「あっちゅん待ってえ〜」

「待! た! ね! え!! タワケが!」


 あらゆる泣き言を「タワケ!」と一蹴し、二段飛ばしで階段を駆け上がっていく。

 しかし実際のところそれは"駆ける"なんて表現にはほど遠く、ドタバタと騒々しさだけは一人前の、コントのような動きである。アルコールのせいかいつにもまして足元がおぼつかないなまえの手を引いて走るのは、日頃のトレーニングよりもある意味ハードだ。
 俺一人ならとっくに駅に到着し、切符でも買っている頃だろう。なまえの足の裏についているふたつの棘が、鈍足に拍車をかけているようだった。

 残業帰りの疲れきったサラリーマン、同伴中のホステス、大声で談笑する酔っぱらいの集団。夜の繁華街はあまりに雑多で騒がしく、しかし自らもその喧騒の一部であることに気づき、ふっと苦笑が漏れる。

 奮闘むなしく、駅に着くと電光掲示板には「本日の運転は全て終了しました」という文字がそっけなく浮かんでいた。


「終電、逃しちゃったね」

 えへへ。どうしよっか。嬉しそうに首を傾げるなまえの頬は、先程こいつが飲んでいた、見ているだけで口内に致死量の糖分が広がりそうな林檎のカクテルのように赤い。額にはうっすら汗が滲んでいて、前髪がところどころ張り付いていた。


「どうしようじゃねえだろ。俺は知らん」

「え〜?」


 形ばかりの不服を唱えながら腕に絡みついてくる、いかにもだらしのないアホ女を甘やかしているのは、他の誰でもなくこの俺じゃないのか。その事実に思い至ると、やれやれと溜息をつくのもなんだか違う気がした。そもそも俺もこいつと同じく、最終列車の時間を失念していた、いわば同罪なのだから。


「クソが……とりあえず外出るぞ」


 今日という一日の記憶を辿りながら駆け上がってきたばかりの階段を降りると、一段ごとに確かな疲労が蓄積されていく感触がした。なまえはというと、案外平気そうでウサギのように階段を跳ね下っている。

 夕方、待ち合わせの3分前にあらわれたなまえは、珍しく髪を巻いており、メイクもどこか違っていて横に並ぶと女特有の甘い香りがした。いつも以上に上機嫌で、久しぶりのデート(と言ってもたったの二週間だ)のこの日を一体どれだけ楽しみにしていたのか、ミュージカル役者を思わせる大げさな身振り手振りで語った。
 店に着いて早々、上戸でもないくせにスポーツドリンクでも飲むような爽快さで酒を飲むなまえがあんまり気持ちよさそうだったので、強く止めるのも気が引けた。それから、シャルキュトリーとかいう無駄に種類の多いわけのわからんハムやソーセージをムシャムシャ食べながら、なまえは心底幸せそうに「あっちゅんの誕生日をどうすごすか」という、まだ二ヶ月も先の予定についてあーだこーだと喋り倒した。
 すでにその頃、時計の短針は11を指していたのだろう。とどのつまり、俺も一緒になってなまえのおしゃべりにのってしまい、時計に目をやることすら忘れ、楽しんでいたのだ。


「チッ……」

 携帯をとりだすふりをしてさり気なく財布の中を確認すると、樋口一葉と福沢諭吉がそれぞれ一枚ずつ、申し訳無さそうに並んでいた。ここからなまえの住む地区まで電車で四駅ほどだが、深夜割増を考えると樋口一葉じゃ少し心もとなさがある。
 まるで見計らったかのように折良く現れたタクシーを呼び止め、俺は震える手で一万円札をなまえに握らせた。一ヶ月分の食費になるはずだった諭吉である。


「え〜なにこれ一万円札? あっちゅんの一ヶ月の食費でしょ?」

「タワケが! 釣りは返せよ! 領収書も忘れるな!!」

「いいよおこんなに。冷蔵庫空っぽだって言ってたじゃん」

「うっせえ! さっさと帰れ!!!」

「お家についたら電話していい?」

「いいから乗れ!」

「あっちゅんも一緒にーー」

「俺は歩く」

「なんでえ〜?!」


 なんでって俺ら逆方向じゃねえか。そう言おうとして、バックミラーに映る怪訝そうな運転手の眼差しとかち合った。口と一緒にドアも閉め、なんでなんでと騒ぐ女を無視して踵を返す。途中、振り返るとなまえは窓ガラスに両手と額をひっつけて、養子に出される子供のような眼差しでこちらを見つめ続けていた。


