「あぁクソ……っ」


 もう何度目か。数えるのもキリがないと途中でやめてしまったけれど。彼が「クソ」と悪態をつくたびに花びらをちぎっては投げちぎっては投げしていたら、ここは部屋ごと花びらのバスタブになっていただろう。

 なんとなく今夜だと思っていた。だって泊まりだし。慎重派の君下くんも手を出さないわけにはいかないはず。いい大人が付き合って三ヶ月、手を繋いでさよならのキスをするだけの中学生デートを続けていたのが不思議だったくらいだ。それに、なんといっても今夜はクリスマスイブなんだから。

 悩みに悩んで友達と選んだブラはこの通り、サイズも色味もぴったりだった。お風呂に入って、いい香りのボディクリームも塗った。肌は踵までつるつる。唇はぷるぷる。歯磨きも念入りにした。髪だって風呂上がりにアイロンで巻き直した。完璧……とまではいかなくとも、最善を尽くしたと言いはっても許される出来栄えだと思う。

 「あいしあう」とはどんなものなのか、お互い知らなくもないのだけど、彼のやり方を見るのは初めてだ。
 君下くんは先程から小鳥が木の実をついばむような、いじらしいキスばかりを繰り返す。その先を知るのが怖い反面、もどかしさが募ってゆく。性急で手荒なことをされたいわけじゃないにしても、このままでは朝が来てしまうどころかクリスマスも終わってお正月がきてしまいそうだ。


「君下くん」

「……んだよ」

「ね、そろそろ服脱ごうよ」

「はっ……ば、馬鹿野郎」


 そういうこと言うんじゃねえよ、タワケ、とかなんとかプリプリ怒ったふりをする君下くんの表情は髪に隠れて見えない。少し乱暴に抱きしめられて、髪をぐしゃりと撫でられた。彼の呼吸は浅く、肩がわずかに震えている。
 背中にまわされた凍える手はぎこちない軌道を描きながら首の骨の上で止まった。


「いいのか」

「やっぱりダメって言ったらしないの?」

「……しねえよ」

「え〜」

「………………大事にしてえんだ」

 小声で言いよどむ様子が可愛らしくて、いとしくて、つい意地悪をしたくなってしまう。


「ふぅん……つまり、君下くんのなかでえっちは大事にしてない子とするものなんだ」

「アァア゛?! 違っげえよ!……だからお前ッ、そういうこと言うなっつの……」


 クソ、と吐き捨てたその息はしっかりと熱い。

 「君下くんは優しすぎる」と言っても、元同級生の友人は、壊れたロボットのように大げさに首を振るだろう。
 わたしの知る君下くんは、誰がなんと言おうとやさしくて誠実なひとだ。わかりやすく目に見えた親切は苦手だけれど、困っている人がいたら見過ごせないし、もちろん好きな女の子を傷つけることもしない。それどころか、大事にしすぎてふれるのもためらうほどに。彼の心はシザーハンズの人造人間と同種の繊細さがあるように思う。


「やめちゃだめ。続けて」


 君下くんのぴちゅぴちゅついばむキスが好き。嘘じゃない。ちょっぴり子供っぽいのは否めないけど。でもいい。友達には言わない。女子会で話のネタにもしない。きっと彼もそうだろう。彼女とやったとかやれなかったとか、中学生みたいに逐一べらべら報告する男の子もいるが彼は違う。それに、ちゃんと深いキスだってしたことあるんだから。三回。

 今夜は四度目の深いキスを、いや、これからも記録を更新し続ける、今がその瞬間だ。彼にまかせてばかりいないで、わたしも少しは協力しないと。
 思いきりよくニットを脱げば、君下くんはぎょっとした顔のまましばらく固まっていた。石膏像のような頬にキスをする。一歩前進だ。


「ほら、君下くんも脱いでよ」

「っは、……てめ、なにす――」


 君下くんのてろてろのシャツを半ば無理やりに脱がせた。彼の服はどれも似たり寄ったりの柄物で、襟のあたりがくたっとしている。古代エジプトを彷彿とさせるデザインのベルトも外してしまおう。堅実な性格に反して昔から派手好きなのだ。

 自分から積極的に行動するのは苦手なはずが、子鹿のように震える君下くんを前にすると勇猛果敢な女になれた。取り乱す人を前にするとかえって冷静になれるのと似ているかもしれない。


「お前は……恥ずかしくねえのかよ」


 どうやら君下くんはひどく恥ずかしがっているらしかった。なんだか男女でリアクションが逆転しているような気がするけれど別にいい。恋人の数だけそれぞれのスタイルがあってしかるべきだ。

