「今夜のお祭り、なまえも浴衣着てくでしょ?」
「え?」
えぇとわたし、まだ、行くかどうかも決めてなくて。自分の唇から出た声が思っていた以上にか細くて、なにも言わずに笑う友人の歯の輝きのほうが、よっぽど存在感を示していた。
うろたえるわたしをよそに、「金魚柄はちょっと子供っぽすぎだし、紫陽花くらいでちょうどいいかな」、なんて言う。そうだね、きっと紫陽花、似合うと思う。気の利かないわたしの返答は、4時間目の終わりのチャイムとクラスメイトのおしゃべりによりかき消され、彼女の耳には届かなかったようだ。
先生が予習ページを知らせているのに誰も聞いちゃいない。今夜はこの地区にしてはかなりの賑わいを見せるお祭りがあって、ささやかな数ながらも河川敷では打ち上げ花火まであがるのだから、中学三年の受験を控えた身とは言え、浮き立ってしまうのも仕方がないといえば仕方がないのだけれど。
「そう言えば、君下が出店やるんだって」
"キミシタ"、という言葉を聞いた瞬間、自分でも驚くほど大げさに肩がびくつくのがわかった。
「きっ、……君下くんがっ?」
上ずった声を無理に正そうとしたせいで、間抜けな抑揚がついてしまった。アメリカのCGアニメさながらに目をキョロキョロ泳がせるわたしは、挙動不審を通り越してもはや不審者に近い。夕暮れの公園をふらついていたらなにかしらの事案として報告されるに違いない。
「そう、毎年やってるんだって。君下ぁ〜! うちらにも出店のチケット頂戴〜!」
「……あぁ?」
彼女は手で頂戴の仕草をしているが、自ら動いて君下くんの元へ行く気はなさそうだった。
恐る恐る、視線を右側に寄せてみると、彼は般若のような形相で(どうしたんだろう、なぜかすごく機嫌が悪そうだ)眉間にしわを寄せていた。
君下くんは机ひとつ挟んだお隣の席だ。最後列なので、先ほどの眠気を誘う古典の授業なんかは、背中を丸めて机に突っ伏する生徒のなか彼だけがぴしっと背筋を伸ばし、板書を書き写しているのがとてもよく目立った。
わたしはときどき、眼鏡の向こう側で光る誠実な眼差しを覗き見ては、心臓の筋トレに勤しんでいる。
「てめえで取りに来いよ」
チッ、たわけが。ぶつぶつ小言をもらしつつも、なんだかんだ渡しに来てくれる君下くんは、やはり底抜けに優しい男の子なのだ。
どうしてみんな気が付かないんだろうと不思議に思う。彼ほど紳士的で、かっこよくて、可愛くて、賢くて、努力家で、チョコケーキの仕上げにかける熱せられたチョコのようにとろとろに甘く優しい、これほど完璧で素敵な人を、わたしは他に知らない。
午前中の体育の授業だってそうだ、スポーツ全般が得意な彼は、仏頂面で舌打ちなんかしながらも周囲に気を配り、運動の苦手な子にもバランスよくパスを出し、活躍の場を作ってあげていた。
きっと、体育の評価も内申に影響することを踏まえたうえで、勉強はできるが運動の苦手な委員長をフォローしていたに違いない。少なくとも、わたしにはそう見えたし、体育の後で委員長が君下くんにお礼を言っていたのを廊下で見かけた。(君下くんは無愛想に鼻を鳴らしたのみだったが)(恩を売らないところも素敵!)
厳しい口調や表情にとらわれず、彼の行動だけ切り取れば自ずと見えてくるはずだ、君下くんがいかに親切で、思いやりにあふれる紳士なのだと。
「私も欲しい〜!」
「なになに?」
「出店のチケット。50円割引だって」
「なんで君下がこんなもん持ってんだよ」
「親が出店やるらしいよ〜なんだっけ、焼き鳥?」
「焼きそばだタワケ」
つい数分前までは門限を理由に渋っていたくせに、今じゃもう頭のなかに祭り囃子が鳴り響き、どんな浴衣を着ようかとか、髪はアップにまとめるかワンサイドに流すかとか、そんな考えが花火みたいにはじけ散っている。
出店に行ったら君下くんの手作り焼きそばを君下くんから手渡しで受け取れるのかもしれない。君下くんが作る焼きそばはさぞ美味しいのだろう。ありがとう、おいしいね、君下くんってすごい。君下くん。あのね、君下くん。想像のなかのわたしは大変素直に気持ちを伝えられているようだ。
職人のようにコテを振るい、額に汗する君下くんを思い浮かべうっとりするわたしは、たぶん彼が好きなのだ。そう思い至った途端、急速に顔が熱くなって、チケットに伸ばす指が震えた。
「あ、ありがとう」
「……」
そっと、彼の手からチケットを受け取ろうとしたのだが、どういうわけか君下くんの親指にはものすごい力が込められていて、放してくれる気配がない。
「あの、……君下くん……?」
「……チッ」
向かい合って言葉を交わすだけでも神経がすり減るのに、鋭い目で見つめられ、さらに無言の圧力をかけられて、心臓がてんで言うことを聞いてくれない。
わたし、なにかしたかな。前後のやり取りを思い返すけど特に粗相をした覚えはない。
君下くんは今なお眼光鋭くわたしを見据えている。
「お前には、やらねえ」
思わず「ぅえ?」という間の抜けた声が漏れた。瞬間、力強く手首をスナップされて、指の間からチケットがすり抜けていった。
摩擦で指の腹がひりひりするのを感じながら、状況を把握しようと必死に頭を回転させてみるけれど追いつきそうにない。
「なにあれサイテー!」
「なまえ、気にすることないよ」
「君下ってたまに訳わかんないとこでキレるよな」
どの声にも君下くんはだんまりを貫いて、わたしの手に渡るはずだったチケットをぐしゃぐしゃに丸めると、そのままポケットにしまいこんでしまった。
帰り道に友人が新しいチケットをくれたが、到底お祭りに行く気分にはなれなかった。
夕飯は焼き魚を一度つつくのみで、あとはすべてラップをかけて冷蔵庫にしまった。狭い浴槽で体育座りをして、目を瞑り、何度も何度もあのときの彼の顔を思い出してみるが、いつまでもその瞬間だけ霞がかっていて実体を捉えきれない。もしかしたら最初から最後までわたしの妄想だったのかもしれない。
腹の底を打ち鳴らすようなどぉん、どぉん、という花火の轟を聞きながら、君下くんのポケットの中で眠る、丸められたチケットのことを思った。
(2016.02/03)
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