昼休み、友人とのなに気ない会話も、話題のせいか切なさを帯びている。


「転校先の中学校って、どんな制服?」

「普通のセーラー服だよ」

「普通って?」

「暗い紺色のスカート」


去年の今頃は泊まりで遊びに行く計画をしてはしゃいでいたのに。でも、どのみち今年は受験前最後の夏だから遊んでばかりもいられなかったかな。

受験生にとって夏休みは特別だ。
ましてやその大切な中学三年の夏休みを前に転校なんてありえないしどうかしている。ほんとうに、どうかしているのだ。


「君下〜! 辞書貸して!」

「はあ? またかよ」


今日も別のクラスのサッカー部員たちが我が物顔で教室に入ってきて、あっくんの机の周りをスクラムでも組む勢いで集まってきた。
一連の様子を何の気なしに目で追ってみるが、彼の顔はサッカー部員の背中に隠されて伺えない。

チャイムが鳴ったのを合図に部員たちが去っていくと、あっくんはやれやれといったふうにため息をつき、手元のノートに視線を移した。


最近かけ始めた眼鏡は賢い彼をより賢く見せ、冷徹な印象さえ抱かせる。

ほんとうの彼を知っているわたしですら近寄りがたい雰囲気を感じるのだ、当然ほかの女子には敬遠されていた。
わたしたちの関係を人づてに聞いた女子から、伝書鳩として使いに出されたことさえある。とは言え、わたしたちの関係だなんて大げさに括るほどのものでもないのだけれど。

あっくんとわたしは、ただの幼なじみだ。
家が近所で同じ学年となれば、親しくなるのは当然の成り行きで、親同士の付き合いもあり、昔は毎日のように遊んでいた。小学校を卒業して以降はなんとなくぎくしゃくした関係になってしまったけれど。

ぎくしゃくした関係、とやらになってしまったきっかけは、中一の体育祭。
バスケの試合の後、同じクラスの男子が「負けたのはお前らのせいだ」とわたし含め数人の女子を罵った。そこを偶然通りがかったあっくんがかばってくれた、まではよかったのだけれど、今度は「君下はこいつと付き合ってるもんな」などと冷やかしの言葉をあびせられた。

これほどわかりやすい挑発はない。無視したらいい。わたしは冷静だったと思う。
ところが、あっくんが血相を変えて「付き合ってねーよ、誰がこんなやつと!」と強い返しで応じてしまったので、余計にはやしたてられ、先生が仲裁に入るちょっとした騒ぎにまで発展してしまった。

そんな一件もあって、わたしたちは今じゃ小指がふれるくらい間近ですれ違っても知らんぷりをしている。なんでもない大勢のうちのひとり、フルネームすら知らない誰か、みたいなふりをして。

年頃の男女にはよくあることだと母は言っていた。わたしもそう思う。ただ少し、さみしい。こんな状態でさよならをするのは、もっとさみしい。
鬼ごっこの最中に手を繋いで走ったり、サッカーボールを蹴る彼を日がな一日眺めていたのが数年前だなんて嘘みたいだ。

それに、あっくんはサッカー部の有名人で、気軽に話しかけることさえ許されない、ように思う。なにしろわたしは彼にとって「こんなやつ」なのだと胸の内で卑下してみたりする。

母の言う通り、第二次性徴期がもたらす内外の変化に伴って現れるアレルギー反応、みたいなものなのか、あるいは単にわたしのことがうっとうしくなったのか、客観的に見極めるすべがない。きっと永遠に知ることはないのだろう。


クラスメイトからもらった寄せ書きには、ほかの男子と一字一句変わらず「お元気で 君下敦」と書かれていた。
わたしたちは彼が言ったように「付き合ってねーよ」だし、今では友達ですらないけれど、この十数年の結実が、消しゴムを拾って「ありがとう」とお礼を言ったきりのクラスメイトと同じたった五文字だなんて、さすがに虚しい。


