「横浜イレブン、六本木で夜のキックオフか」週刊誌の拙劣な煽り文を睨み付けながら、幾千回目の溜息をつく。

 ここ数日、なまえ宛てに送ったメッセージは不精の俺にしては珍しく片手で数えられる件数を超えるが、一つとして返事が返って来ることはなかった。電話をしても呼出音が鳴るばかりで、マシュマロと綿あめにチョコソースをかけて固めたようなあの声は久しく耳にしていない。何度か電源を切ったり入れたりしてみるが故障や接触不良ではなさそうだ。
 携帯を枕代わりに抱いて寝るアイツが三日もLINEをチェックしないとは考え難い。酔ってトイレに水没させた際も半日で復旧してみせたのだから、同時に両腕を骨折したとか、熱に浮かされ起き上がるのも困難だなんて差し迫った状況でもない限り。……いや待てよ。そんなはずねえ。まさかだろう。
 さしたる目的もなくリビングを端から端まで往復してみる。かえって言い知れぬ不安が募るだけだった。

 堪らず、本日もう何度目かも知れぬ着信を入れる。きっかり12コール目で留守番電話サービスに繋がった。先程と同様に通話を切ろうとしたところで思いとどまり、咳払いをしてからメッセージを入れた。

『話がしたい。何でもいいから連絡しろ』

 つい、いつもの癖で素っ気無い話ぶりになってしまったが、これから謝罪を申し上げる立場の人間が「連絡しろ」はなかっただろうか。せめて連絡してくれ、とか、大丈夫か?とか、まず真っ先に心配かけてすまん、とか、相応しい言葉は今更ながら脳裏に浮かんだ。



 プロに入って遠距離になった。

 遠距離といっても車を飛ばして一時間の近場だが、平日は仕事に追われるなまえと、土日は試合や練習で抜けられない俺たちに許された時間は、眠むる前のほんの僅かなひと時だった。
 学生時代はそれこそべったりで、一日の出来事を枝毛の数まで報告していたなまえが、訥々とした口ぶりで用件を掻い摘んで話そうと試みる様子は、あまりに健気で胸を打つものがあった。お互い今は我慢の時期だ。そう言い聞かせる夜が続き、何かの卵でも温め合うかのように当たり障りのない日々を送った。

 そんな折、薄い殻膜を突き破るかのごとく生れ落ちた悪魔の雛が、例の記事である。このように順序よく辿って顧みればなまえが俺と話したがらないのも頷けた。心ならずも愛する女を裏切り、傷つけ、共に育て上げた絆を手ずから踏み躙ってしまったのだ。


 留守電を残して間もないというのに長方形の液晶にガンを飛ばす俺は、会いたい会いたい震えてる昨今のラブソングより余程女々しいに違いない。
 再度LINEを確認しようと人差し指を伸ばしたその瞬間だった。画面一杯になまえの間抜けな笑顔が映し出され、掌が振動を感じ取る。まさかの着信だった。携帯と同じくらい指先を震わせながら、「応答」の文字に指の腹を押し付ける。酷い喉の渇きを覚えた。


「…………」

「もしもし……?」

「おう」

「……連絡、しないつもりだったんだけど。声聞いたらどうしても我慢できなくなっちゃって」

「そうか」

「……」


 沈黙が針みたいに突き刺さり、顔面から血が噴出しているのではないかと思われた。
 これ程までに気まずい思いが続くなら、一も二もなく謝り倒し許しを請いたい。過去幾度か些細な喧嘩やすれ違いこそあったものの、今回ほど危機的状況に陥った覚えはない。俺は明らかに困惑している。


「……フライデー、読んだか」

「うん」


 電話越しの声があまりにか細く、憂いに淀んでいて、俺は己の仕出かしてしまった罪の重さを改めて突きつけられた気がした。
 これならヒステリックに怒号を浴びせられ、ただひたすらに平身低頭して詫びるほうがよっぽど楽だった。泣き叫び汚らしく罵られたら、まだいくらか返す言葉はあったはずだ。

