に節くれ立った指が臍の下からツツ、と下り円を描くように入り口をときほぐし、緩々と内部に侵入してくるのを、どこか他人事のように受け入れていた。完全に根本まで埋まりきると、指の腹で最奥を擦る要領で動かされる。針金のように足を伸ばし快感が過ぎ去るのを待つしか、わたしに許された動きはないように思われた。
「そろそろ、よい、な」
引きぬいた指を舐めながら問いかける彼は、常時とさほど変わらぬ様子だが、よく見ると目元がほのかに色づいていた。
彼も情欲に及ぼされるようなことがあるのか、と妙な感慨深さを覚えているうちに、足を高く持ち上げられ、粘膜につるりとした物体があてがわれたのを感じた。
そうして限界まで開脚させられ、彼が自身を突き立てた瞬間、わたしはなんの迷いもなく神に貫かれたのだと悟った。
腹の底が押し上げられるほどに深々と突かれたかと思えば寸前まで引きぬかれる。腰を引くたび、膣口がめくれ上がりいやらしい水音が響き渡る。それが幾度も繰り返され、やがてもどかしい寂寥感がやってくる。
赤い舌が内太腿を伝うのを見た。脚を舐められた、ではない。三日月とまぐわう、わたしに瓜二つの女の姿を、傍らで見下ろすような心地なのだ。
「ふうぅっ、…ぅっ! ッ…、あっ、ぁあん、あぁっ…っ!」
体内を鋭くえぐられるたび、まるでスイッチを押される要領で自分の意志とは無関係にふしだらな喘ぎが漏れる。頭上で両手を抑え付けられているせいで口を覆うことも身体を隠すことも出来ない。いっそ口付けで塞いでくれればいいのにと捨鉢な願いを抱いた瞬間、三日月の口端が妖しく釣り上がり、腕を掴まれたかと思えばたちまち上体を起こされ、挿入したまま彼の膝の上に乗せられた。
「ぃっ……ひゃぁッ、んっ、んぅっ……もっ…ぅ、」
「なまえから口吸いを望むとは、嬉しいな」
「……んっぁ、…んっ、……ふぁ、っぁあっ」
舌先で前歯をなぞる程度の、戯れの接吻だった。完全に唇を覆われていないせいで、隙間から唾液と嬌声が一緒くたになってこぼれ落ち、太腿を汚す。
体勢が変えられたことにより、先ほどより深く挿し込まれて、うまく呼吸が出来なかった。苦しいのに気持ちが良いなんておかしなことだ。ここではおかしなことばかりが起こる。
三日月の隆々とした肩の盛り上がりの向こうに広がる庭では、突風で桜が舞い上がり桃色を散らしているかと思えば、次の瞬間には若葉に変わり、紅葉、粉雪。
神が知り得る、あらゆる美しさのなかでもとびきり気に入ったものだけを掻い摘み、そこに広げたような光景だった。そうしてわたしは、なかでも殊更美しい造形の男に抱かれているのだ。
「美しかろう。其方が望むなら、どんな庭でも作ってやれるぞ」
耳朶をねぶられ、囁く彼の声により鼓膜を直接犯される思いだった。
いくら実体のある肉体にふれ、体内に迎え入れさえしても、夏の陽射しを掴むような心地がつきまとうのは、彼が人間ならざる者であり、さらに言えばそのなかでも限りなく神に近しい部類だからか。わたしが審神者としての力をどれだけ高めようとも、彼の心の庭に踏み入れることは叶わないように思え、途方も無い心もとなさに襲われた。
「ぁあ…あっ、ん……、み、みか、づきぃ、みかっ、ね…っぇ…、みか、づきぃ…っ」
途切れ途切れになりつつも名を呼び、頬に手を伸ばす。すぐに上から彼の手のひらが重ねられ、雪兎でも保護するかのように包み込まれる。
「あぁ、この三日月宗近は其方のものだ。ここではただひとつの苦しみも、難儀な勤めも、憂いもない」
薄ぼんやりとした意識の中で彼の声を聞きながら、身も心も、すべてを三日月に委ねようとしていた。ふたりきりの世界も、いいかもしれない。自暴自棄とは違う、例えるなら花の甘い香りに引き寄せられる蜜蜂に似ている。
ならばわたしは蜜蜂になろう、ふわりと目を閉じかけたその瞬間、庭から嵐のような突風が吹抜けて、青空に浮かぶ入道雲の中から、鳥のような生物が近づいてきているのが見えた。鶴だった。わたしは鶴が飛ぶところを初めてみた。
鶴は徐々に近づいてきて、嘴で布のようなものを咥えていた。翼が空を切る音が聞こえるほど近づく頃、それがわたしの気に入りの羽織であることに気がついた。羽織についた胸飾りが日光を反射したその瞬間、ここに誘われたときの閃光に負けないほどの眩しさがあたりを包みこんだ。
