二限目終了のチャイムを合図に、教室の男女比は極端な変化を遂げる。男子は人目もはばからずその場で着替え始めるし、女子はそんなの見たくないとばかりに慌ただしく教室を飛び出し更衣室へ向かってゆく。
 それは洗濯機の中に放り込まれたくらいの目まぐるしさで、鈍重さに定評のあるわたしはいつもわたわたと翻弄されてしまう。


「あれ……っ?」

 そのうえ今日は着替えが見つからないというトラブルに見舞われ、いや、「見舞われ」だなんて表現は不適切でした。私自身が、確認を怠ったことによる不手際です、自業自得です。訂正してお詫びいたします。

 鞄の底が見えるほど探してもTシャツは見つからなかった。そうこうしているうちに、教室はすっかり男だらけの世界になっていて、残ったのはわたしとわたしを待つやさしい友人のみだ。


なまえ〜なにしてんの〜〜?」

「ご、ごめ、ちょっと待って、Tシャツがみつからなくってっ」

「え〜?」

「わ〜忘れちゃったかも〜〜」

「今気づいたの? 馬鹿だね〜?」

「馬鹿だよぉ〜」


 もうあきらめて今日の体育は見学しようかと思ったときだった。クラスで唯一着替えを始めていない男の子、いつにもまして眉間に皺を刻んだ君下くんが目の前で仁王立ちしているではないか。


「おい馬鹿」


 いかにも苛立っているといった様子で足をとんとんさせ、腕組したままわたしを見下ろしている。いや、睨みつけている。

 君下くんは怒りんぼだと思われがちだが、じつのところ彼はそういう顔なだけで、本当にキレていることはまれだ。とわたしは勝手に思っている。照れ隠しに激怒したふりをするような人だから。だけどこれは間違いない、君下くんは今どういうわけか非常にイライラのぷんぷんモードらしい。

 それは浅草の雷門にいそうな威圧感で、彼とバトルになったらわたしは壁まで吹き飛ばされ、栽培マンと戦ったときのヤムチャみたいになるだろうと思われた。

 わたし、これでもいちおう彼女なんだけどな。もうちょっと、こう、特別扱いとまではいかなくても、ほんの少し優しくしてくれたっていいんじゃないの。


「君下くん、なんか、怒ってる?」

「怒ってねえよ。なにのろのろしてやがんだ。早く出てけ」

「あの、Tシャツ忘れたみたいで……」

「チッ……とりあえず廊下出ろ」


 君下くんはまるで喧嘩の呼び出しでもするかのようにわたしを廊下へ引っ張りだした。
 周囲を見ると、ほとんどみんな着替えを終えていて、友人の姿は消えていた。君下くんだけがいまだにきっちりと制服を着たままだ。

 君下くんは後ろ手に教室のドアをぴしゃりと閉めると、無言で「キミシタスポーツ」と書かれた袋を差し出した。


「え……?」


 恐る恐る袋の中を覗いてみると、黒地に白で10と書かれた聖蹟サッカー部の、彼のユニフォームだった。


「一応、洗濯はしてある」


 なんとなくきまりが悪そうに呟くと、君下くんは逃げるように教室へ戻ってしまった。

 ほんとうにこれを借りてもいいんだろうか。だって、今日も部活で着るんじゃないの。いくつかの疑問と心配はあったけれど、教室では君下くんのストリップショーが始まっているだろうし(正直なところちょっぴり気になる)、このままここで突っ立ってたら遅刻は確定だ。

 わずかに逡巡したのち、わたしはユニフォームを胸に抱え、更衣室まで全速力で走ることにした。


 袋から取り出して広げてみると、けっこう大きいな、という感じがする。君下くんは男の人としては華奢な方だと思っていたけれど、こうして見るとわたしのTシャツの一回りは大きそうだった。