 珍しく感情を押し殺す彼女が沈黙という剣を振り翳し、丸腰の俺を怯ませる。今斬り付けられれば一振りでこの命脈は絶ち切られるだろう。


「わかってるよ」

 自らを説き伏せるように、なまえは言う。続けた。


「君下くんのこと、ちゃんとわかってるから」


 君下くん。なんと他人行儀で懐かしい呼び名だろう。場違いなチャイムの音と共に古い記憶を回顧する。あの頃なまえはやけに大人しくて、嬉しいときも泣きそうな顔で笑う、儚げな少女だった。
 唐突な呼称の変化は、二人の心の距離が、もうどうにもならないほど遠退いてしまったことの表れなのか。あるいはなまえもこの身に降り掛かる理不尽な仕打ちに耐えかね、当惑し、らしからぬ言動に走っているのかもしれない。どうか後者であってくれと願う俺は、身体を二つに折り畳み、ほとんど祈るようなポーズで携帯を耳に押し当てていた。
 いつもは照れくさく感じる舌っ足らずな「あっちゃん」という甘い声を頭の中で再生してみる。あの脇腹を擽られるようなむず痒い感触が、今は狂おしい程に恋しい。


「悪かった」


 ここ至って、初めて俺が口にする、謝罪らしい謝罪だった。

 本当は俺だってあんな店行きたくはなかった。そんな暇があるなら家でゆったりと身体を休め、お前の他愛ない話を、朝起きて夜眠りに就くまでの子細を一から十まで子守唄代わりに聞きたかった。飲みたくもない酒を舐め、ガンダムの腕についている武器さながらの装飾を爪に貼り付けた女たちがくれる形ばかりの賞賛なんてクソ食らえだ。六本木の中央分離帯で大の字になって鼾をかく先輩を置いて逃げ出したかった。

 それらは全て紛うことなき真実に違いないのだが、ひとつひとつ順を追って説明するにはくどく、いかにも言い訳がましい感じがして憚られた。
 されど今から首都高を走らせる気力も時間も残されていない。今俺の出来る範囲で、この女を安心させる手立ては他にないのだろうか。必ずあるはずだ。
 大げさに嘘ばかり並べ立てた醜悪なゴシップに汚名を着せられた末、俺たちが築き上げてきた掛け替えのない歴史がいとも容易く崩されていいわけがない。


「一緒に住まねえか」

 俺は意を決して、馬鹿げた話の口火を切る。


「住む?」

「あぁ」

「わたしと?」

「あぁ」

「あっちゅんが?」

「ほかに誰かいんのかよ」


 ようやく慣れ親しんだ名で呼ばれた安堵感と、普段通り間の抜けた受け答えに思わず噴き出してしまった。
 なまえは少し検討する素振りを見せたが、「うぅん」とか「あ〜」とか漏れ聞こえる声は心なしか浮ついていて、そう否定的な情緒を内包しているわけではなさそうだ。


「わたし、最近やっとお仕事にも慣れて」

「知ってる」

「今日ね、先輩にほめられたの」

「そうか」

「そうなの」

「指輪もやるぞ」

「え?」


 ここまで言ってしまえば流石の鈍感女でも察するだろう。シーン、という本来なら聞こえるはずのない静寂まで拾い上げる携帯は、なまえと揃いで買った、先月出たばかりの新作だった。


「ゆびわ……おそろいの?」

「揃いで、でっけえダイヤが乗ってるやつだ」

「…………うん、ありがと。でも安いのでいいよ、デザインもシンプルなのがいい」

「ちっ」


 そうじゃねえだろタワケが。ふざけてんのかコラ。おい。野郎が指輪を買ってやると言ったら、もっと、特別な意味があんだろうが。
 それともお前には、失態の詫びにブランド物で釣るような、そんな軽薄な男に見えているのか、俺は。

 心の中で地団太を踏むダサい男らしく、惨めな舌打ちをひとつ響かせて、俺はいよいよ腹を括る。


「結婚すんぞ」


 ひっ、と息を飲むような飲まれるような声が聞こえた。そこからはとても文字には起こせない、言葉にならない悲鳴が感情の洪水と一緒になだれ込んできて、俺は返事を聞かずともその答えを知る。





ハッピーエンドだぞタワケ(2014.12/30)


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