 もしかしたら彼は何ごともマニュアル通りにきっちり段階を踏んで進めていきたいタイプなのかもしれないが、だとしたらそのマニュアルとやらを二人で書き換えていこうじゃないか。
 そんな思いを込めてスカートのファスナーを下ろす。彼はわたしの一挙手一投足にどぎまぎと、胸の皮膚にハート形が浮き上がるような反応をしていた。


「恥ずかしいかな……わかんない。まだ裸じゃないから? あっ、ブラもはずす?」

「っ……いい! やめろ!! っ……それは、俺が……」


 恥ずかしくないし怖くない。だって彼は絶対にわたしを傷つけたりしないから。わたしは完璧な身体ではないけれど、君下くんは人のコンプレックスを笑ったり、それが理由で嫌いになるような男じゃない。

 嫌がれば脱兎の勢いで身体を離すだろうし、痛いことはしないってわかってる。たぶん頼まれてもできない。わたし、けっこうMっぽいとこあるんだけどな。君下くん、ぜったいお尻叩けないでしょ。あは。
 女性のお尻をスキンケアの仕上げの要領でやさしく丁寧に叩く彼を想像して笑ってしまった。


「は? てめ、笑ってんじゃねえよ」

「ごめんごめん、これは違うの」

「人が……どんな思いで……クソ」

「どんな思いで? 君下くん、今どんな気分? なにかんがえているの? おしえて」


 がしがしと頭をかきながら視線をそらす。横から見たときの、顎のラインが好きだ。それから、すこしとがった唇も可愛い。

 きっと君下くんは経験豊富なほうじゃないんだろう。
 サッカー選手はモテるし、君下くんはかっこよくていい人だから引く手あまたのはずなのに。彼は身体だけの付き合いなんて出来るタイプじゃないし、下手したらそこらの女子よりも心のつながりを大切にしているから、機会が少なかったのかもしれない。

 花びらをはぐように、繊細な彼の心の盾をとりさりたいと思う。一枚一枚、丁寧に、慈しみながら。


「……緊張してんだよ。悪りいか」

「わたしも」

「そうは見えねえけどな……お前はいつも……なんていうか」

「アホっぽい?」


 そうおどけて言えば、君下くんはふっと柔らかく笑ってわたしを抱きしめた。だいぶ肩の力が抜けたようで、包み込まれる手のひらからぎこちなさが消えてゆく。


「お前はいつもアホっぽくて……、幸せそうだな」


 独り言のように囁いて、わたしの顎に触れる。指先が頬を伝う。瞼の上をふれるかふれないかの力加減でなぞる。やさしい手つきがくすぐったい。
 アホとか馬鹿とかタワケとか、彼に罵られた言葉をイチから辿ったら際限がないけれど、そのどれもが本来の語意とは正反対の空気を纏っていて、言われると心の暖炉にぽっとやわらかな火種が灯される。君下くんのそばにいると、わたしの胸はいつだってぽかぽかのぬくぬくだ。


「いつもじゃないよ。君下くんと一緒のときだけ」

「言ってろタワケ」

「ほんとなのに」


 デコピンされたけど痛くないデコピンだった。やさしくて、子猫のおひげをちょちょい、と弾くような。
 眼と眼を合わせてふれるだけのキスを繰り返しているうちに、ごく自然な流れでブラが外された。いいよ、その調子だ君下くん! 頑張れ君下くん! 心のなかのもう一人のわたしは、着たこともないチアリーダーのユニフォームを着て、ポンポンを振り君下くんに熱いエールを送っている。


「……ね、君下くん」

「アァ? そろそろ黙れよ、萎えんだろうが」

「あっ。ごめーん」

「チッ……ムードねえな」

「あはは。いいでしょ、わたしたちっぽい。ロマンチックなのって、なんか似合わないし」

「……それもそうだな」


 悪態もつかず素直に認めるなんてめずらしい。どうやらほんとのほんとに緊張しているみたいだ。色んな意味で彼らしくない言動が続いている。
 君下くんは一人でこの状況を打開しようと健闘しているが、思うにこういうのは愛し合う二人の共同作業ではなかろうか。わたしに出来ることは少ないかもしれないけれど、彼の緊張をやわらげるくらいのアシストなら任せてほしい。おしゃべりは得意だ。


「ベッドに花びら撒いて枕元にキャンドル並べる? アロマも焚いちゃう? あわあわのお風呂入ってシャンパン飲みながらいちゃつく?」

「やめとけやめとけ」

「このブラ! 先週買ったの。どう?」

「どうって……」

「かわいい? ふつう? アリ? ナシ? おえーって感じ?」

「ア………………ピンクだ」

「色はわかってるよぉ。そうじゃなくって、キミシタジャッチは?」

「……………」

「ん〜〜? ちゃあんと答えてくれるまで続きしませーん。……チッタッタッ。この試合ロスタイムが長くなりそうですねえ」

「チッ……。ロスタイムじゃねえ、アディショナルタイムだ、タワケが」

「今のプレイはきわどいですね〜。どうですか君下さん。いやぁ〜どうみても入ってたと思うけどな〜線越えてたでしょ〜どう見ても〜。どう見てもさ〜。ふざけたロスタ……アディショナルタイムですねえ〜うんうん」