「さみしくなるね」


帰り際、親友がぽつりと呟いた一言が、いちばん効いた。




 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇




「これ、敦くんのお家に持って行ってくれないかしら」


駅前のケーキ屋さんのシュークリーム。敦くん、好きだったわよね。
呑気な母の声を聞き流しながら、ダンボールに冬服を詰め込んでいく。

もしかしたらどれも引越し先の冬では必要ないかもしれないが、まだ全てを捨てるには惜しい。これはいる。こっちは捨てよう。

引っ越しの準備はそのほとんどが断捨離で、たえず小さな決断を迫られる。ときには「やっぱり」と思い直してゴミ袋を漁ってみたりする。人生と違って後戻りできるのがいい。


「今忙しいから無理」

「なにが忙しいのよ。さっきから全然進んでないじゃない」


引っ越しを一週間後に控え、そろそろ本腰を入れて荷造り始めなさいよ、じゃないと置いていくからね、なんて半ば脅迫めいた命令を言い渡したくせに、今度はこの炎天のなか外出しろと言う。大人はときにもっともらしい理由をつけて理不尽を突きつけるのだ。


「お母さんが行ってきてよ」

「お友達でしょう。ちゃんとお別れしてきなさい」

「……話すことなんてないし」

「いいから」

「い〜や〜だ〜」




押し問答の末、最終的に根負けしたのはわたしのほうだった。

キミシタスポーツは当時よりも看板の老朽化が進んでいるようで、ところどころ錆たりペンキが剥がれていた。
店先まで来たものの入るのは躊躇われる。ほぼ毎日顔を合わせていても話をするのは久しぶりなので、ある程度心の準備が必要だった。つまり、勇気がいるのだ。立ちすくみ、苦しまぎれに、保冷剤はどのくらい持つだろうか、などと考えてみる。

どこに潜んでいるのか、降りしきる蝉の鳴き声は頭痛を催すほどだ。街路樹とともに並ぶ向日葵と、青すぎる空の鮮やかなコントラストが店のガラス戸に映り込んでいる。汗が一筋、頬を伝った。

もうこのまま帰宅して「いなかったよ」と言い訳しようか。踵を返そうとした瞬間だった。


「なに突っ立ってやがる」


逡巡しているわたしの背中に不機嫌そうな声がかけられた。
見れば、さらに不機嫌そうな顔の彼がすぐ真後ろに立ちはだかっていた。どうやらほんとうに不在だったらしく、彼の手には買い物袋がぶらさがっている。


「あの、うち、引っ越すから。お母さんが、挨拶に行きなさいって。……これ」


彼が無言でこちらを見下ろすので、悪ふざけを咎められた子供の口ぶりになってしまった。

紙袋を差し出してもあっくんは受け取る素振りを見せず、しばらくわたしのつむじを睨みつけていたが、

「上がれよ」

と、無愛想ながらも招き入れてくれた。


てっきり店内か居間に通されると思ったが、彼はその奥、自室へ続くなつかしい階段へと足を進め、こちらを振り向きもしない。仕方なしについて行く。軋む階段をのぼりながら、緊張で平衡感覚を失いかけていた。


「ちょっと待ってろ」

と言ってわたしを座布団に座らせると、彼は麦茶のグラスが二つ並んだお盆を持ってすぐに戻ってきた。


「わざわざいいのに」

お礼を言ってから、グラスを包み込むように持ち、一口。あいかわらず、薄い。
なつかしい麦茶の味をかみしめていると、彼はシュークリームの箱を開け「ほら、一つ取れ」と促した。


「え。わたしもいいの? お父さんのぶんは」

「三つ入ってた。一つはお前のだろ」


お母さん、最初からそのつもりでわたしを寄越したんだ。なんてひとだ。これだから、大人は、ずるい。


「じゃあ、いただきます」


思い返せば、あっくんのお家で飲み物やおやつを用意してくれたのはいつも彼自身だった。

おやつに限らず、彼はほかの家事も率先しておこなっていたし、いつだったかわたしが「お腹すいた」と駄々をこねたときは、不格好な卵焼きを作ってくれたっけ。甘いんだかしょっぱいんだか不思議な味のそれを思い出しながらシュークリームを頬張ったせいで、カスタードクリームからかすかに卵焼きの風味がした。


「あっくんのお部屋、久しぶりに入ったなぁ。あんまり変わってないんだね」

「それほど久しぶりでもねえだろ。ニ年か……三年か」

「そうだっけ。あ、この漫画好きだったな〜」


彼は昔からあまり物を持っていなかったけれど、このサッカー漫画だけは特別気に入って、お年玉と少ないお小遣いを捻出して全巻揃えたのだ。わたしもときどきおじゃまして読ませてもらった。彼と同じ背番号10を背負う、気難しい少年が好きだった。漫画の話題にはじまり、あっくんがリレーの選手に選ばれた運動会のこと、プールの帰り道雷雨にあって泣きながら自転車を漕いだこと、飼っていたハムスターがしんでしまった日のこと。
失った数年の穴埋めをするみたいに、わたしたちはぽつりぽつりと思い出話に花を咲かせた。
いざ話してみると思いのほかぎこちなさはなく、お互いを隔てていた見えない壁はきれいに取り払われていた。