 それを頭からかぶると、先月おじゃました君下くんのお家の香りがした。君下くんが出してくれた薄い麦茶を飲みながら、だいぶ旧式のゲーム機で遊んだっけ。
 それから、ぽつりぽつりと交わしていたおしゃべりが突然止んで、しばしの無言ののち、彼はわたしの手を握り小鳥みたいなキスをしたのだ。「思い出し笑い」ならぬ、「思い出し恥ずかし」をして、頬の表面温度が急上昇してしまう。今なら顔で目玉焼きが焼けるかもしれない。

 彼のユニフォームはやっぱり大きくて、下に履いていたショートパンツは裾に隠れてほとんど見えなくなってしまった。遠目から見たらなにも履いてないように見えるかもしれないけどまあいいや。どうせ周りは女の子だらけなのだ、誰も気にするまい。



 大慌てで着替えを済ませ走って行くと、チャイムと同時に列の中へ紛れ込むことに成功した。ぎりぎりセーフだ、君下くんも間に合ったかな。
 体育館の隣半分ではすでに男子がフットサルをやっていた。何気なさを装って目線を彷徨わせ、彼を探してみる。

 ちょうど君下くんがボールを受けて、パスを出すかそのままドリブルで切り込むか、決めかねているところみたいだった。

 授業中の「聖蹟産君下敦 教科書と眼鏡添え インテリ風」は気品が有りとても魅力的だけれど、「聖蹟産君下敦 裸眼ジャージにサッカーボール添え 汗のソースをかけたスポーツマン仕立て」はそれぞれ素材の味がひきたてられていて、さらに味わい深いかっこよさだと私は思うのだった。もぐもぐ。

 君下くんのフルコースなら大金を払ってでも食べてみたいな、なんて想像をしていたから、もしかしたら物欲しそうな顔をしていたのかもしれない。

 不意に、体育館のど真ん中に設けられた網のカーテンごしに目が合った。いや、合ったなんてもんじゃない、稲妻みたいに視線と視線がバチバチと衝突し、拮抗しているような感じなのだ。

 こちらを見た君下くんは、まず目を見開いて喫驚すると、次に肩を怒らせ、あぁなんということでしょう、ずかずかと大股でこちらに近づいて来るではないですか。


「おい君下〜! どこいくんだ〜!?」

「クソならせめてボール置いてけ〜」

「ギャハハ」


 みんな彼の突然の行動に驚き、騒ぎ、茶化したり野次を飛ばしている。ミニゲームは中断されてしまった。サッカーボールは彼の左腕の中に収まったままだ。

 君下くんはそのどれにもお構いなしで、あるいは全てが意識の外にあるのかもしれない。
 すさまじい殺気を漂わせながら距離を詰めてくる。ついには網のカーテンを越えて女子のスペースにまで乗り込んできてしまった。卓球台の隙間をゴジラのごとき縦横無尽さで突き進むので、彼の周辺は不穏なざわめきがついてまわった。


「おい!!!!!!」

「ど、どうしたの君下くん……?」

「なんだっ! そのっ! 格好はっ!!!?」


 わたしの前にやって来るなり、君下くんは急に大声をあげ、次いで「なんでジャージを着ていないんだ」と、今度は打って変わって冷静な声で言った。


「え? 履いてるよ? ほら」

「〜〜っテメッ!!!!」


 ユニフォームの裾をペラっとめくって見せる。どういうわけか君下くんはひどく動転していて、裾をめくった瞬間なんて大げさに飛びのき、そのまま腰を抜かしてしまいそうだった。
 もしかしてなにも履いていないように見えたんだろうか。いくら無頓着なわたしでもさすがにそんな乱心は起こさないのに。さっきは遠くから、それも仕切りの網をはさんでいたし、眼鏡を外しているので余計見づらかったのかもしれない。


「っっっ長ジャージを着ろっ!」

「えぇえなんでそんな……これしか持って来てないよ」

「バッ〜〜〜カヤロウ……!」


 頭をガシガシとかきながら俯く君下くんはなんだか可愛かった。表情は伺えないけれど髪の間からちょこんと生えた耳が赤く染まっている。さわってみたいな、なんて思う。だって君下くんの耳はいつだって髪で隠されていて、滅多にお目にかかれないんだ。
 そろっと手を伸ばしたところで、気配を察したのか彼は勢い良く顔を上げ、わたしの手首を掴んだ。