 わたしが一人二役の解説実況を演じているあいだ、君下くんは律儀にキスを中断して胡座をかき腕を組み、考えあぐねるふりをしている。彼が素直になるにはきっかけと時間が必要なのだ。


「…………………アリだ」


 一言だけどストレートな言葉がうれしかった。胸を真っ直ぐ貫いて、わたしの心をだめにしてしまう。

 めくばせするとキスが再開された。しかも今度はおなじみの小鳥ちゃんチッスじゃない、舌がくちのなかに入ってくる、深く複雑なくちづけ。奥歯の横をなぞられる。彼なりの流儀をさぐろうと、ひとまず身を任せ、くてんと転がしておく。舌の先をやさしく絡め取られて、君下くんの唾液が流れ込んできた。それを大事に飲み込む。特別な味がした。

 ほっとした瞬間のような、なにかを求めるときのような、ただならぬ吐息が自分の唇の隙間から漏れるのに気づき、一拍置いて驚いた。

 君下くんはキスしたままわたしをソファに押し倒すと、ゆっくりゆっくり指先を太腿に這わせた。きもち……悪くはない、しかし"いいか"と聞かれたら正直よくわからない。君下くんは片眉を上げて、隠されたスイッチを探る匙加減で太腿からお腹へ手のひらを進軍させてゆく。

 この感覚に一番近しい表現を選ぶとすれば、「くすぐったい」が適切だ。 さっきまで唇をついばんでいた小鳥ちゃんが落とした羽で肌の上をなぞられている感じ。
 ここで笑うとまた調子が狂うだろうから、笑い声と身体の震えを抑えようとしたら、なんだかそれっぽくなったみたいだ。

 覆いかぶさっている君下くんは、薄暗がりのなかで三日月型の瞳を煌々と浮かべていた。いつの間にか緊張より興奮が勝ったようで、息が荒く、なんとなく性急だ。密着しているお腹の辺りに、骨とは違った、ごつごつしたものが押し付けられている。まるで別の、知らない男の人みたいな眼差し。
 そうと気づけば途端に不穏の芽が吹出して心に根を這ってゆく。


「……おい」

「なあに?」

「お前、この期に及んでビビってんだろ」


 さすが君下くんだ。彼はとくべつ察しのいいタイプではないはずだが、いやだからこそ、わたしの反応をつぶさに観察してくれるし、なにかにつけて注意深さを重んじている。そういう慎重さを愛しいと思う一方で、こんなときは二人の間に立ちはだかる壁になってしまう。


「さっきの君下くんよりはビビってないと思うけど」

「ざっけんな、無理すんなって言ったろうが」

「あ〜〜だめだめだめだめ!!」


 離れようとするので彼の後頭部を鷲掴み、脚で下半身も固定した。我ながら思い切った荒技だが仕方がない。彼の強固なやさしさの壁をぶち壊すにはこのくらい力任せでないと。
 うおっ、と気の抜けた声を上げて、君下くんはふたたびわたしの身体に覆いかぶさる。倒れ込んできたと言うべきか。


「無理なんてしてないから。お願い、逃げないで」

「にっ……! 逃げてねえ!! クっっっソタワケがッ!」

「う〜〜そ〜〜だ〜〜〜! 逃げたでしょ! バカぁ!」

「バッ〜〜〜……!!」


 わざと焚き付けるようなことを言って枕を投げれば、案の定君下くんは面白いくらいに憤ってくれた。へんに気を使われて優しくされるより、いつものようにぷりぷり叱られるほうがずっとましだ。

 沸騰したやかんは徐々に勢いを失い、もうやかましく音を立てることも赤く熱を持つこともなくなった。やけに落ち着き払った様子で、凛々しい面持ちはサッカーをしているときのそれに近い。


「お前が嫌っていうならやめる。今日じゃねえっていうなら出直す」

「だから――」

「うまくできるかわからねえ。けど善処する。……それでもいいって物好きは大人しく口閉じとけ」


 腹をくくったゆるぎない眼差しに射抜かれて言葉が出なかった。関係が変わってしまうかもと恐れていたのはわたしのほうだったのかもしれない。

 わたしの閉じた口を、君下くんの乾いた唇が塞ぐ。相変わらず互いにつたなさがのこる口づけだけれど、震えるほど相手を思いやっているわたしたちなら、今もこの先も、きっと大丈夫。



(2017/01/05)


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