学校の外で人目がなければ上手におしゃべりできたのだろうか。
今さらながら、わたしたちを変えてしまったのは、女子は女子、男子は男子で、水と油のように別れて行動すべきという、教室内での不文律だったと思い至った。
馬鹿だった。そんなもの気にせず、もっと普通に話をすればよかったのに。


「いつだ」

「え?」

「いつ、引っ越すんだよ」

「あぁ……一週間後だよ」

「……」


あっくんは考えごとをするブロンズ像の姿勢で黙り込むと、やがて机の一番下の引き出しを探りはじめた。
「なにしてるの」という問いかけにも答えてくれない。

そして、なつかしい豚の貯金箱をとりだすと、片手でそれを掴み、頭上に振り上げた。

あ、と声をあげるよりも早く、豚は学習机に向かって真っ逆さま。沈黙を突き破るけたたましい破裂音。薄ピンクのお腹から飛び散るコインの血飛沫。折りたたまれた千円札の腸は色褪せしなびている。
店番をしてわずかなお小遣いをもらうたび、少しずつ肥えていったあっくんのだいじな子豚ちゃんは、見るも無残な死体と成り果て転がっていた。

言葉を失うわたしに、彼は感情の読めない、深い瞳で囁く。


「今夜、抜け出せるか」




 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇




昼の暑さを置き去りにして太陽だけが眠ってしまった。
煌々と輝く満月が、闇に紛れるわたしたちを照らし出し、その悪事までもを浮かび上がらせてしまいそうだ。

虫の音に支配された夜の帳を掻き分けて、忍び足で待ち合わせ場所に向かう。
こっそり家を抜け出すなんて初めてのことで、罪悪感と不安と好奇心が入り混じり、みぞおちが痛むくらいに心臓が高鳴っている。

夕食のときは両親と目も合わせられなかった。ばれたら叱られるだろう。「いったい何を考えているの」と罵る母の顔が瞼の裏に浮かんだ。
わたしだってあっくんが、なにを考え、なにを思ってこんな暴挙に至ったのかわからない。むしろ君下敦という人物はこういった誘いを固辞する側の人間ではなかったか。

あれこれ思考を巡らせながら歩いていたせいか、身体の感覚がどうもおかしい。ほんとうに足の裏が地に着いているのか確認したくなるほどの浮遊感に酔いそうだった。


待ち合わせ場所にはすでにあっくんが立っていて、その傍らに自転車が駐められていた。
彼はわたしを見とがめて開口一番、

「必要最低限の荷物っつったろーが」と眉根を寄せた。

「だってえ〜」

「ばっっかやろう、でけえ声出すな!」


そう言うと(声がでかいと咎める、彼のその声のほうが大きい)、後ろから抱き寄せるようにしてわたしの口元を手で覆った。
周囲をきょろきょろ見渡していたが、すぐに自分の行動の大胆さに気づいたらしい。


「わり……」

と気後れした声音でわたしを解放した。

つかの間ふれていた背中から、あっくんの体温が伝わってきて、着替えたばかりの服に汗が滲んでいく。



そうだった、これは二人だけの秘密の計画。意識した途端、動悸が激しくなった。


「あっくん」

「あ?」

「あっくん」

「……なんだよ」

「あっくん」

「用もないのに呼ぶんじゃねえ、タワケが」


明後日の方を向く彼の、尖った唇だけがやけに目についた。昔から照れたときにこうするのが癖だった。


「後ろ乗れ」


あっくんはわたしのパンパンに膨らんだリュックとトートバッグをカゴに積み上げると、自転車にまたがり「さっさとしろ」と促した。

こわごわ足を上げ荷台に乗れば、呼びかけもなしにぐんとひと漕ぎで急加速。危うく振り落とされるところだった。
とっさにあっくんのTシャツを掴んでしまったが、これではあまり安定感がないので、前方に腕を回し、控えめながらもしがみつく。