「なんだ、この手は」

「……えへへ」

「笑ってごまかすなタワケ」

「髪にゴミがついてたから」

「嘘言え」

「……君下くんの耳がさわりたかったの」

「アァアア?!?!」


 ドスの利いた声だけれど、表情に怒気は含まれていなかった。むしろ困惑しているような、照れているような。頬が赤いのは暑さのせいじゃなさそうだ。


「……とにかくその格好はやめとけ」


 君下くんは諦念した様子でジャージの上を脱ぐと、その場で跪き、わたしの腰元に脱ぎたてのそれを巻きつけた。こんなこと言ったら笑われるかもしれないけれど、誓いの儀式の最中肩に刃をかざされた中世ヨーロッパの騎士様みたいだ。
 剣の代わりにサッカーボールを携えた騎士様は、わたしの腰の上あたりでジャージの腕の部分をぎゅっとしばると、「よし」と呟き、妙に満足気に笑った。


「体育終わるまで外すなよ」


 ミニゲームはいつの間にか始まっていた。君下くんは首に手をやりながら、なんとも言えない哀愁を漂わせ、戻ってゆく。10の字がない背中もかっこいいな、なんて思いながら、無地のシャツを見つめ続けた。














「君下くん、ユニありがとね」

「おう」

「洗濯して明日持ってくるから」

「は? いいから今返せ」

「えっ!?!?!」

「部活で使うんだよ」


 みょうじの手からユニフォームを半ば強引に奪い取る。案の定、取り返そうと突進してきたみょうじをひらりとかわし、それを頭上に掲げてやった。

 ぴょんぴょん跳ねて取り返そうとする様子は一見すると可愛らしいが、顔があまりにも必死なので俺の方もうかうかしていられないと思えてくる。事実、みょうじのジャンプ力は徐々に上がっているのだ。


「……やっ!!! 君下くん……っや、めてっ……! だめえっ!!!」

「妙な声あげんじゃねえよ!!! 誤解されんだろーがっ!!!!」

「だってわたしっ、汗とかかいちゃったし!! においとかも! うつってるかもっ!!」


 言われるがまま、汗に濡れたみょうじの裸体を想像してしまった。

 裸のみょうじは腕を胸の下で組み、悩ましげに俺の名を呼ぶ。頬が桃色に染まり、ふぅふぅと呼吸は浅く、熱でもあるかのようだ。
 その映像はところどころ霞がかっていて肝心な部分が見えない。思わず目を凝らしてしまう自分が不甲斐なかった。


「っ〜〜〜だぁああああ!!!!」


 首を振りながら奇声をあげて、いかがわしい妄想を取り払おうと試みるが無意味だった。

 その隙をついてみょうじが一際高く飛び上がった。指先で掴まれる寸前で右手から左手に持ち替える。まるでなにかの遊びをしているみたいだが、なまえはというと、金メダルでもかけた試合かのように真剣な眼差しでユニフォームを狙っていた。


「壁際で集まってしゃべってたの知ってんぞ! 一度でもまともに卓球やったか?! ろくに動いてねんだから汗一滴かいてねえだろ!!」

「それでも〜〜! なんかや〜〜だ〜〜〜!」

「バカヤロ引っ張んじゃねえ伸びるだろうがっ!!」

「か〜〜え〜〜〜し〜〜〜て〜〜〜〜!」

「……わかった、わかったから落ち着け、そして手を放せ」

「君下くんこそ」

「チッ……。部活は体育で着たTシャツ着る」

「ほんとっ?!」

「でもユニは持ち帰って俺が洗う」

「えぇえ……」

「こいつは意外と手入れが難しんだよ。うちは喜一の家と違って何着も買えねえから大事にしねえと」


 そこまで言うと、みょうじはようやく静かになった。さらには「ごめんね」とつま先を見つめながら呟く。
 おいおい俺はなにもお前をしょげさせるために言ったわけじゃねえぞ。大体俺の家が貧乏なのは今に始まったことじゃない。なんなら年がら年中金欠だ。先月なんて俺んちの座布団も麦茶もなにもかもが薄いことを二人で笑いあったじゃないか。全部くだらねえって笑い飛ばしてくれよ。