同時に腹のなかで一層硬さを増した剛直が熱い迸りを弾けさせ、臍のあたりから焼けつくような痺れが走る。
三日月が口惜しそうに眉尻を下げた笑みを浮かべ、なにか呟くのが見えた。声を出したかどうかはわからない。風が枝葉を揺する音も、かすかな蝉の声も、絶えず自分の唇から漏れていた淫らな吐息も。聴覚器のみが別の次元へと移行しているように、一切の音という音が遮断されてしまった。
聴覚のみならず視覚さえも奪われ、次第に五感のすべてが霞の向こう側へ消えていく。死とはこのような無力さと漆黒の中、しめやかに訪れるものなのだろうかと、まるで他人ごとのように思った。
「――じ…、……主!」
「…………っ、……ぇ……鶴、丸?」
「よかった、やっと気がついたか。驚いたぜ、屋敷の中で結界貼ったままぶっ倒れてるんだもんなぁ。悪いが障子はこの通りだ」
促されるまま鶴丸の視線を辿ると、そこには見るも無残な状態の、障子というより和紙と木くずの細切れが山をなしていた。
あらためて周囲を見渡してみる。すでに夜の帳が降りてはいるが、間違いなくここは"わたしの知っている"本丸で、餌をねだる小鳥が群がるように、鶴丸の腕の中で横たわるわたしの周りを囲んでいた。目に涙を湛える者、ほっと肩をなでおろす者、喜びに歓声を上げる者、表情は様々だが皆わたしを案じてくれていたのだということが深く厳しく胸に伝わり、不甲斐なさとあたたかさがこみ上げてくる。
そして、それと同時に部屋の惨状に疑問が浮かぶ。口を開いたところで、わたしの肩に手が置かれた。真っ黒な手袋越しにも伝わる、心配という温もりだ。肩越しに振り返ると、そこには蜂蜜色した瞳を悩ましげに細めた光忠がいた。
「無理は禁物だって、あれほど言ったのに」
「光忠。……ごめんね」
「うんうん。しばらく避暑地で休暇でもとろうよ。僕と一緒にさ」
その隣にいつの間にか立っていたにっかりがお得意の軽口を吐くも、どこか硬くてぎこちなく聞こえた。彼も心配してくれていたのだろうか。
「それも、いいかもね」
気が抜けたわたしのいい加減な返答に、粟田口の一部からは不満の声が湧き上がった。泣きながら大丈夫か、もう無理はしていないか、と縋る五虎退たちの背を撫でながら、先ほど言いかけた問いは腹の中へとしまい込んだ。
他愛ない言葉を交わして日常の手応えを取り戻しつつ、光忠からコップを受け取った。冷水の鋭さが喉に迫る。この雰囲気の中で、疑問を口にするというのは野暮というものだろう。
すべては夢だったのだ。暑さが魅せた質の悪い幻。
そう思い込もうと深呼吸をひとつしたところで、並ぶ顔ぶれにただ一人、"欠け"があることに気がついた。
「……ねぇ、三日月は?」
「三日月ならさっき万屋に行ったとこだぜ。熱病の審神者に氷菓子でも〜とか言ってたな」
「そう……」
「どうかしたか?」
「うんん。なんでもない。もう大丈夫、みんなありがとう」
もう少し眠っていろと案じる彼らの制止を振り切り上体を起こすと、かけられていた羽織がするりと落ち、拍子になにか、桃色の、紙屑のようなものが、はらりひらりと畳に落ちた。
まさか。そんな。震える指先でつまみ上げる。潤ったはずの喉が、一気に干乾びたように引き攣って喉を鳴らす。鼻先にふれるほどの距離で見つめる。見つめて、見つめて、いっそ穴が開いて、消えてしまえばいいと願う。
それは、桜の花びらだった。
「――主。無事戻ったのか」
真後ろから声をかけられて、叫び声も忘れてコメディドラマのように肩が飛び上がる。戻ったばかりの三日月の手には、件の氷菓子が薄い袋越しに汗を掻いていた。
口元には妖艶さすら漂う美しい笑みを浮かべていて、今はその眩暈がするほどの美しさに、ぞわりぞわりと背筋に冷たい何かが這う。
「お、お帰り、なさい。三日月」
「あぁ。良い氷菓子が手に入ったぞ。皆で食べよう」
きゅう、と左胸の服を握りしめ、心を落ち着かせていたわたしは三日月が放った言葉の違和感に気付く余裕もなかったのだ。
――後の事だが、彼の瞳をどれほど覗きこんでも、あの目がくらむような三日月の耀きは見当たらなかった。
SpecialThanks&HappyBirthday T夜ちゃん(2015.08.10)
喘ぎ声いれるの苦手だけどがんばりました
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