「なんか久々だね、こういうの」

「そうだな」

「……あっくん、わたしね。ずっとさみしかったよ」


背中に顔を埋めて、聞こえるか聞こえないかくらいの声量で呟いてみる。返事はなかった。でも耳は赤いし、きっと唇は尖っている。それで十分だ。


自転車は大荷物を乗せているとは思えない速度で夜を切り裂いていく。
どうやら駅のほうへ向かっているようだ。その先はわからない。

途中の長いのぼり坂では荷台を降りて、後ろから自転車を押した。くだりの直前でタイミングよく自転車に飛び乗れたのはほとんど奇跡だ。

慎重派のあっくんがブレーキもかけずに猛スピードで坂道をくだっている。それも、二人乗りでだ。


「ね。どこに向かってるの?」

「さあな」

「え」

「どこだっていいんだろ」


そうだ。ふたりなら、どこへだって。あっくんの気丈な面持ちには、見誤りようのない心強さがあった。

自転車を停めたのち、どういうわけか駅から遠ざかっていくあっくんに声をかけつつ、携帯を確認する。
親からの連絡はない。少なくとも明日の朝までは気が付かないはずだ。影武者としてありったけのぬいぐるみを布団のなかに忍ばせてきた。


「あっくん、改札って逆方向じゃない?」

「いーんだよ、こっちで」


素っ気なく言い捨てると、一人でずんずん進んでいってしまう。その手にはわたしのリュックとトートバッグがぶら下がっていた。

相当に重いはずだ。あのなかには二日分の着替えと、ヘアアイロン、さらに読みかけの本まで入っている。


「……」

「ったぁ! も〜いきなり止まんないでよぉ」


軍事パレードの足並みを思わせるあっくんの足は、突然ぴたりと静止した。

後を追っていたわたしは立ち止まったものの間に合わず、彼の背中に思い切り鼻の頭をぶつけてしまった。
鼻を押さえながら鋭い眼差しの先をたどる。道路を挟んで少し離れたところに交番があった。


そう言えば去年の夏休みに、隣のクラスの男子が夜道で補導されたという噂が流れていた。ぼんやりとそんなことを思い出すが、もしかしてわたしたちも、今見つかったら同じことになるのだろうか。中学三年の夏に同じ轍を踏むのはまずい気がする。

たしかに受験生の夏休みのありようとしてふさわしいとは言いがたい。けれど、なにも犯罪をおかすとか、人を傷つけているわけではないのに。

親のみならず社会的に見ても、わたしたちの行為はそれほどに許されないものなのだろうか。

どうしようもない鬱憤を募らせながら、息を殺して交番の入り口を見つめていると、中から数人の警察官がぞろぞろと出てきて、そのうちひとりがこちらに目をやった。気がした。


「走れ!」


あっくんはわたしの手首を掴むと、暗い脇道へ駆け出した。
街灯の間隔はとても長くて、足元が見えるかどうかといった状態なのに、あっくんに引かれるがまま全力疾走だ。いつ転んでもおかしくない。後ろを振り返る余裕はなかった。

去年のマラソン大会くらい走ったと思う。比較的明るく広い道に出たところでようやく立ち止まった。

後ろから追ってくる気配はない。さすがのあっくんも息が乱れている。両膝に手をつき、呼吸に合わせて肩が上下していた。


「ハァ、ハァ、……なんか、たのしーね」

「はぁ……? お前なあ」


鬼ごっこ、というよりも、この緊迫感は。

「駆け落ちみたい」

「ばっっ!」


夜道でもわかるくらい動揺が見てとれた。

あっくんは昔からポーカーフェイスを気取っているけれど、実際には万華鏡さながらに表情がコロコロ変わる面白い子だった。


「かじゃねえの……」


風船の空気が抜けたみたいに脱力するとその場に座り込んでしまった。サッカーの負け試合の後の風情だと言えば怒るだろうか。


「お前は、いいのか」

「なにが」


いらだちをつのらせた表情で、わたしの鎖骨のあたりを指差し、

「俺が、お前を、連れ去っていいのかって聞いてんだよ」

と、語気を強めてそんなことを言う。


連れ去るなんて、ますます駆け落ちみたいじゃないか。

母が熱心に見ていた昼のドラマを思い出した。たしかあの物語はハッピーエンドじゃなかった気がする。あっくんみたいに面倒見のいい男の人が、道ならぬ恋の深みにはまっていくのだ。