 そんな思いを込めて、みょうじの頭を雑に撫でてやる。野良犬の頭をかきまぜてやる要領で。


「うわっ、……も〜〜やめてよぉ。ぐしゃぐしゃになる〜」


 ようやくいつもの笑顔を見せたのが嬉しかった。

 体育が終わった直後なのに乱れなくさらさらな髪は一本一本に手入れが行き届いているような触り心地だ。ふわりと女っぽい甘い香りが漂ってきて、ふと「ユニフォームもこんな香りがするんだろうか」と思う。
 思うだけで実際に嗅ぐことはしない。なんていうかそれは変態的嗜好に分類される行為のような気がするし、なによりみょうじは嫌がるはずだ。しないのではなく、してはいけないと強く思うのだった。


「今日……。部活、終わるまで待てるか」

「うん! 待ってる!」


 じゃあなと言って立ち上がり、教室をあとにする。
 廊下を歩いていると、「君下くん!」と名前を呼ばれ、振り返れば教室のドアからひょっこりと顔だけ出したみょうじがいた。


「どうした」

「部活、がんばってね!」


 生首だけのみょうじは、真夏のひまわりを思わせる満面の笑みを浮かべ、ぶんぶん威勢よく手を降っている。控えめに手をあげて応えると、満足気な表情で首を引っ込めた。モグラ叩きのモグラみたいだ。


 すでにほとんどの部員が着替えを済ませてグラウンドに向かったあとのようで、散らかり放題の部室はしんと静まり返っている。普段もこのくらい落ち着く空間ならどんなにいいか。そんなことを考えながらベンチに座り鞄を開けると、みょうじから奪還したユニフォームが出てきた。


「…………」


 見慣れたそれをまじまじと見つめる。数時間前までみょうじが着ていた。なまえの素肌とふれあった布。

 そんなつもりはなかったのに、俺は、俺は変態的嗜好なんてないはずなのに、まるでブラックホールに吸い寄せられた宇宙に漂う星屑のように、己の意志とはまるで無関係に、気づけばユニフォームに顔を埋めていた。

 ちょっと待て君下敦、これはひどい裏切りなんじゃないのか。みょうじは俺を信用したからこそ、引き下がったんじゃないのか。その信頼を踏みにじっていいのか。どうなんだ。


 ユニフォームを鼻に押し当てたまま、呼吸を止めて膠着する。なにをしているんだ俺は。こんなところ、誰かに見られでもしたら――


「――君下くん、なにやってんの」

「うぉおお!?!?!」


 突然後ろから声をかけられて、驚きのあまりユニフォームをぶん投げ、どんがらがっしゃんと派手な音をたてて床に転がり落ちてしまった。その拍子に机にあったペンとか誰かのレガースなんかが辺りにちらばっているのが目の端で見えた。我ながらあまりに無様すぎる体たらくに言葉を失う。

 風間はいかにも「面白い」といった笑みを浮かべ、こちらを見下ろしていた。


「てめ、俺の背後に忍び寄るんじゃねえ!」

「あはは、なにそれニンジャみてえ」


 どうということはない、といった具合で、風間はいつも通り他人を小馬鹿にしたようにけらけら笑いやがる。
 よかった、俺の痴態を見られたわけじゃなかったんだな。そんなふうに安堵した時だった。


「そのユニ、好きな女のにおいでもすんの?」


 着替えを始めた風間は訳知り顔でにやりと笑っていた。



(2016.09/12)


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