 春にはまだ遠い、桜の蕾が色づき始めた季節の夜は肌寒い。早足で家路を辿りながら、なまえはきちんと目的地を伝えられただろうか、などと考える。酔っぱらいとはいえ、子供じゃあるまいし自宅の住所くらいは言えるはずだが、あいつは飲むとすぐ寝てしまうから、運転手を困らせているかもしれない、やはり同乗すべきだったか……。
 このように要らぬ心配をしてしまうから甘ったれが加速するのだ。首を振って、あの林檎のように頬を赤くしたマヌケ面を頭の中から追い払ってみるがさほど効果はなかった。

 いつだって俺ばかりが、せわしなく一方的にあいつを思い、憂慮したり憤慨したりまるで道化じゃないか。

 そうは言っても、こうも俺が気を揉んでしまうのは、あいつがあまりに頼りなく、一瞬でも目を離せばヘリウムが入った風船のようにふよふよ風に飛ばされてしまうのではと、放っておけないと思わせる不安要素がなまえには多すぎるのだ。
 俺が心配性なんじゃねえ、あいつがだらしねえせいだ。そう自分に言い訳して、携帯電話の発信履歴の一番上にある「みょうじなまえ」をタップする。ワンコールで出ると思いきや、電子音が響くのみで、留守番電話にすら繋がらない。そろそろ家についてもいい頃だし、風呂にでも入っているのだろうか。

 しかし、それから1時間、俺が帰宅しシャワーを浴び終え深夜のつまらないバラエティを眺める頃になってもなお、なまえからの着信はなく、こちらからかけても応じることはなかった。LINEにメッセージを送ってみるが既読はつかないし、眠ってしまったのかもしれない。
 「お家についたら電話していい?」などと言っておいて、電話どころか「着いたよ」の一言すらよこさないなんて。あいつはいつも得手勝手な振る舞いで他人を振り回し、その事実にすら気づきやしない。

 この状況で、なまえに対する憤りよりも胸騒ぎが勝ってしまう自分に苛立った。これでは到底安眠できそうにないし、朝方まで悶々とさせられるくらいなら、いっそ。妙な諦念と共に財布を握り、コート一枚を羽織って外に出た。
 大通りに出てタクシーを拾うと不安は一層強くなり、早くなまえに会いたいという思いが募り、胸が締め付けられた。我ながら気持ちが悪い男だと思う。


 なまえのアパートに着くとエレベーターを待ちきれず階段を駆け上がった。思えば今日は階段で上下運動を繰り返してばかりいる。
 あがった息のままインターホンを鳴らそうとして、はっと我に返った。落ち着け、君下敦。本当に眠っているだけだったらどうする。
 代わりに、もしものためにと預けられていた合鍵を財布から取り出す。鍵を握る手が汗ばんでいるのが滑稽だった。出来る限り静かな所作で解錠し、ドアノブに手をかける――が、ガチャン、と鈍い音と確かな手応えが伝わり、一時的に思考が停止した。

 今、俺は確実に鍵を開けたはずだが、ドアは固く閉ざされたままだ。閉ざされた"まま"という表現は不適切なのだろうか。俺の記憶が正しければ、一度鍵を回しているから、つまり鍵は元々開いていて、それをたった今この手で閉めたことになる。
 「まさか」と息を呑み、もう一度、今度こそ間違いなく解錠した。


「タワケ……!」


 産毛が逆立つほどの緊張感を持ってドアを開けたのだが、そこにはフローリングの上で呑気にすぴすぴ眠るなまえが横たわっていた。玄関で、それも靴すら脱がず、コートも着たままで。


「……おい、なまえ、おい、起きろ」


 気持ちよく眠っているところを起こすのは気が引けたが、このまま玄関で眠かせるわけにもいかないし、抱きかかえ移動すればどのみち目が覚めてしまうだろう。
 軽く肩を揺らせば、むにゃむにゃと口を動かしてから、なまえはゆるやかに瞼を上げた。


「……ん、あれ……あっちゅん? なにしてんの?」


 なにじゃねえよタワケ、戸締まりはしっかりしろって言ってんだろ、玄関で寝るんじゃねえ寒いだろうが風邪ひくぞ、皺になるからコートくらい脱げ、靴はそろえろ、ストッキング電線してんじゃねえかどこでひっかけてきた、メイクしたまま寝たら肌荒れるぞ、明日早いんじゃなかったのか。
 この場で言わなくてはならない言葉ならいくらでも見つかった。しかし、赤ん坊のように俺の小指を握り、穏やかな笑みを浮かべるなまえを見つめているうちに、なにもかもがどうでもよくなった。