「いいよ」

「簡単に言うんじゃねえよ。ちゃんと頭使って考えろ、ってめーは昔っからそうなんだよ、もっと思慮分別を持て」

「だって、あっくんだもん」

「……なにされてもいいのか」


あっくんにしては少し手荒なやり方で胸ぐらを掴まれた。そのまま身体を引き寄せられて、鼻の先がふれるほど間近で見つめられる。

正面から額を突き合わせ口づけられるかと思いきや、唇がふれるぎりぎりでブレーキが踏まれた。

あっくんは、崖を背に名探偵の謎解きを聞かされる犯人の目をしている。


「クソッ」

「ちゅー、しなくていいの?」


もちろんわたしは経験豊富な女子ではない。
こうまで泰然としていられるのは、彼のことをよく知っているからだ。

あっくんは、たとえ許可を出されたって、キスどころかわたしが全裸で迫ろうとも指一本ふれないだろう。

君下敦とはそういう人だ。

慎み深く、きわめて真面目。そこが彼の良さでもある。


「コロスぞ」


それきりそっぽを向いて黙り込むと、前ぶれもなく立ち上がり、またあの早足で歩き出してしまった。


「待ってよぉ〜」



あっくんが向かったのはバスターミナルだった。

ベンチにわたしを座らせると、窓口の列に並び、二人分のチケットを手に戻ってきた。行き先はわからない。

コンビニで飲み物とお菓子を買ってから、連れられるまま車高の高いバスに乗り込んだ。シートベルトをしめると、間もなくしてバスは発車した。

かくしてわたしたちの旅は始まった。どこへだっていい旅の始まりだ。


「こういうバスってわくわくするね。おやつ食べていい?」

「……勝手に食えよ」

「あっくんもいる?」

「いらねえ」


優しいあっくんはさり気なく窓側の席を譲ってくれた。いつだったかの遠足で、わたしが車酔いしてしまったことを覚えてくれていたのかもしれない。

窓の外にはいかにも都会らしい夜の街並みが広がっている。夜景と呼ぶには若干至らないけれど、地上より一段高くなっている高速道路からの眺めは悪くない。
なにより、こっそり家を抜け出した夜の、とくべつな景色だ。なにもかもが輝いて見える。あっくんの瞳にはどう映っているだろうか。


「あっ、見て。ほら、あっち。聖蹟じゃない?」

「……あぁ、そうだな」

「あっくん、聖蹟行くんでしょ」

「……」


待てども返事はなさそうなので、構わず続けた。


「わたしもあの制服、着てみたかったなぁ〜」

「……新しい中学は、サッカー部強いのか」


驚きのあまり、あっくんの顔をまじまじと見つめてしまった。その話題はお互い、暗黙のうちに避けてきたように思う。

等間隔に並ぶ街灯が、古いシネマの映写機のように彼の横顔を断続的に照らし出している。やけに真剣な面持ちだ。


「どうかな。聖蹟のほうが強いと思う。だって、あっくんがいるんだもん」


思いがけずこぼれた本音は、喉の奥を焼き、胸を焦がし、声をふるわせた。

心のバスタブの栓が引き抜かれ、感情が流れ出してとまらない。

ずっと一緒にいたかった。
あっくんが楽しそうに、ときには痛々しいほどがむしゃらにボールを追いかける様子を、もっとそばで見ていたかった。


「泣くなよ」

「泣いてないもん」

「勝ち続けるから」

「うん」

「お前がどこにいても、どれだけ遠くに行こうとも、聖蹟の名前が耳に入るくらい勝ち続けてやる」


切々とした口ぶりが、彼の真剣さを物語っていた。


「ニュース見るね」

「ああ」

「だから、ヒーローインタビューで、大切な幼馴染のために走りました、って言って」

「はぁ? ふざけんなよ、てめえ……俺がどんな思いで……」

「あはは」


胸が締め付けられるほどの切なさをごまかそうと軽口を叩いて笑ってみたけれど涙はとまらなかった。

高層ビルのあいだを縫うように続く高速道路は、ゆるやかなカーブを描きながら、少しずつ確実にわたしたちをどこか遠くへ導いてゆく。




アンソロジー「オフサイド」に寄稿させていただいたお話です(2022/08/15)


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