「テメーがピーピーうるせえから寝にきてやったんだよ。ほら、靴脱げ」

「……ん、ありがと」

「頼むから戸締まりだけはしっかりしてくれよ」

「もっちろん!」

「もちろんじゃねえだろ! バッチリ開いてたぞタワケが!」

「うっそだあ」

「嘘じゃねえ……クソッ」


 靴とコートと、どこでひっかけてきたのか伝染したストッキングを脱がせてやる。その間、なまえはわずかに目を伏せ、着せ替えされるバービー人形のように大人しくするものだから、なんだかいけないことをしているような、大事にしまっておいた秘密の宝箱の蓋を開けてしまったような、妙な後ろめたさを感じてしまう。


「やっぱり一緒にタクシー乗ればよかったね」

「うるせえ」

「いたっ」


 生意気な口を叩くなまえに手加減を加えたでこぴんをお見舞いしてやる。後輩にしてやるでこぴんの威力がレベル15だとすると、今のは1にも満たない程度で、「痛い」と言うくせになまえがけらけら笑っているのがその証拠だ。


「よかったあ」

「あ?」

「あっちゅんに会いたい気分だったの。タクシーのなかでもね、ずっと考えてたの、次に会える日いつだろうなって」

「……そーかよ」

「俺もだぜ、ハニー。って顔してる」

「し! て! ね! え!」

「ムキになってるってことは図星〜? うれしーかも」

「チッ……。勝手に言ってろ」

「うんうん。あっちゅんわたしのこと大好きだもんね。けどわたしのほうがあっちゅんのこと好きだと思うよ、好きな気持ちの比率的には私が7であっちゅんが3くらい」


 馬鹿言え、俺はテメーを心配するあまり深夜割増のタクシーに飛び乗るような男だぞ。
 四六時中お前のことを考えているし、3:7どころか9:1くらい俺の気持ちが強いはずだが、好意とはたとえ恋人同士になろうと伝わりづらいものなのか。壊れるほど愛しているのに3分の1どころか6分の1も伝わってないじゃないか。
 「好き」だとか「愛してる」とか、そういう小綺麗な言葉が不足しているせいでこいつを不安にさせているとしたら心底自分が情けなくなる。


「……なんでだ」

「え?」

「どうしてそう思う」


 神妙な顔で問いかけると、なまえは虚を衝かれたと言うような面持ちで口ごもった。いつもと立場が逆転している。たまには俺のほうがなまえを翻弄させてやるのも悪くはない。


「えっと……、だって、そうでしょ? わたしがベタベタすると嫌そうな顔するし〜、好きって言っても好きって言い返してくれないし〜、先に好きになったのもわたしだし〜。ほら、告白だってわたしが言わせたようなもんっていうか〜」

「俺は中学だ」

「え?」

「俺は中学のころからお前が好きだった」


 ぎゃんぎゃん騒ぐなまえを横抱きに持ち上げてなんとかベッドまで運ぶと、それから俺たちは戯れ程度のキスをかわして、仲の良い犬の兄弟のように寄り添って眠った。

 窓が開いているわけでもないのに、どこからか春の香りが漂ってきて、その晩俺はなまえと花見をする夢を見た。やさしい桃色が似合うなまえの横顔。そよ風が運ぶ花びらの雨がやわらかな髪に絡みつき、やがてそれは立派な花束そのものみたいに咲き誇り、俺は目を奪われる。

 なんの前ぶれもなくなまえは歌い出す。サウンドオブミュージックの修道女のように。すると場面は春から初夏に変わり、俺達は花畑の真ん中で手をつなぎ笑い合って踊っていた。なまえはたんぽぽの花かんむりを、今夜食べたハムと同じようにむしゃむしゃ頬張っている。夢のなかでもなまえは愉快なやつなのだ。
 そんな愉快な女のつむじにキスを落とし、草原のただなかに寝転がって青空を見上げた。それはちょうど、今夜なまえがなびかせていたスカートと同じ色だった。








(2016.05/21)

この話のポイントは「震えながら1万円札を握らせる君下さん」と「メルヘンな夢をみる君下さん」の2点です(わらうところ)


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